2話 二
読み方を変える
新見は食後、入浴して室へ這入らうと思ひ乍ら、少しの間ハリス館の入口の下駄箱の横に立つて何を見るともなしに見て居た。
サムダム・ホールのB室には瓦斯が点いて居る。幼年党の会合であらう。山川総理の宅にも玄関に瓦斯がついて居る。
サムダム・ホールと山川総理の宅の間にはサムダム館の尖つた塔の先が見える。尖つた先には十字架が付いて居る。が、黄昏時の木葉に包まれて、ほんのりと薄く見えるあたりは、森の中の修道院が忍ばれる。
年々植ゑ込む卒業生のクラス・ツリーは繁りに繁つて夕闇が段々、木と木と、枝と枝と葉と葉とを繋いで、もう何本あるか数へられぬ様になつた。
瓦斯が益々光つて運動場に人影が絶えた。
神学部には何の光もない。小杉に包れたインブリーさんの西洋館からは小さい光が洩れる。ヘボン館は大きく高く、そして広い場を取つて、つき立つて居る。瓦斯の光が各室から輝いて居る。
ヘボン館の裏から単調なピアノの音が聞える。ヘボン館の入口から今出て来た者がある。新見の立つて居る方へ来る。ハンチング帽を冠つて羽織を着て居る。新見は直ぐ塚本だと見て取つた。二間許りになつた時、
『塚本君』と、こちらから声をかけた。
然し塚本は寂しく足を運んで答も何もしない。入口の台に昇つて、初めて、
『ア、新見君、僕は失敬した。昨日、来ようと思つて居たのだが、一日忙しくてね。今日、舎監室へ来た序に君の所へ寄らうと思つてね――』
『それぢや、まア僕の室へ行かう』と新見は塚本と梯子段を上つて行つた。四段上つてステーヂに来ると、新見は一寸塚本を顧て、
『駄目?』と尋ねたが、
『アレ? アレはもう駄目だ。高等商業の生徒がもう疾に就職して居る相だ。そして全く金儲にはならないつて』新見は此答に少なからず失望した。然し別に顔色にも現さず、塚本を自分の室に伴ひ入れた。
梯子段を上つて左に入口がある。入口の正面が鈴木の室で、その西隣りが新見の室である。鈴木はまた食後散歩に出て行つて、未だ帰つて来ぬか、瓦斯がついて居ない。
新見は自分の室に這入つて瓦斯に火を付けた。
瓦斯の光は室の隅から隅まで輝らして気色がよい。
室は六畳敷で畳を敷いてある。壁は真白。褐色にセピアを混ぜた色を塗つた腰板が打ちつけてある。之は昔教室であつた記念物である。窓は西と北に二つ開いて居る。南は障子で隣室と境をしてある。テーブルが西北の隅に置いてあつて、本箱の大きな者が、入口の正面にある。
『まア、かけ給へ』と塚本に云つて瓦斯管を出来るだけ長く延ばした。机の上は美しく照されて、ブツク・ケースの金文字がよく読める。教科書らしい者はウイリアムの政治汎論だけで、其外皆宗教哲学の書籍であつた。赤色の一番厚いのはフリントの歴史哲学、青色の薄い本が四冊、これはフライダラーの宗教哲学、カントを大分研究して居るらしい『理性批判』も見えたがミラーとチヤアドのカントの研究も見えてゐた。一番隅の、樺色の表紙のついた本はセント・アベスタと読めた。開いたまま横に捨てゝあるはウバニヤセツド。聖書もあつた。
塚本は入口に立つて居たが、
『ア、有難う』と答へて本箱の上に掲つて居る、レロラの画を見に行く。
『新見君之はいつ見ても善いね。僕は之が非常に好きだ』
『君もこれが好きかね。此哀れつぽい自然に、女性に抱れた男の児を現してあるのが、僕も何となしに心の中に浸みる様に思つてね、好きだよ』
女性云々と聞いた塚本は笑ひ乍ら、
『君、可笑い事を云ふが、君は近頃女の人から手紙を貰つた相だね。そして悲観して居るつて?』と云ふ。
『誰れに聞いたの、そんなことを?』
『先刻ね、ヘボン館で大勢で噂して居たよ。君が昨日悲観して学校を休んだと云ふ話からね。原因は高田が四、五日前に君が女の人からラブ・レター貰つて読んで居る所を見付けて皆に喋つたからだつて? 昨日の朝、君はワイフを一生持たぬと云つて室に閉ぢ籠つた相だね。ほんたうかね?』
