影 (一幕)

2話 影 (一幕)(2)

8,775字 約18分 2013年8月20日 公開

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太吉  おとっさん、お父さん……。

重兵衛 (みかえる。)なんだ、なんだ。

太吉  怖いよう。

重兵衛 なにが怖い。(立上(たちあが)る。)夢でも見たのか。

    (重兵衛は笑いながら、(かみ)のかたの障子をあけると、七歳(ななつ)の太吉が寝床から這い出して来る。)

重兵衛 はは、どうした、どうした。

太吉  (父に(すが)り付く。)怖いよう。

重兵衛 なにが怖いのだと云うのに……。おとっさんはここにいるから大丈夫だ。(笑いながら(しか)る。)弱虫め。しっかりしろ。

太吉  でも、なんだか怖いよ。おとっさん。

重兵衛 なにを云やあがるんだ、馬鹿野郎……。(声がやや(あら)くなる。)そんな弱虫で、おとっさんと一緒にここにいられるか。あしたはもう(うち)へ追いかえして仕舞(しま)うから、そう思え。いいか。

    (太吉はだまっている。)

重兵衛 それだから(うち)にいろと云うのに、お父さんと一緒ならさびしくねえと云って、無理にここへ附いて来たんじゃあねえか。お父さんは年中この山の中の一軒家に住んでいるが、(ただ)の一度だって怖いと思った事なんぞありゃあしねえ。(云いかけて肩をすくめる。)ああ、夜になったら薄ら寒くなって来た。さあ、おまえも火のそばへ来て、よく(あった)まって寝ろ。怖いのじゃあねえ、寒いのだ。よく(あった)まって、()心持(こころもち)ぐっすり寝ろ。

    (太吉はやはり無言で炉の前に来る。重兵衛は更に枯枝をくべる。梟の声。)

太吉  (怖ろしそうに耳を傾ける。)お父さん。あれ、あんな声が……。

重兵衛 あれは梟だ。梟が()くのだ。めずらしくもねえ。(笑う。)おまえは今夜、どうかしているな。

    (二人は向い合って焚火にあたっている。薄く山風(やまかぜ)の音。小唄の声遠く(きこ)ゆ。)

    ()れて(かよ)うに(なに)怖かろう。

    (太吉は(にわか)立上(たちあが)りて、再び父に取縋(とりすが)る。)

太吉  怖いよう。おとっさん。

重兵衛 また始めやあがった。意気地無しめ。いよいよあしたは(うち)へ帰してしまうぞ。

太吉  (恐怖の眼を表へ向けて。)あれ、来たよ、来たよ。

    今宵も逢おうと、闇の夜道を(ただ)ひとり。

重兵衛 (なる)ほど、だれか歌いながら来るようだ。聞き慣れねえ声だから、ここらの(わけ)え者じゃあるめえ。旅の人でも迷って来たかな。

    先や左程(さほど)にも思やせぬのに、こちゃ登りつめ、山を越えて逢いにゆく。

    (重兵衛は唄を聴いている。太吉は(ふる)えながら父に獅噛(しが)み付いている。やがて重兵衛は立って、(しも)のかたの窓から覗く。)

重兵衛 ああ。こっちへ来た、来た。

太吉  怖いよう。

    (太吉はもう(たま)らなくなって奥へ逃げ込み、一生懸命に障子をがたがたと閉める。重兵衛は表をながめている。(しも)のかたより二十五六歳の旅人、旅やつれは見えながらも人柄は(いや)しからず、洋服を着て登山帽をかぶり、足にはゲートルを着け、リュックサックを背負い、木の枝を杖にして()づ。)

旅人  (重兵衛に声をかける。)済みませんが、少し休ませて貰えませんか。

重兵衛 はい、はい。どうぞお這入(はい)り下さい。

旅人  這入(はい)っても構いませんか。

重兵衛 かまいませんよ。(正面の戸をあける。)さあ、さあ……。

旅人  (内に入る。)とんだお邪魔をします。

重兵衛 焚火も丁度(ちょうど)燃え付いた所だ。さあ、おあたりなさい。

旅人  ありがとうございます。(リュックサックをおろして、炉の前に腰をかける。)まだ十月のなかばだと云うのに、山の中は随分寒うござんすね。

重兵衛 (笑う。)山の中という程でもないが、それでも夜になると、里よりは滅切(めっき)り冷えて来るようですよ。あなたは夜道をかけて、今頃どうしてこんな所へお()でなすったのだね。

旅人  箱根を越して甲州へ出る(つも)りです。

重兵衛 はあ、甲州へ……。

旅人  行かれるでしょうね。

重兵衛 わたしも行ったことは無いが、行かれる筈ですよ。それじゃあ今夜は箱根泊りですね。

旅人  さあ、箱根に泊るか、夜通し歩くか、まだはっきりとは決めていないんですが……。ここらの山に(けもの)が出ますか。

重兵衛 むかしは狼が出たとか、猪や熊も出たとか云うことですが、今じゃあ何が出るもんですか。(ただ)ときどきに猿が出て来て、油断をしていると食い物を盗んで行く位のことですよ。

