影 (一幕)

3話 影 (一幕)(3)

9,380字 約19分 2013年8月20日 公開

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金八(きんぱち)、あだ名はがら(ぱち)又はがら(きん)……。()しインチキだと思召(おぼしめ)すなら、念のために役場へ行って、戸籍の謄本(とうほん)をお取りください。あはははははは。

旅人  ((うらや)むように。)あなたは全く(ほがら)かですね。

おつや (いよいよ調子が崩れて来る。)ええ、ええ、大いに(ほがら)かよ。この頃の流行(はや)り言葉で、明朗(めいろう)とか云うんですよ。それでも月に村雲(むらくも)、朗かな人間にも時々に虫の居所の悪いことがあって、主人とも衝突いたします。電車だって自動車だって屡々(しばしば)衝突する世の中に、芸妓(げいこ)が主人と衝突するのも不思議はないでしょう。ねえ、あんた……。あたしはあんたの名を知らないから、まあアンちゃんにして置くわ。ねえ、アンちゃん、そうでしょう。君(もっ)如何(いかん)となす。あはははははは。

重兵衛 (苦々(にがにが)しそうに。)どうも騒々しいな。()い加減に(しゃべ)って置け。一杯や二杯の酒で調子の狂うお前じゃあねえが、今夜はよっぽど下地(したじ)があるな。

おつや おじさんの千里眼(せんりがん)は偉い。実は熱海の駅で汽車を待っているあいだに、休み茶屋へ飛び込んで、ビール一本と何だかの罎詰(びんづめ)一本、まさかに喇叭(らっぱ)()らないけれども、息もつかずにぐっと聞こし召して、その勢いで猛烈に、かかる山路(やまじ)突貫(とっかん)して来たのよ。そのくらいのアルコールは途中で醒めてしまった筈だが、この狭いところへ這入(はい)って、焚火にかッかとあぶられたら、又その(よい)が一度に発して来て、いよいよ(ほがら)かになって来たのよ。なんだか知らないが、今夜はトテモ愉快で嬉しくってならない。さあ、アンちゃん。もう一つお酌をして下さいよ。

    (旅人は無言で酌をすれば、おつやは続けて飲む。)

重兵衛 まあ、お客さん。失礼は勘弁して()ってください。こいつは自分でもいう通り、がら金のがらッ八で……。それだから行く先々で主人と喧嘩の絶え間がないのですよ。商売が商売だから、丸ッきり飲まねえわけにも行くめえが、女のくせに大酒(おおざけ)をのむ、掴み合いの喧嘩をする……。

おつや およしなさいよ、他人様(ひとさま)の前でそんな色消しなお噂は……。そういうのを流言蜚語(りゅうげんひご)とか云って、この頃は警察の取締(とりしま)りが非常にやかましいんですよ。さあ、口塞(くちふさ)げに、白いおじさんにももう一杯……。(重兵衛に酌をする。)あたし達ばかり勝手なことを云って飲んでいちゃあ、それこそ失礼だわ。(旅人に。)さあ、あんたも召上(めしあが)れ。何を陰気らしく考えているのよ。

旅人  いや、わたしは飲まないんです。

おつや 飲まないのに、どうしてこんな大罎(おおびん)を買い込んだの。

旅人  水の代りに買ったんです。

おつや 水の代りなら、サイダーでも買えばいいじゃありませんか。嘘、嘘……。あんた(きっ)と飲むのよ。さあ、がら金に恥を()かせないで、愉快にサアビスをさせて頂戴よ。

旅人  いや、せいぜいが一杯ぐらいで、その上はまったく飲めないんです。わたしは野暮な人間で……。

おつや 嘘つき……。(睨む。)あんたが野暮天か道楽者か、その見分けが付かないようで、(はばか)りながら芸妓(げいこ)鑑札(かんさつ)を持っていられるかって云うんだ。モダンの富士(もう)でのような風をしていても、あんたがどんな人間か、眼力(がんりき)ひからす松王丸(まつおうまる)ちゃんと睨んでいるわ。ねえ、アンちゃん。あんたは随分芸妓なんぞに可愛がられたことがあるでしょう。