『嘘だよ。五日前に妹から手紙を貰つたのさ。それを高田が云ひ触らして終つたのだよ』
『然し妹の手紙なら見せても善いぢやないかと高田が云つても、君は見せなかつたつて?』
『そら少し秘密が書いてあつたから見せられなかつたのさ。彼の連中は、騒げば善いのだから哲学者が女から手紙を貰つたと云つて大騒をするぢや無いか。明治学院へ這入つて妹から一度しか手紙を貰はないし、女の友達と云ふのは外に無いものだからラバーだと騒ぐのも当然だね』と新見は語つたが、妹からの手紙の内容を頭の中で繰返して胸苦しい鼓動を感じた。
新見は塚本が椅子に掛けないので、自分が掛けて尋ねた。
『塚本君、例の事件は何うなつた?』
塚本は顔を一寸向けて新見の顔を見たが、また右の手で羽織の紐を弄りながら、
『僕は実際困つた。今舎監室へ頼みに行つて来たのだが、駄目ぢやつた。僕はもう学校を退くことに決心した』と云つて俛いた。
『退く? さう決心したの? 全く同情するよ。然しさうなれば仕方が無いさ。が、君は学校を退いて何うする積り? もう二年辛抱して高等学部を卒業すれば善いがね。さうすれば社会の信用はあるし、また外国語の素養も出来るし、非常に都合は善いのだがね。然し君、此度君が明治学院を出ると云つても、君の過去三年間に対しては明治学院は、君の恩人だよ』
『実際僕は三年間の恩を忘れぬね。また忘れられぬよ。然し此上恩を受けたく無い。今迄でも寄宿舎の諸君に、そら売るのは売るのだけれど、何だか、菓子を見せて金を絞り上げる気がしてね。何度も菓子を売る事を止めよう、止めようと思つたのだがね』
『いや、そらさうぢや無いよ。菓子を売るのは正当な事で、君が売らなくとも皆が外へ食ひに行くから同じだが、舎監は何う云つた』
『舎監はね、三ヶ月の食費が滞つて居るので、もう整理の付け様がないから、君は昨日迄に一ヶ月分位出来ると約束したが、それが出来ないと云ふのなら仕方が無い。賄も決して慈善的に遣つて居るのぢや無いから、それぢや、一先づ寄宿舎を出て貰はうと云ふぢやないかね。僕も悪いと思つたから、別にヱクスキユースも無いので「ハイ」と答へて出て来たのさ』
『然し、舎監の云ひつ振りが変だね』
『舎監は正当さ』
『なに、生意気だよ。賄は慈善事業ぢや無いから出よつて。一ヶ月位此上待つても善かりさうなものだにね』
『然し、実に賄も僕の様に遅れては困るよ、ね』
『でも、舎監はクリスチヤンぢや無いか、君の事情は知つて居るし、君が困れば立て替へて置いても君の修業の為めなら尽力すべき筈だらう。――君、それぢや一ヶ月分収めたら臨時の間は学校に置いて呉れるのかね』
『そら置いて呉れるだらう』と塚本は答へて見たが、哀れに低い声であつた。
『ね、塚本君。それぢや、君』と新見栄一は決心の色を顔に現して右の手をさしのべて机のひき出しから五円紙幣を取り出した。
『君、之れを君に用達てるからね、舎監に払つて来給へ。そして少しの間でも学校で勉強し給へ。然し僕に返す必要は無いよ。之は君に永遠に貸すよ』
『然し君、先月の四円もまだ払つて無いに、また之れだけ貰つちや君に気の毒だよ。君は本を買は無くちやならぬだらう。僕は之を貰へぬ。こちらから四円返済しなくちやならぬのぢやないですか』と羞かしさうな眼付きをして紙幣を取る事を拒んだ。
『然し君、君は僕の心事を能く知つて居るだらう。僕が一冊の本を多く読むより、君に一ヶ月勉強をして貰ふのが僕の意志だと云ふ事は君も知つて居るだらう』と新見は真面目になつて云つた。それで塚本も、
『そら君の意志は知つて居るさ。――然し』と語尾を濁らした。で、新見は、
