9話 下巻 第九回
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かくて黄金丸は、ひたすら帰途を急ぎしが、路程も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆けなどせしほどに。意外に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月田面に映る頃、漸くにして帰り着けば。鷲郎ははや門に馮りて、黄金丸が帰着を待ちわびけん。他が姿を見るよりも、連忙しく走り迎へつ、「《やよ》、黄金丸、今日はなにとてかくは遅かりし。待たるる身より待つわが身の、気遣はしさを猜してよ。去る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言がましく聞ゆれば、黄金丸は呵々と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目ぬしに引止められて、思はず会話に時を移し、かくは帰着の後れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫ぶるに鷲郎も深くは咎めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中に引入れて、共に夕餉も喰ひ果てぬ。
暫して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許にて聞きし事ども委敷語り、「かかる良計ある上は、速かに彼の聴水を、誑き出して捕んず」ト、いへば鷲郎もうち点頭き、「狐を釣るに鼠の天麩羅を用ふる由は、われ猟師に事へし故、疾よりその法は知りて、罠の掛け方も心得つれど、さてその餌に供すべき、鼠のあらぬに逡巡ひぬ」ト、いひつつ天井を打眺め、少しく声を低めて、「御身がかつて救けたる、彼の阿駒こそ屈竟なれど。他頃日はわれ曹に狎みて、いと忠実に傅けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗なら知らず、苟にも義を知るわが們の、作すに忍びぬ処ならずや」「実に御身がいふ如く、われも途すがら考ふるに、まづ彼の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他が命を取らば、怎麼にも恩を被するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探し捕らんに如かじ」ト、言葉いまだ畢らざるに、忽ち「呀」と叫ぶ声して、鴨居より撲地ト顛落るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶と見れば、今しも二匹が噂したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血夥しく流れ出るに。鷲郎は急ぎ抱き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面も血に塗れたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬にや襲はれたる」「疾くいへ仇敵は討ちてやらんに」ト、これかれ斉しく勦はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾自らかく成り侍り」「さは何故の生害ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙しく問かくれば。阿駒は潸然と涙を落し、「さても情深き殿たち哉。かかる殿のためにぞならば、捨る命も惜くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願に侍り」「さては今の物語を」「爾は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾去る日烏円めに、無態の恋慕しかけられて、已に他が爪に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情にて、不思議に繋ぎ候ひしが。彼時わが雄は烏円のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山桝落し、地獄落しも何のその。縦令ひ石油の火の中も、盥の水の底までも、死なば共にと盟ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命へて今日までも、君に傅きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈されて、早晩かは君の御為に、この命を進らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心私かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉を噛みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生ひたる若草の、根を齧りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給べ。日頃大黒天に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告の、とり乱したる前掻き合せ。西に向ふて双掌を組み、眼を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
二匹の犬は初より耳側てて、阿駒が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆して、「さても珍しき鼠かな。国には盗人家に鼠と、人間に憎まれ卑めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇めり。これを彼の猫の三年飼ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別あり。むかし唐土の蔡嘉夫といふ人間、水を避けて南壟に住す。或夜大なる鼠浮び来て、嘉夫が床の辺に伏しけるを、奴憐みて飯を与へしが。かくて水退きて後、件の鼠青絹玉顆を捧げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐の報恩に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば免れぬ因果なりけん。さばれ生とし生ける者、何かは命を惜まざる。朝に生れ夕に死すてふ、蜉蝣といふ虫だにも、追へば逃れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅の、辛き思ひをなさんとは、実に得がたき阿駒が忠節、賞むるになほ言葉なし。……とまれ他が願望に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水を釣よせて、首尾よく彼奴を討取らば、聊か菩提の種ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸を調理すれば、鷲郎はまた庭に下り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。