旅人  ((ひやや)かに。)ありませんね。

おつや それじゃあカフェー……。

旅人  (やはり(ひやや)かに。)いいえ。

おつや 芸妓にも女給さんにも御縁がないの。

旅人  ありません。(重兵衛をさして。)今もこちらに話したんですが、わたしは我ながら哀れな男ですよ。

おつや あんたの御商売は……。

旅人  東京でつまらない(あきな)いをしていましたが、それももう()めてしまって……。(我を(あざけ)るように。)まあ、与太者(よたもの)かルンペンだと思ってください。

おつや ルンペンはよかったね。まあ、なんとでも猫をかぶっていらっしゃい。(笑う。)あんたは野暮な人間で、哀れな男で、与太者で、ルンペンで、まことにお(うらや)ましゅうございます。そうして、あんたはどっちへいらっしゃるの。そんな(こしら)えをして山登りでもなさるの。

    (旅人は無言で焚火をみつめている。)

重兵衛 これから箱根へ出て、山越しに甲州の方へ行きなさるのだとよ。

おつや あら……。(仰山(ぎょうさん)らしく。)まあ、冒険だわねえ。それにしても、これから夜通しで山越しは、どうかと思うわ。木賃(ぼくちん)ホテル御一泊のつもりで、今夜はここへお泊りなさいよ。

重兵衛 むむ。おれもそう思っていたのだ。何も怖い物は出やあしめえと思うけれど、なにしろ山の中の夜道は不用心で、足を一つ踏みはずしても大変だ。(旅人に。)この通りの狭い小屋で、寝る所も無し、貸してあげる夜具もありませんが、焚火のそばで居眠りでもして、夜が明けてからお立ちなすったら()うですね。

旅人  さあ。(かんがえている。)

おつや あんた。素直にオーケーとお云いなさいよ。邪魔なおじさん達を先へ寝かして仕舞(しま)って、あんたとあたしと差向(さしむか)いで、ゆっくり夜明しをしましょうよ。なにしろ舞台がこんな所で、ふくろの鳴き声や狸囃子(たぬきばやし)鳴物(なりもの)じゃあ、しんみりしたお芝居にゃあなりませんけれど、漫才の掛合(かけあい)だと思えばいいでしょう。

    (旅人は無言で考えている。)

おつや (()り寄る。)あたしがだんだん陽気になるのに、あんたはだんだん陰気になっちゃあ、お附合(つきあ)いが出来ないじゃありませんか。ねえ、あんた。(そで)ふり合うも他生(たしょう)(えん)とかいうから、そんなにあたしを嫌わなくっても()いでしょう。今夜はここで仲好くお話をしましょうよ。(笑いながら。)あんたはこんな唄を御存じ……。あの時が無かったら、あなたはあたしの物じゃない――。(旅人の背中を軽く打つ。)はははははは。

重兵衛 よく笑う女だな。お前ひとりで(しゃべ)っているので、騒々しくてならねえ。いくら山の中の一軒家でも、ちっとは遠慮するものだ。おれはお客様と(しずか)に話をしているから、おまえのようながらッ八は、太吉と一緒に奥へ行って、早く寝てしまえよ。

おつや あら、あたしを先へ寝かそうと云うの。この夜の長いのに、独り者が今から寝られますかよ。(旅人に。)あんた、何時……。

旅人  (腕時計をみる。)九時二十分過ぎです。

おつや 九時二十分……。あたし達にはまだ宵の口だわ。それにしても()ァちゃんは眠いだろうね。(うしろを見かえる。)あら、おかしな子だねえ。さっきから何だか邪魔だと思ったら、あたしの帯にしっかり獅噛(しが)み付いて、これが本当の腰巾着(こしぎんちゃく)というんだね。((すし)を指さして。)お前、これを食べないのかい。さあ、おたべよ。