『塚本君。それぢやね。僕も実は之れを妹から貰つたのだ。今日小切手を紙幣にして来た許りなのだよ。僕も、そら君に何か飜訳の口を探して貰う位だから僕が学資に豊で無いことは知つて居るだらう。然し、いくら豊で無いと云つても本が買へぬと云ふだけだから、決して君が之れを取つて困ると云ふ事は無いよ。何に君、貰つた物だから君も取ればそれで善いぢやないか』と情意を尽くして説いた。
塚本は一寸南隣の室を見て誰れも居らぬと思つたから、
『それぢや、少しの間だけ借して貰はう』
『貸すも、貸さんも無いよ』
『ありがとう――』と塚本は答へたが、少しの間黙つて居た。
新見も暫時沈黙して居たが、
『君、それでは矢張り学校に出席する?』
『僕ね、新見君、舎監もあア云ふから暫時寄宿舎を出て英語の出教授をやつて少し学資を作らうと思ふが何うだらう?』
『然し、また学校へ帰れることが出来るかしら』
『まア出来るか、出来ぬかやつてみるさ』
『然し世界は全く我々の思つて居る様に都合よく行かないからな』
塚本は俛いて黙つて居る。瓦斯の下品な光が彼のチツクで別れた縮れ毛の上を照らす。
『君、世界に出て行くには信仰と云ふ者がいるよ。僕なども信仰を得るために、どれだけ苦心して居るか知れないよ』と新見は云つて見たが、塚本は窓に倚つて瓦斯の光を凝視しながら、
『然し、君、僕には神とかキリストとか云ふのは全く解らぬ。僕は何だかキリスト教と云ふ者を迷信の様に思ふよ』と少し微笑んで云つた。
『さう云つて終つたもんぢやないよ、僕だつてクリスチヤンぢや無いが、何に云つても四千年の歴史を貫いて流れ出た宗教の憧れに、真理が少しも無いと云ふ事は出来ぬよ。僕にはまだ十字架の真理は充分解らぬが、キリストの人格は実に偉大ぢやないかね』
『そら偉大と云ふ位の事は僕も知つて居るが、僕には解らぬ。信者でも信者で無くても、日に日にすることは同じぢやないかね。事によつたら、未信者の方が信者より品行方正な事が多いよ』と強く塚本は反対して見た。
『君はいつもさう云つて居るが、仮りに社会へ出て見給へ。それで遣つて行けるか。信仰なくつて、……』と此時新見は、妹の手紙と故郷のことを思ふて居た。
『然し、人生は悲劇だね』と新見は続けて云つたが、塚本は唯軽い笑を洩らして、
『君は、いつも悲劇とか喜劇とか云つて居るね。僕には人生は悲劇でも喜劇でも無いよ。全く何が何やら薩張り解らない』と云つた。新見は唯、机に向つて頬杖ついて沈黙して終つた。塚本がそう云へば自分の頭にもさう云ふ響がするからである。
暫し経つて、塚本は去つた。新見は引き出しから妹の手紙を取り出してまた読んで見た。手紙は書翰文と言文一致と混ぜて書いてあつて、誠に読み難い。
一筆申上候。
兄上様には御機嫌よろしく候や、久しく御無沙汰申候、私儀も無事暮し居り候間御安心被下度候。
さて兄様、私は日に日に泣く事ばかりで、こんな事ならいつそ死んでしまひたいと思ふ位で御座ります。田舎の御母様には朝から晩まで使ひ立てられて、何につけ、かにつけ、お亀さんの子ぢやのに何んでそんなに出来が悪いのだとおこられてばつかり、ごぜんもろく/\食はしてくれず、下女よりひどく使はれ、つらうて/\堪らず、四十日程まへにお父様の所へ逃げて来たのです。然しお父様は少しも私をかあいがつてくださらず。お父様の今度の妾宅のお梅がそれはそれは私をひどいめにあはして、こゝへ来ても日に日に泣いて居ります。兄様何卒私を助けてください。私は唯兄さんばかりたよりにして居ります。それにお父様は兄さんを非常に御立腹なしていらつしやいます。此月からもう学資金は送らぬとおつしやつて。兄様此金五円は少しにても学資のたしにしてください。私もなんなら東京へ、兄様を便りに逃げて行かうかと思つて居るので御座ります。田舎のお母様やお梅に使はれるより東京へでも行つて下女奉公でもした方がずつとましで御座ります。兄様何かよいお考へでもおありなさるなら至急お知らせ被下度候。私はつらうて/\涙がこぼれて書けませぬ。まだ/\色々申上げたい事もあれどまたいつか申上可く候。
