3話 影 (一幕)(3)
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は金八、あだ名はがらッ八又はがら金……。若しインチキだと思召すなら、念のために役場へ行って、戸籍の謄本をお取りください。あはははははは。
旅人 (羨むように。)あなたは全く朗かですね。
おつや (いよいよ調子が崩れて来る。)ええ、ええ、大いに朗かよ。この頃の流行り言葉で、明朗とか云うんですよ。それでも月に村雲、朗かな人間にも時々に虫の居所の悪いことがあって、主人とも衝突いたします。電車だって自動車だって屡々衝突する世の中に、芸妓が主人と衝突するのも不思議はないでしょう。ねえ、あんた……。あたしはあんたの名を知らないから、まあアンちゃんにして置くわ。ねえ、アンちゃん、そうでしょう。君以て如何となす。あはははははは。
重兵衛 (苦々しそうに。)どうも騒々しいな。好い加減に喋って置け。一杯や二杯の酒で調子の狂うお前じゃあねえが、今夜はよっぽど下地があるな。
おつや おじさんの千里眼は偉い。実は熱海の駅で汽車を待っているあいだに、休み茶屋へ飛び込んで、ビール一本と何だかの罎詰一本、まさかに喇叭は遣らないけれども、息もつかずにぐっと聞こし召して、その勢いで猛烈に、かかる山路へ突貫して来たのよ。そのくらいのアルコールは途中で醒めてしまった筈だが、この狭いところへ這入って、焚火にかッかとあぶられたら、又その酔が一度に発して来て、いよいよ朗かになって来たのよ。なんだか知らないが、今夜はトテモ愉快で嬉しくってならない。さあ、アンちゃん。もう一つお酌をして下さいよ。
(旅人は無言で酌をすれば、おつやは続けて飲む。)
重兵衛 まあ、お客さん。失礼は勘弁して遣ってください。こいつは自分でもいう通り、がら金のがらッ八で……。それだから行く先々で主人と喧嘩の絶え間がないのですよ。商売が商売だから、丸ッきり飲まねえわけにも行くめえが、女のくせに大酒をのむ、掴み合いの喧嘩をする……。
おつや およしなさいよ、他人様の前でそんな色消しなお噂は……。そういうのを流言蜚語とか云って、この頃は警察の取締りが非常にやかましいんですよ。さあ、口塞げに、白いおじさんにももう一杯……。(重兵衛に酌をする。)あたし達ばかり勝手なことを云って飲んでいちゃあ、それこそ失礼だわ。(旅人に。)さあ、あんたも召上れ。何を陰気らしく考えているのよ。
旅人 いや、わたしは飲まないんです。
おつや 飲まないのに、どうしてこんな大罎を買い込んだの。
旅人 水の代りに買ったんです。
おつや 水の代りなら、サイダーでも買えばいいじゃありませんか。嘘、嘘……。あんた屹と飲むのよ。さあ、がら金に恥を掻かせないで、愉快にサアビスをさせて頂戴よ。
旅人 いや、せいぜいが一杯ぐらいで、その上はまったく飲めないんです。わたしは野暮な人間で……。
おつや 嘘つき……。(睨む。)あんたが野暮天か道楽者か、その見分けが付かないようで、憚りながら芸妓の鑑札を持っていられるかって云うんだ。モダンの富士詣でのような風をしていても、あんたがどんな人間か、眼力ひからす松王丸がちゃんと睨んでいるわ。ねえ、アンちゃん。あんたは随分芸妓なんぞに可愛がられたことがあるでしょう。
旅人 (冷かに。)ありませんね。
おつや それじゃあカフェー……。
旅人 (やはり冷かに。)いいえ。
おつや 芸妓にも女給さんにも御縁がないの。
旅人 ありません。(重兵衛をさして。)今もこちらに話したんですが、わたしは我ながら哀れな男ですよ。
おつや あんたの御商売は……。
旅人 東京でつまらない商いをしていましたが、それももう止めてしまって……。(我を嘲るように。)まあ、与太者かルンペンだと思ってください。