    (おつやは海苔巻(のりまき)を一つ取って()る。太吉は旅人の顔をぬすみ()ながら(かしら)を振る。)

おつや (いや)かい。たべないのかい。(これも旅人をみかえる。)この子はやっぱり人みしりをしているんだねえ。じゃあ、もうお寝な。

重兵衛 そんな奴はあっちへ連れて行って、寝かしてくれ。

おつや (太吉に。)さあ、お客さまにお休みなさいをしておいでよ。

    (おつやは太吉の手を取って、旅人の前へ引出(ひきだ)そうとすれば、太吉は(ふる)えておつやに(すが)りつく。)

太吉  怖いよう。

おつや なにが怖いんだよ。意気地無しだねえ。

重兵衛 (客の手前、気の毒になって。)ええ、もう()いから早く連れて行け、連れて行け。

おつや さあ、お()で、お()で……。

    (おつやは太吉を引立(ひった)てて、(かみ)のかたの障子の(うち)に入る。山風(やまかぜ)の音。)

旅人  (ひとり(ごと)のように。)風が出て来た。

重兵衛 おお、窓から風が這入(はい)る……。道理で、さっきから薄ら寒いと思った。

    (重兵衛は立って、(しも)のかたの窓を閉めようとする時、()としきり強い山風の音。ランプの火が消える。)

重兵衛 (窓をしめながら。)ああ、いけねえ。()を消されてしまった。

おつや (障子の(うち)にて。)あら、ランプが消えたの。

    (土間は暗く、焚火の光もやや薄くなる。山風の音。その薄暗い中で、おつやは障子をあけて出かかりしが、(にわか)ぞっとしたように、(かまち)に腰をおろしたまま(しばら)く無言。重兵衛は再びランプを(とも)せば、土間は明るくなる。)

重兵衛 (炉の前に戻る。)ここらの癖で、ときどきに強い山風が吹き出して来るのですが、又すぐに()みますよ。(炉に枝をくべる。)(しか)し風が出ると寒くなります。馴れない方はかぜを引かないように気をつけて下さい。

旅人  (肩をすくめる。)まったく寒くなりましたね。

重兵衛 (酒を()る。)どうです、寒さ(しの)ぎに……。

旅人  いや、わたしは……。((かしら)をふる。)あなた、みんな飲んでください。

重兵衛 そうですか。お客様をそっち退()けにして、こっちばかりが勝手に飲んだり食ったり……。はは、どうも済みません。(手酌(てじゃく)で飲む。)

    (このあいだに、おつやは何か思案し、そっと正面の出入口のかたへ行く。)

おつや (小声で。)おじさん。

重兵衛 なんだ。

おつや (入口の戸をあけながら。)ちょいと……。

    (重兵衛をよび出して、おつやは逃げるように小屋の外へ出る。重兵衛も出て、(しも)のかたへ行く。舞台は半廻(はんまわ)しになりて、小屋の外。月のひかりに(てら)されたおつやの顔、今までとは別人のように蒼ざめている。)

重兵衛 わざわざ表へ呼び出して、なんの用だ。

    (おつやは内を指さして(ささや)けば、重兵衛は笑い出す。)

重兵衛 はは、ばかを云え。

おつや (小声に力を()めて。)でも、あの人はどうも可怪(おかし)いわ。()ァちゃんが無暗(むやみ)にあの人を怖がるのは、なぜだろうと思っていたんだが、あたしも今、急に怖くなったわ。