猶御身体を大切になし被下度候。
二伸
返事一刻も早くくだされ度候。
読んで、新見は妹笑子の哀れな運命に同情した。そして再び読んで涙を流した。が此涙は塚本の運命と自分の運命を悲しむ涙も含まれて居た。
新見は頭を抱へて机の上にうつ向いて、もの思ひに沈んだ。
隣りの室に足音がする。軈て塚本の声がして、
『それぢや君、五、六円出来て居たのだが、外に怎うしても使はなくてはならぬ事があつて、一円使ひましたから』と云つて居る。
『ハ、有難う』と丁寧に答へる。
『失敬』と塚本は云ひ捨てゝ、障子を閉めずに梯子段を降りる足音がする。
『ア、また』と違つた声の男が云ふ。そして続けて、
『田中君、塚本は怎うもいかんね、矢張り』と云ふ声がする。
『ほんとに、いかんね。自分は生徒に菓子売つて、食費を納めず買ひ食ひして、弁解には嘘許り言つて、他人の室へ来ては尻もふかずに……』と丁寧な答をした男が云つて居る。
之を聞いて居た新見は、ハツと驚いて涙を拭き乍ら『田中君』と自分の悲しみの声を隠すためにわざと大きな声をして隣室の男を呼んだ。
『ハア、何ですか?』と少し驚いたらしい。
『塚本君は嘘を云ひますか?』聞いて猶驚いた田中は、
『君、そんなこと、どうでも、いゝでせう』
『それぢや君。僕は君に問へないのですか?』
『な、な、なに、なんでもないのですよ』と田中で無い若い声がする。春日であらう。
『春日君。君塚本は怎那嘘を云ひました?』
『新見君。普通部の五年の椙田を御存知でせう』
『知つて居りますよ。怎うしました?』
『椙田君が此間塚本君を擲つたさうですよ』
『擲つた? なぜ?』
『あの……云はない方がいゝかね。田中君』
『云つて呉れ給へな』と新見は云ふ。田中は、
『君はそんなに聞きたいのですか? 君も物好きだね』と苦笑ひして云ふ。
『僕は物好きと云ふのぢやないのですが、塚本君とは、僕は親密にして居るからね。聞いて置く必要があるのです』
『き、き、きみ、塚本君が悪いのですよ。菓子売つて食つてゐる癖に、月に幾円と外で買い食ひをするのでせう。そして食費を払はないのですよ。之を椙田が聞いたのでせう。椙田君すぐ怒つてね、制裁を加へる必要があると云つて一昨昨日の晩、神学部の裏で塚本君を擲つたさうです。塚本君、賄の方へは懸売が多くて払へぬと云つて、口実許り造つて居るのです。実は皆林檎や菓子を食つて居るのですよ』
新見は、聞いて全く驚いた。然しまた不憫な塚本が擲られたかと可哀相にと思ひながら。………………
『然し椙田君は矢張り悪い』と云つた。
『何故ですか』と今度は田中が声をかける。
『君、さうでせう、塚本の収入は月に僅か八円でせう。その中で懸をする人が一円として、舎費が一円。残りは六円でせう。六円の食費を払つて、授業料を免除して貰つて一毛も残らぬでせう。然し授業料を免除して貰ふ為めには放課後一時間なり二時間なり労働しなくちやならぬでせう。その上に勉強して運動もしなくちやならぬと云へば、社会は残酷ですねえ、快楽の一雫も塚本君には与へないのですね。人間は快楽なしに生きて行く必要があるかしら?』と新見は云つてみた。
塚本は実際意志は堅固でない。屡々新見に菓子の資本を借りに来て返さなかつた。然し新見は之を罪として責めなかつた。それで今も同一の論法で論じて居る。
先刻から障子を隔てゝ問答して居たが、顔を見ぬと何だかもの足らぬので、