おつや ルンペンはよかったね。まあ、なんとでも猫をかぶっていらっしゃい。(笑う。)あんたは野暮な人間で、哀れな男で、与太者で、ルンペンで、まことにお羨ましゅうございます。そうして、あんたはどっちへいらっしゃるの。そんな拵えをして山登りでもなさるの。
(旅人は無言で焚火をみつめている。)
重兵衛 これから箱根へ出て、山越しに甲州の方へ行きなさるのだとよ。
おつや あら……。(仰山らしく。)まあ、冒険だわねえ。それにしても、これから夜通しで山越しは、どうかと思うわ。木賃ホテル御一泊のつもりで、今夜はここへお泊りなさいよ。
重兵衛 むむ。おれもそう思っていたのだ。何も怖い物は出やあしめえと思うけれど、なにしろ山の中の夜道は不用心で、足を一つ踏みはずしても大変だ。(旅人に。)この通りの狭い小屋で、寝る所も無し、貸してあげる夜具もありませんが、焚火のそばで居眠りでもして、夜が明けてからお立ちなすったら何うですね。
旅人 さあ。(かんがえている。)
おつや あんた。素直にオーケーとお云いなさいよ。邪魔なおじさん達を先へ寝かして仕舞って、あんたとあたしと差向いで、ゆっくり夜明しをしましょうよ。なにしろ舞台がこんな所で、ふくろの鳴き声や狸囃子の鳴物じゃあ、しんみりしたお芝居にゃあなりませんけれど、漫才の掛合だと思えばいいでしょう。
(旅人は無言で考えている。)
おつや (摺り寄る。)あたしがだんだん陽気になるのに、あんたはだんだん陰気になっちゃあ、お附合いが出来ないじゃありませんか。ねえ、あんた。袖ふり合うも他生の縁とかいうから、そんなにあたしを嫌わなくっても好いでしょう。今夜はここで仲好くお話をしましょうよ。(笑いながら。)あんたはこんな唄を御存じ……。あの時が無かったら、あなたはあたしの物じゃない――。(旅人の背中を軽く打つ。)はははははは。
重兵衛 よく笑う女だな。お前ひとりで喋っているので、騒々しくてならねえ。いくら山の中の一軒家でも、ちっとは遠慮するものだ。おれはお客様と静に話をしているから、おまえのようながらッ八は、太吉と一緒に奥へ行って、早く寝てしまえよ。
おつや あら、あたしを先へ寝かそうと云うの。この夜の長いのに、独り者が今から寝られますかよ。(旅人に。)あんた、何時……。
旅人 (腕時計をみる。)九時二十分過ぎです。
おつや 九時二十分……。あたし達にはまだ宵の口だわ。それにしても太ァちゃんは眠いだろうね。(うしろを見かえる。)あら、おかしな子だねえ。さっきから何だか邪魔だと思ったら、あたしの帯にしっかりと獅噛み付いて、これが本当の腰巾着というんだね。(鮓を指さして。)お前、これを食べないのかい。さあ、おたべよ。
(おつやは海苔巻を一つ取って遣る。太吉は旅人の顔をぬすみ視ながら頭を振る。)
おつや 忌かい。たべないのかい。(これも旅人をみかえる。)この子はやっぱり人みしりをしているんだねえ。じゃあ、もうお寝な。
重兵衛 そんな奴はあっちへ連れて行って、寝かしてくれ。
おつや (太吉に。)さあ、お客さまにお休みなさいをしておいでよ。
(おつやは太吉の手を取って、旅人の前へ引出そうとすれば、太吉は顫えておつやに縋りつく。)
太吉 怖いよう。
おつや なにが怖いんだよ。意気地無しだねえ。
重兵衛 (客の手前、気の毒になって。)ええ、もう好いから早く連れて行け、連れて行け。
おつや さあ、お出で、お出で……。
(おつやは太吉を引立てて、上のかたの障子の中に入る。山風の音。)
旅人 (ひとり言のように。)風が出て来た。
重兵衛 おお、窓から風が這入る……。道理で、さっきから薄ら寒いと思った。
(重兵衛は立って、下のかたの窓を閉めようとする時、一としきり強い山風の音。ランプの火が消える。)