重兵衛 なぜだ。

おつや (異常の恐怖に襲われたように。)あのランプが風で消えて……。(うち)のなかが急に薄暗くなったでしょう。

重兵衛 むむ。

おつや その時にあたしは障子をあけて出ようとすると、焚火の前にいるあの人の影が……。トテモ凄いんで、ぞっとしたのよ。

重兵衛 影が……。(首をかしげる。)影が薄いというのか。

おつや 影が薄いんじゃない、凄いのよ。()ァちゃんの怖がるのも無理はない。あの人、(たしか)(ただ)の人じゃあないわ。

重兵衛 でも、まさかに化物じゃあるめえ。ここらで狐や狸が化けたという話は聞かねえからな。はははははは。

おつや ()っ、()っ。(制して。)なにしろ気味が悪いから、早く追い出して頂戴よ。

重兵衛 おまえも泊れと云ったじゃあねえか。

おつや (あわてて。)取消し、取消し……。そんな事はもう断然取消しょ。あんな人と一緒に泊るのは真平(まっぴら)だわ。あたしも商売で、今まで色々の人にも出逢ったけれど、あんな凄い人を(ただ)の一度も見たことがない。まさかに化物でもないだろうけれど、どうしても(ただ)の人間じゃあないわ。

重兵衛 (まだ疑うように。)そんな人には見えねえが……。凄い凄いと云って、一体どんなに凄いんだよ。

おつや それがさ。どうと云って、口じゃあ話が出来ないけれど……。なにしろトテモ凄いのよ。さすがのがら金も総身に水を浴びせられたように、ぞっとしたわ。()ァちゃんだって、怖い怖いと云って、蒲団(ふとん)をかぶって(ふる)えているのよ。

重兵衛 子供は()(かく)も、お前までが(ふる)え声になって……。(又かんがえる。)あんなおとなしやかな人がどうして凄いのか、おれにゃあさっぱり呑み込めねぇ。

おつや おじさんは無神経だから、なんにも感じないのよ。じれったいねぇ。

重兵衛 そう騒ぐな。まあ、内へ這入(はい)って様子を見届けよう。

おつや じゃあ、おじさんだけお這入(はい)んなさいよ。あたしはここにいるから……。

重兵衛 ここに立っていられるものか。まあ、這入(はい)れよ。(手を()る。)

おつや (身ぶるいして。)(いや)よ、(いや)よ。どうしてあんな人のそばへ行かれるもんか。夜が明けけるまでここに立っているわ。

重兵衛 こんな所にいると、かぜを引くよ。

おつや (泣声(なきごえ)になって。)かぜを引いても、死んでも、かまわないと云うのに……。(重兵衛を突き飛ばす。)

重兵衛 (呆れたように。)まるで気違(きち)げえのようだな。じゃあ、まあ、勝手にしろ。

    (重兵衛はそのまま内へ引込(ひっこ)むと、舞台は元に戻る。おつやは抜き足をして窓の下にゆき、閉めたる戸の外から、内の会話をぬすみ聴くように耳をすましている。山風(やまかぜ)の音。旅人は炉のまえを動かず、何かじっと考えていたるが、重兵衛の入り(きた)りしを知りて顔をあげる。)

旅人  風はまだ吹いているようですね。

重兵衛 まだ吹いていますよ。(炉のまえに腰をかける。)

旅人  おつやさんとか云う人はどうしました。

重兵衛 おつやは……。(すこし云い(よど)んで。)そこらをうろうろしているようです。

旅人  月を見ているんですか。

重兵衛 そうかも知れません。あいつも気まぐれ者ですからね。

旅人  (重兵衛の顔をみつめる。)里へ(くだ)ったんじゃありませんか。

重兵衛 いいえ、そんな事はありません。()ぐに帰って来ますよ。(云いながら旅人に眼をつける。)

旅人  そうですか。(考える。)あなたもおつやさんもここへ泊れと云って下すったが、ほんとうに泊めてくれますか。

重兵衛 (曖昧(あいまい)に。)ええ。

旅人  だんだんに夜は()ける、風は寒くなる。これから山越しをするのも難儀ですから、いっそ今夜は御厄介になりましょうか。

重兵衛 (やはり曖昧に。)そうですか。

    (おつやはそれを()れ聞いて(にわか)に決心し、正面の入口へまわって、戸を少し明けながら内を窺っている。)