『さう云へば、さうですけれども』と田中は間の障子を開いて新見の室へ這入つて来た。春日も後に追いて来る。田中は年の頃二十三四。大きな脊の男で顔付の魁偉な、然し何処かに少し足らぬ所がある様に見える。彼は塚本と同級生で新見の一級下である。彼も苦学して居るので、賄の手伝をして食費を集める役をして居る。之をすると食費は払はなくても善いことになつて居るのである。春日は十七、八の美しい青年、高等科の一年である。田中と春日とは大の仲善しで、自習から、散歩、運動、旅行、教会と二人の一緒に居らぬ事は無い。それに妙な性質が二人に共通してゐる。即ち、非常な冒険家で自然を熱愛するのが共通点である。真夜中でも春日が天文学の本を持つて田中がランプを見せて運動場の真中に星座を研究して居る二人を見ることは度々である。
彼等二人は、塚本に対する新見の弁解を聞かうと思つて連立つて新見の机の横に立つて居る。田中は春日の右の肩に手掛けて、机の上を見降した。田中は静に口を開いて、
『君の議論は非常に極端だから駄目ですよ。僕は塚本君が制裁を受けるのは当然だと思ふ。塚本君は他人の金で勉強して居る様なものでせう。それに快楽を求めるなどと云ふのは一体間違つて居るのですよ。元来他人の金を的にするのが間違つて居るのですよ。学校が苦学をさして遣るのは非常の恩沢ぢやないのですか。その上快楽まで求めたいのなら、学校を退いた方が善いのですよ』
感情の強い新見は、田中の惨酷な論鋒に泣きたくなつて来た。
『田中君、僕は君の様な品行の正しいクリスチヤンから、そんな消極的な道徳論を聞きたくはありませんよ。君等クリスチヤンが、そんな浅薄な道徳に満足して居るのなら、もう東京中の大きな教会堂を捨てゝ芝の増上寺へでも行つて説教を聞き給へ。今度塚本君は退舎されて、従つて休学しなくちやならぬ様になつたのも、全く君等クリスチヤンの無情からだよ。舎監に同情なく、君に同情なく、塚本君は遂に休学しなくちやならぬ様になつたのさ。キリスト教は唯教理ばかりかね。真に、口にアーメンを唱へるならば、進んで衣服を売り書籍を売つても塚本君を救ふべきぢや無いですか。記憶て居り給へ――君達クリスチヤンは既に塚本と云ふ一人の男を地下に葬つたのだよ』
眼に涙を泛べ乍ら激した句調で新見は論じた。
『それなら、君から、さうして試てはどうですか?』
『僕は少くとも、さうして居ると云ふ自信はあります』
『然しそんな事が行へるかどうか、僕は疑ふね』
『然し君、キリストは何と云つた?……キリストは君等の衷には居らぬ。教会は皆キリストの敵だ』と云つて新見は二人の視線を避けて袖で涙を拭いて居た。田中と春日は新見が恁那に感情の高い男だとは知らなかつた。それで今更ながら驚いて、
『僕は哲学者と云ふ者は恁那に感情の強い者だとは知らなかつた。新見君の様に、そんなに感情を強くしては議論が出来ぬ』と田中は云つて、春日を誘つて自分の室へ帰つた。二人は何かぶつ/\話して居たが、直ぐに瓦斯を消して何処かへ出て行つた。
新見は唯泣いた。
クリスチヤンの道徳の程度の低い事から教会の事、此月限りに自分も苦学生の仲間に這入らねばならぬこと、可哀相な塚本の運命、愚鈍な妹のことなどを思つて泣かざるを得なかつた。そして、妹も己も何故此様な悲哀な境遇に立たねばならぬかと思つて欷咽した。
遂に新見は決心した。……もう自分も明治学院を退学して――平凡に然し高貴な理想を以つて現実生活に身を投じなければならぬ。継母も父も可愛がつて呉れぬ独りの妹と、真に高尚な理想生活を田舎で実現するに勝るものは無いと。彼はその夜直に故郷に出発しようと決心した。旅費の事をも心配したが、本を売らうと覚悟した。
先ず面を洗つてとバケツを取つて井戸側に降りて行つた。大熊星はまだ北の空に、高く懸つて居る。時刻は八時を過ぎまい。幼年党は拍手して騒いで居る。新見は『苦き十字架の杯!』と釣瓶を手に持つて独言を云ふた。
面を洗つて居る時鈴木がヘボン館の方から来たので、故郷へ帰る意志を述べて、十時三十分の列車に間に合ふ様に古本屋を呼んで来て呉れと依頼した。
晩の十時三十五分、神戸行の列車に品川から乗つた一人の学生があつた。五、六名の友に送られて淋しく西に立つた。それは新見栄一であつた。