重兵衛 (窓をしめながら。)ああ、いけねえ。灯を消されてしまった。
おつや (障子の中にて。)あら、ランプが消えたの。
(土間は暗く、焚火の光もやや薄くなる。山風の音。その薄暗い中で、おつやは障子をあけて出かかりしが、俄にぞっとしたように、框に腰をおろしたまま暫く無言。重兵衛は再びランプを点せば、土間は明るくなる。)
重兵衛 (炉の前に戻る。)ここらの癖で、ときどきに強い山風が吹き出して来るのですが、又すぐに止みますよ。(炉に枝をくべる。)併し風が出ると寒くなります。馴れない方はかぜを引かないように気をつけて下さい。
旅人 (肩をすくめる。)まったく寒くなりましたね。
重兵衛 (酒を把る。)どうです、寒さ凌ぎに……。
旅人 いや、わたしは……。(頭をふる。)あなた、みんな飲んでください。
重兵衛 そうですか。お客様をそっち退けにして、こっちばかりが勝手に飲んだり食ったり……。はは、どうも済みません。(手酌で飲む。)
(このあいだに、おつやは何か思案し、そっと正面の出入口のかたへ行く。)
おつや (小声で。)おじさん。
重兵衛 なんだ。
おつや (入口の戸をあけながら。)ちょいと……。
(重兵衛をよび出して、おつやは逃げるように小屋の外へ出る。重兵衛も出て、下のかたへ行く。舞台は半廻しになりて、小屋の外。月のひかりに照されたおつやの顔、今までとは別人のように蒼ざめている。)
重兵衛 わざわざ表へ呼び出して、なんの用だ。
(おつやは内を指さして囁けば、重兵衛は笑い出す。)
重兵衛 はは、ばかを云え。
おつや (小声に力を籠めて。)でも、あの人はどうも可怪いわ。太ァちゃんが無暗にあの人を怖がるのは、なぜだろうと思っていたんだが、あたしも今、急に怖くなったわ。
重兵衛 なぜだ。
おつや (異常の恐怖に襲われたように。)あのランプが風で消えて……。家のなかが急に薄暗くなったでしょう。
重兵衛 むむ。
おつや その時にあたしは障子をあけて出ようとすると、焚火の前にいるあの人の影が……。トテモ凄いんで、ぞっとしたのよ。
重兵衛 影が……。(首をかしげる。)影が薄いというのか。
おつや 影が薄いんじゃない、凄いのよ。太ァちゃんの怖がるのも無理はない。あの人、確に唯の人じゃあないわ。
重兵衛 でも、まさかに化物じゃあるめえ。ここらで狐や狸が化けたという話は聞かねえからな。はははははは。
おつや 叱っ、叱っ。(制して。)なにしろ気味が悪いから、早く追い出して頂戴よ。
重兵衛 おまえも泊れと云ったじゃあねえか。
おつや (あわてて。)取消し、取消し……。そんな事はもう断然取消しょ。あんな人と一緒に泊るのは真平だわ。あたしも商売で、今まで色々の人にも出逢ったけれど、あんな凄い人を唯の一度も見たことがない。まさかに化物でもないだろうけれど、どうしても唯の人間じゃあないわ。
重兵衛 (まだ疑うように。)そんな人には見えねえが……。凄い凄いと云って、一体どんなに凄いんだよ。
おつや それがさ。どうと云って、口じゃあ話が出来ないけれど……。なにしろトテモ凄いのよ。さすがのがら金も総身に水を浴びせられたように、ぞっとしたわ。太ァちゃんだって、怖い怖いと云って、蒲団をかぶって顫えているのよ。
重兵衛 子供は兎も角も、お前までが顫え声になって……。(又かんがえる。)あんなおとなしやかな人がどうして凄いのか、おれにゃあさっぱり呑み込めねぇ。
おつや おじさんは無神経だから、なんにも感じないのよ。じれったいねぇ。
重兵衛 そう騒ぐな。まあ、内へ這入って様子を見届けよう。
おつや じゃあ、おじさんだけお這入んなさいよ。あたしはここにいるから……。
重兵衛 ここに立っていられるものか。まあ、這入れよ。(手を把る。)
おつや (身ぶるいして。)忌よ、忌よ。どうしてあんな人のそばへ行かれるもんか。夜が明けけるまでここに立っているわ。