旅人  (遠慮(がち)に。)泊めて貰えませんか。御迷惑ですか。

重兵衛 迷惑というわけでも無いのですが……。

おつや (思い切って、戸をあけて入る。)おじさん。あたしもさっきお泊んなさいと云ったけれど、いけないわ。

旅人  いけませんか。

おつや (努めて勇気を(ふる)(おこ)して。)いけませんわ。よく考えてみると、警察がやかましいんですよ。

旅人  (眼をかがやかして。)警察が……。

おつや ええ。宿屋でもない(うち)で、知らない人をうっかり泊めると、警察が非常にやかましいんです。ねえ、おじさん。(眼で知らせる。)そうだわねえ。

重兵衛 (曖昧(あいまい)に。)むむ。

おつや それですから、折角(せっかく)ですがお(ことわ)り申しますよ。

    (おつやの態度が一変したのに、旅人もやや意外らしく、だまって何か考えている。障子の内にて太吉の声。)

太吉  怖いよ。怖いよう。

おつや (ぞっとしたように。)あれ、()ァちゃんが又うなされている……。どうしたんだろうねえ。

    (おつやは重兵衛に向って、早く旅人を追い出せと眼で催促する。重兵衛はまだ気の毒そうに躊躇(ちゅうちょ)している。それを(さと)ったように、旅人は炉の前を離れる。)

旅人  いや、判りました。警察がやかましいと云うのでは仕方がありません。これから()ぐに出かけましょう。

重兵衛 (いよいよ気の毒そうに。)お出かけですか。

おつや (追い出すように。)箱根には宿屋が幾軒もありますから、夜の()けないうちに早くおいでなさるが()うござんすよ。

旅人  (さびしく笑う。)宿屋へも泊らずに、夜通し歩くことにしましょう。(リュックサックを背負いて身支度(みじたく)する。)いや、どうもお邪魔をしました。

重兵衛 わたし達こそ御馳走になりました。じゃあ、よく気をつけてお()でなさい。

おつや 左様(さよう)なら。

旅人  どなたもお休みなさい。

    (旅人は小屋を出て、(かみ)のかたの奥へ去る。重兵衛も送り出して見送る。(ふくろう)の声。)

おつや (小声で。)おじさん……。もう行ってしまったの。

重兵衛 むむ。(炉の前へ引返(ひっかえ)して来る。)おまえは無暗(むやみ)に追い出したが、おれは何だか気の毒でならねえ。

おつや 冗談じゃあない。あんな人に、いつまでも居据(いす)わっていられて(たま)るもんか。(土瓶(どびん)の茶をついで飲む。)ああ、(いや)だ、(いや)だ。ほんとうに寿命を縮めてしまった。

太吉  (そっと障子をあける。)怖い人、行っちまったかい。

おつや あら、また起きて来たの。、もう大丈夫だから、こっちへおいでよ。

    (太吉は土間へ出て来る。重兵衛は無言で考えている。)

おつや 真逆(まさか)これに毒が這入(はい)っているわけでもあるまい。もう誰もいないから、安心しておたべよ。

    (おつやは海苔巻(のりまき)(すし)を取ってやれば、太吉は平気で食う。)

おつや ()ァちゃん。お前どうして、あんなに怖がったの。あの人がなぜ怖いの。

太吉  怖いよ。

おつや どうして怖かったんだよ。

太吉  怖かったよ。

重兵衛 (おつやに。)そういうお前はどうして怖かったのだ。

おつや さあ、なんと云っていいか。あたしにもはっきりとは云えないけれど……。ねえ。()ァちゃん。怖かったねえ。

太吉  むむ。怖かったよ。

重兵衛 (腹立たしそうに。)どっちも夢を見ているようで、何がなんだか云うことが判らねえ。泊めて()ってもいいものを、怖い怖いと無理に追い出してしまって、あの人も今頃は山道で困っていなさるだろう。気の毒を通り越して、悪いことをしたような気がしてならねえ。