重兵衛 こんな所にいると、かぜを引くよ。
おつや (泣声になって。)かぜを引いても、死んでも、かまわないと云うのに……。(重兵衛を突き飛ばす。)
重兵衛 (呆れたように。)まるで気違げえのようだな。じゃあ、まあ、勝手にしろ。
(重兵衛はそのまま内へ引込むと、舞台は元に戻る。おつやは抜き足をして窓の下にゆき、閉めたる戸の外から、内の会話をぬすみ聴くように耳をすましている。山風の音。旅人は炉のまえを動かず、何かじっと考えていたるが、重兵衛の入り来りしを知りて顔をあげる。)
旅人 風はまだ吹いているようですね。
重兵衛 まだ吹いていますよ。(炉のまえに腰をかける。)
旅人 おつやさんとか云う人はどうしました。
重兵衛 おつやは……。(すこし云い淀んで。)そこらをうろうろしているようです。
旅人 月を見ているんですか。
重兵衛 そうかも知れません。あいつも気まぐれ者ですからね。
旅人 (重兵衛の顔をみつめる。)里へ下ったんじゃありませんか。
重兵衛 いいえ、そんな事はありません。直ぐに帰って来ますよ。(云いながら旅人に眼をつける。)
旅人 そうですか。(考える。)あなたもおつやさんもここへ泊れと云って下すったが、ほんとうに泊めてくれますか。
重兵衛 (曖昧に。)ええ。
旅人 だんだんに夜は更ける、風は寒くなる。これから山越しをするのも難儀ですから、いっそ今夜は御厄介になりましょうか。
重兵衛 (やはり曖昧に。)そうですか。
(おつやはそれを洩れ聞いて俄に決心し、正面の入口へまわって、戸を少し明けながら内を窺っている。)
旅人 (遠慮勝に。)泊めて貰えませんか。御迷惑ですか。
重兵衛 迷惑というわけでも無いのですが……。
おつや (思い切って、戸をあけて入る。)おじさん。あたしもさっきお泊んなさいと云ったけれど、いけないわ。
旅人 いけませんか。
おつや (努めて勇気を振い起して。)いけませんわ。よく考えてみると、警察がやかましいんですよ。
旅人 (眼をかがやかして。)警察が……。
おつや ええ。宿屋でもない家で、知らない人をうっかり泊めると、警察が非常にやかましいんです。ねえ、おじさん。(眼で知らせる。)そうだわねえ。
重兵衛 (曖昧に。)むむ。
おつや それですから、折角ですがお断り申しますよ。
(おつやの態度が一変したのに、旅人もやや意外らしく、だまって何か考えている。障子の内にて太吉の声。)
太吉 怖いよ。怖いよう。
おつや (ぞっとしたように。)あれ、太ァちゃんが又うなされている……。どうしたんだろうねえ。
(おつやは重兵衛に向って、早く旅人を追い出せと眼で催促する。重兵衛はまだ気の毒そうに躊躇している。それを覚ったように、旅人は炉の前を離れる。)
旅人 いや、判りました。警察がやかましいと云うのでは仕方がありません。これから直ぐに出かけましょう。
重兵衛 (いよいよ気の毒そうに。)お出かけですか。
おつや (追い出すように。)箱根には宿屋が幾軒もありますから、夜の更けないうちに早くおいでなさるが好うござんすよ。
旅人 (さびしく笑う。)宿屋へも泊らずに、夜通し歩くことにしましょう。(リュックサックを背負いて身支度する。)いや、どうもお邪魔をしました。
重兵衛 わたし達こそ御馳走になりました。じゃあ、よく気をつけてお出でなさい。
おつや 左様なら。
旅人 どなたもお休みなさい。
(旅人は小屋を出て、上のかたの奥へ去る。重兵衛も送り出して見送る。梟の声。)
おつや (小声で。)おじさん……。もう行ってしまったの。
重兵衛 むむ。(炉の前へ引返して来る。)おまえは無暗に追い出したが、おれは何だか気の毒でならねえ。