おつや ()いことか悪いことか知らないけれど、あんな気味の悪い人はジャンジャン追っ払ってしまった方が無事だわ。

重兵衛 不人情なことを云うなよ。

    (重兵衛は気が済まないような顔をして、炉に枝をくべている。おつやは太吉に茶を飲ませている。(ふくろう)の声。(しも)のかたより村の青年団員二人、詰襟(つめえり)の洋服に(まき)ゲートルの姿にて、()を入れない提灯(ちょうちん)を持ちて()づ。)

青年甲 今晩は……。

おつや あら、又だれか来たよ。

重兵衛 (立って戸をあける。)おお、青年団の人達か。まあ、こっちへ這入(はい)りなさい。

    (青年団二人は内に入る。)

おつや いらっしゃい。皆さんはどうして今頃……。

青年甲 実は駐在所から頼まれてね。

青年乙 こっちの方へ捜索に来たんだ。

重兵衛 だれか家出でもしたのかね。

青年甲 人殺しの犯人が今夜この山へ入り込んだと云うのだ。

重兵衛 (おどろいて。)人殺しか。そりゃあ大変だ。

おつや あ、ちょいと……。(進み出る。)名前は知らないけれども、その人は洋服を着た二十五六の、色の蒼白いような、ちょいと様子の()い人じゃあないの。

青年甲 そう、そう。なんでもそんな男だそうだ。

重兵衛 一体どこで人殺しをしたのだ。

青年甲 その男は東京の日本橋で稲川という酒屋の息子だが、先月の十七日、旧暦の十五夜の晩に、なじみのカフェーの女給を向嶋(むこうじま)へ連れ出して、ピストルで撃ち殺したんだ。

重兵衛 カフェーの女給を……。ピストルで殺した……。

おつや まあ呆れたわねえ。なんで女給を殺したんだろう。いずれ色恋のいきさつでしょうね。

青年乙 まあ、そうだろうな。男は自分の店から千円ほどの金を持ち出して、女を殺すと()ぐに姿を変えて、どこへか逃亡してしまったので、東京の警察から逮捕の依頼が来ていたんだ。

青年甲 それが一月(ひとつき)ほども立ってから、その犯人がここらへ立廻(たちまわ)ったらしい形跡があるので、警察の方でも注意していると、それによく似た若い男が今夜この山へ這入(はい)ったのを見た者があると云うんで、駐在所の吉村さんが()ぐに出かけたから、わたし達も手分けをして捜索に来たんだが、そんな男はここへ来なかったね。

重兵衛 え。(返事に躊躇(ちゅうちょ)する。)

青年乙 今の話の様子じゃあ、つうちゃんはそれらしい男を見たんだろう。

おつや ええ、見ましたよ。山づたいに箱根へまわると云って、たった今ここを出て行ったんだから、まだ遠くは行かないでしょうよ。

青年甲 (じゅう)さん、ほんとうかい。

重兵衛 (仕方なしに。)むむ、そうだ。

おつや (亢奮(こうふん)して。)パチンコなんぞを振りまわして、むやみに女を撃ち殺すなんて、そんな乱暴な奴は早く取ッつかまえて()る方がいいわ。逃がして仕舞(しま)うといけないから、()ぐに追っかけてお()でなさいよ。さあ、早くおいでなさいよ。

青年甲 じゃあ、行こう。

青年乙 むむ。行こう。

    (甲乙は行こうとする時、奥のかたにてピストルの音きこゆ。人々は顔をみあわせる。)

青年甲 あ、ピストルだ。

青年乙 いよいよあいつに違いないぞ。

    (甲乙は外へ出て、(かみ)のかたの奥へ走り去る。おつやは入口から見送る。つづいてピストルの音。おつやは慌てて戸をしめる。)