おつや 冗談じゃあない。あんな人に、いつまでも居据わっていられて堪るもんか。(土瓶の茶をついで飲む。)ああ、忌だ、忌だ。ほんとうに寿命を縮めてしまった。
太吉 (そっと障子をあける。)怖い人、行っちまったかい。
おつや あら、また起きて来たの。、もう大丈夫だから、こっちへおいでよ。
(太吉は土間へ出て来る。重兵衛は無言で考えている。)
おつや 真逆これに毒が這入っているわけでもあるまい。もう誰もいないから、安心しておたべよ。
(おつやは海苔巻の鮓を取ってやれば、太吉は平気で食う。)
おつや 太ァちゃん。お前どうして、あんなに怖がったの。あの人がなぜ怖いの。
太吉 怖いよ。
おつや どうして怖かったんだよ。
太吉 怖かったよ。
重兵衛 (おつやに。)そういうお前はどうして怖かったのだ。
おつや さあ、なんと云っていいか。あたしにもはっきりとは云えないけれど……。ねえ。太ァちゃん。怖かったねえ。
太吉 むむ。怖かったよ。
重兵衛 (腹立たしそうに。)どっちも夢を見ているようで、何がなんだか云うことが判らねえ。泊めて遣ってもいいものを、怖い怖いと無理に追い出してしまって、あの人も今頃は山道で困っていなさるだろう。気の毒を通り越して、悪いことをしたような気がしてならねえ。
おつや 好いことか悪いことか知らないけれど、あんな気味の悪い人はジャンジャン追っ払ってしまった方が無事だわ。
重兵衛 不人情なことを云うなよ。
(重兵衛は気が済まないような顔をして、炉に枝をくべている。おつやは太吉に茶を飲ませている。梟の声。下のかたより村の青年団員二人、詰襟の洋服に巻ゲートルの姿にて、灯を入れない提灯を持ちて出づ。)
青年甲 今晩は……。
おつや あら、又だれか来たよ。
重兵衛 (立って戸をあける。)おお、青年団の人達か。まあ、こっちへ這入りなさい。
(青年団二人は内に入る。)
おつや いらっしゃい。皆さんはどうして今頃……。
青年甲 実は駐在所から頼まれてね。
青年乙 こっちの方へ捜索に来たんだ。
重兵衛 だれか家出でもしたのかね。
青年甲 人殺しの犯人が今夜この山へ入り込んだと云うのだ。
重兵衛 (おどろいて。)人殺しか。そりゃあ大変だ。
おつや あ、ちょいと……。(進み出る。)名前は知らないけれども、その人は洋服を着た二十五六の、色の蒼白いような、ちょいと様子の好い人じゃあないの。
青年甲 そう、そう。なんでもそんな男だそうだ。
重兵衛 一体どこで人殺しをしたのだ。
青年甲 その男は東京の日本橋で稲川という酒屋の息子だが、先月の十七日、旧暦の十五夜の晩に、なじみのカフェーの女給を向嶋へ連れ出して、ピストルで撃ち殺したんだ。
重兵衛 カフェーの女給を……。ピストルで殺した……。
おつや まあ呆れたわねえ。なんで女給を殺したんだろう。いずれ色恋のいきさつでしょうね。
青年乙 まあ、そうだろうな。男は自分の店から千円ほどの金を持ち出して、女を殺すと直ぐに姿を変えて、どこへか逃亡してしまったので、東京の警察から逮捕の依頼が来ていたんだ。
青年甲 それが一月ほども立ってから、その犯人がここらへ立廻ったらしい形跡があるので、警察の方でも注意していると、それによく似た若い男が今夜この山へ這入ったのを見た者があると云うんで、駐在所の吉村さんが直ぐに出かけたから、わたし達も手分けをして捜索に来たんだが、そんな男はここへ来なかったね。
重兵衛 え。(返事に躊躇する。)
青年乙 今の話の様子じゃあ、つうちゃんはそれらしい男を見たんだろう。
おつや ええ、見ましたよ。山づたいに箱根へまわると云って、たった今ここを出て行ったんだから、まだ遠くは行かないでしょうよ。
青年甲 重さん、ほんとうかい。
重兵衛 (仕方なしに。)むむ、そうだ。