おつや あら、また撃った……。どこに隠していたか知らないが、あの人がパチンコなんぞを持っていようとは思わなかったが……。

重兵衛 むむ。おれも気が()かなかった。いや、それよりも……。(考える。)あんなおとなしい人が人殺しのお尋ね者とは、今まで()っとも気が()かなかった。

おつや それだから、あたしがトテモ凄いと云ったのよ。(思い出したようにぞっとして。)ねえ、おじさん。あたし達の眼にはなんにも見えなかったけれど……。あの人のうしろには殺された女の魂が、影のように附き(まと)っていたのかも知れないわ。

重兵衛 (又かんがえる。)そんな事もあるまいよ。

おつや それでなけりゃあ死神だわ。あの人、いくら逃げまわっても、どうせ助からない人ですもの。行く先々へ死神が附いて廻っているのよ。

重兵衛 女の魂だの、死神だのと……。ここらでも今時そんな事をいう者はねえが……。

おつや いいえ、そうよ。(きっ)とそうよ。あの人は何かに()り着かれているに相違ないわ。(太吉の手を()る。)()ァちゃん。お前、なにか見なかったかい。あの人のうしろに……何かぼんやりと……影のような物でも見えやあしなかったかい。

太吉  ((かしら)をふる。)知らないよ。

おつや それでも怖かったろう。

太吉  (うなずく。)ああ、怖かったよ。あの人、(きっ)とお化けだよ。

おつや そうだ、そうだ。おじさんは今でも平気でいるようだけれど、どう考えてもあの人は(ただ)の人じゃあない。()ァちゃんとあたしは本当に怖い思いをしたねえ。

重兵衛 (だんだんに釣込(つりこ)まれて。)今夜にかぎって、太吉が無暗(むやみ)にあの人を怖がるのは、なんだか不思議だと思っていたが……。やっぱりあの人には……。何かの影が附いていたのかなあ。

おつや ああ、(いや)だ、(いや)だ。(そこらを見まわして。)あたしはまだ気味が悪いわ。

    ((しば)しの沈黙。(ふくろう)の声。やがて入口の戸をたたく音。おつやはぎょっとしたように、太吉の手をぐい()いて、(かみ)のかたに身を寄せる。)

重兵衛 (これも少し警戒して。)だれだ……。どなた……。

巡査  僕だ、吉村だ。

重兵衛 ああ、吉村さん……。(()ぐに戸をあける。)

巡査  (内に入る。)今ここへ負傷者を運んで来るから、()もかくも土間へ入れて置いてくれないか。

重兵衛 怪我人(けがにん)ですか。

巡査  むむ。怪我人と云っても、実はもう死んでいるのだ。

おつや だれが死んだんですの。

巡査  人殺しの犯人だ。東京でカフェーの女給を殺して、方々(ほうぼう)を逃げまわっていた奴を、そこで見つけて取押(とりおさ)えようとすると、僕にむかってピストルを一発……。

おつや まあ。

巡査  幸いに(たま)(はず)れたが……。当人ももう覚悟したらしい。今度は自分の額を撃って倒れた。

重兵衛 (顔をしかめて。)もう助かりませんか。

巡査  駄目だ。((かしら)をふる。)急所だからね。なにしろ青年団の人達がここへ運び込んで来るから、()っとのあいだ頼むよ。

    (云いすてて巡査は出てゆく。重兵衛とおつやは云い知れぬ恐怖に囚われたように、(しばら)く無言。梟の声。)

おつや (小声で。)おじさん。あの人はやっぱり何かに()り着かれていたのよ。

重兵衛 そうかなあ。(嘆息して。)ああ、なんにしても(いや)な晩だ。

    (二人は顔をみあわせる。薄く山風(やまかぜ)の音。梟の声。焚火はだんだんに薄暗くなる。)

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