おつや (亢奮して。)パチンコなんぞを振りまわして、むやみに女を撃ち殺すなんて、そんな乱暴な奴は早く取ッつかまえて遣る方がいいわ。逃がして仕舞うといけないから、直ぐに追っかけてお出でなさいよ。さあ、早くおいでなさいよ。
青年甲 じゃあ、行こう。
青年乙 むむ。行こう。
(甲乙は行こうとする時、奥のかたにてピストルの音きこゆ。人々は顔をみあわせる。)
青年甲 あ、ピストルだ。
青年乙 いよいよあいつに違いないぞ。
(甲乙は外へ出て、上のかたの奥へ走り去る。おつやは入口から見送る。つづいてピストルの音。おつやは慌てて戸をしめる。)
おつや あら、また撃った……。どこに隠していたか知らないが、あの人がパチンコなんぞを持っていようとは思わなかったが……。
重兵衛 むむ。おれも気が注かなかった。いや、それよりも……。(考える。)あんなおとなしい人が人殺しのお尋ね者とは、今まで些っとも気が注かなかった。
おつや それだから、あたしがトテモ凄いと云ったのよ。(思い出したようにぞっとして。)ねえ、おじさん。あたし達の眼にはなんにも見えなかったけれど……。あの人のうしろには殺された女の魂が、影のように附き纏っていたのかも知れないわ。
重兵衛 (又かんがえる。)そんな事もあるまいよ。
おつや それでなけりゃあ死神だわ。あの人、いくら逃げまわっても、どうせ助からない人ですもの。行く先々へ死神が附いて廻っているのよ。
重兵衛 女の魂だの、死神だのと……。ここらでも今時そんな事をいう者はねえが……。
おつや いいえ、そうよ。屹とそうよ。あの人は何かに執り着かれているに相違ないわ。(太吉の手を把る。)太ァちゃん。お前、なにか見なかったかい。あの人のうしろに……何かぼんやりと……影のような物でも見えやあしなかったかい。
太吉 (頭をふる。)知らないよ。
おつや それでも怖かったろう。
太吉 (うなずく。)ああ、怖かったよ。あの人、屹とお化けだよ。
おつや そうだ、そうだ。おじさんは今でも平気でいるようだけれど、どう考えてもあの人は唯の人じゃあない。太ァちゃんとあたしは本当に怖い思いをしたねえ。
重兵衛 (だんだんに釣込まれて。)今夜にかぎって、太吉が無暗にあの人を怖がるのは、なんだか不思議だと思っていたが……。やっぱりあの人には……。何かの影が附いていたのかなあ。
おつや ああ、忌だ、忌だ。(そこらを見まわして。)あたしはまだ気味が悪いわ。
(暫しの沈黙。梟の声。やがて入口の戸をたたく音。おつやはぎょっとしたように、太吉の手をぐいと曳いて、上のかたに身を寄せる。)
重兵衛 (これも少し警戒して。)だれだ……。どなた……。
巡査 僕だ、吉村だ。
重兵衛 ああ、吉村さん……。(直ぐに戸をあける。)
巡査 (内に入る。)今ここへ負傷者を運んで来るから、兎もかくも土間へ入れて置いてくれないか。
重兵衛 怪我人ですか。
巡査 むむ。怪我人と云っても、実はもう死んでいるのだ。
おつや だれが死んだんですの。
巡査 人殺しの犯人だ。東京でカフェーの女給を殺して、方々を逃げまわっていた奴を、そこで見つけて取押えようとすると、僕にむかってピストルを一発……。
おつや まあ。
巡査 幸いに弾は外れたが……。当人ももう覚悟したらしい。今度は自分の額を撃って倒れた。
重兵衛 (顔をしかめて。)もう助かりませんか。
巡査 駄目だ。(頭をふる。)急所だからね。なにしろ青年団の人達がここへ運び込んで来るから、些っとのあいだ頼むよ。
(云いすてて巡査は出てゆく。重兵衛とおつやは云い知れぬ恐怖に囚われたように、暫く無言。梟の声。)
おつや (小声で。)おじさん。あの人はやっぱり何かに執り着かれていたのよ。
重兵衛 そうかなあ。(嘆息して。)ああ、なんにしても忌な晩だ。
(二人は顔をみあわせる。薄く山風の音。梟の声。焚火はだんだんに薄暗くなる。)