旅人  (安心したように。)そうですか。それじゃあ夜道も安心だ。(窓のかたを見かえる。)今夜は()い月ですね。

重兵衛 旧暦の十三夜ですよ。(思い出したように笑う。)眼の前に(すすき)は沢山()えていながら、今夜は供えるのを忘れてしまった。

旅人  十三夜ですか。(考える。)先月の十五夜は……ここらも()い月でしたか。

重兵衛 いい月でしたよ。

旅人  (何かの感慨に(ふけ)るように。)東京もいい月でした。

重兵衛 あなたは東京でしょうね。

旅人  ええ、まあ、そうです。

重兵衛 今歌って来たのはあなたでしょう。

旅人  聞えましたか。いや、どうも……。(きまりが悪そうに頭を撫でる。)実はあんまり寂しいので、聞きかじりの小唄を出たらめに、はははははは。

重兵衛 わたしは田舎者でなんにも判りませんが、あなたは中々いい(のど)のようですね。

旅人  冗談でしょう。人通りのない山の中だから遠慮なしに大きな声を出したので……。東京のまん中じゃあ気恥かしくって歌えませんよ。

重兵衛 (同じく笑いながら。)その東京の人がここらへ来て、それから甲州へ行く……。どこかのお帰りですか。

旅人  (少し躊躇(ちゅうちょ)しながら。)ええ。わたしは旅行好きで、それからそれへと飛び歩いているんです。

重兵衛 それはお(たのし)みですね。

旅人  一月(ひとつき)ほど前、丁度(ちょうど)十五夜の晩から(うち)を飛び出して、方々(ほうぼう)をあるいて来ました。

重兵衛 どっちの方をあるいてお()でなすった。

旅人  初めは東北地方へ出かけて、那須(なす)の方へ行きました。それから福島の飯坂(いいざか)へ行って、会津(あいづ)へ行って……。それから越後へ出て、北国(ほっこく)の方をまわって……。東海道を汽車で帰って来て、今夜は熱海(あたみ)で降りました。

重兵衛 (おどろいたように。)ほう、随分あるきましたね。

旅人  熱海から山道伝いにここまで来たんですが、夜ではあり、道の案内を知らないので、今もいう通り、出たらめの小唄を呶鳴(どな)りながら、無茶苦茶に歩いて……。(苦笑いする。)ここは一体なんと云う所ですね。

重兵衛 あなたは湯河原(ゆがわら)の温泉を御存じでしょう。

旅人  湯河原……。知っています。

重兵衛 その温泉場から遠くない、土肥(とい)の杉山という所です。頼朝(よりとも)が隠れたという大杉が先頃まで残っていましたが、今はもう枯れてしまいました。

旅人  それじゃあ里から遠くないんですね。

重兵衛 山の中と云っても、里は近いのです。わたしの(うち)()ぐ下の村で、女房や娘は百姓をしていますよ。

旅人  ひとりでここに住んでいるんですか。

重兵衛 ここは炭焼小屋ですから、わたしだけが住んでいるのです。

旅人  (あたりを見まわして。)ああ、炭焼小屋ですか。

重兵衛 ((かみ)のかたを指さす。)(かま)はこの小屋のうしろにあります。

旅人  成程(なるほど)。(うなずいて。)それにしても、ひとりて寂しくはありませんか。

重兵衛 馴れているから別に寂しいとも思いません。それに村が近いので、(うち)の者も時々にたずねて来ますからね。今夜も子供がひとり泊りに来ています。

旅人  子供さんは幾つです。

重兵衛 年弱(としよわ)の七つですから、まだ本当の子供ですよ。

旅人  子供さんがいるなら、ここに()い物があります。(リュックサックの中から(すし)折詰(おりづめ)を取出す。)これは汽車の中で買ったんですが、ここで(ふた)を明けることにしましょう。(折の蓋をあける。)

重兵衛 やあ、それは御馳走ですね。子供はさぞ喜ぶでしょう。(奥に向って呼ぶ。)おい、太吉。ここへ来い、ここへ来い。お客様が()い物を下さるぞ。早く出て来い。

    (障子の内では答えず。重兵衛は立って、障子をあけて覗く。)

重兵衛 これ、何をしているのだ。お客さまが(うま)いものを下さると云うのだ。(笑いながら。)まあ、だまされたと思って来てみろ。

旅人  もう寝てしまったんですか。

重兵衛 なに、起きているのですが……。これ、太吉。なぜ隅の方に小さくなっているのだ。さあ、出て来い。ええ、出て来ねえか。

太吉  (泣声で。)(いや)だよ、(いや)だよ。怖いよ。

重兵衛 又そんなことを……。この弱虫め。まあ来てみろと云うのに……。この野郎、ぐずぐずしていると、(えり)(くび)をつかんで引摺(ひきず)り出すぞ。

    (重兵衛は太吉の腕をつかんで、無理に引摺(ひきず)り出して来る。太吉は旅人を一目見るや、更に恐怖の念を増したる如く、身をすくめて土間の隅に小さくなっている。)

重兵衛 さあ、お客様に御挨拶をしねえか。

旅人  (笑いながら。)今晩は……。

    (太吉は答えず、いよいよ身を(すく)めている。)

重兵衛 (舌打ちして。)仕様のねえ奴だな。まあ、折角の御馳走ですから、番茶でも()れましょう。湯ももう沸いたようです。

    (重兵衛は太吉を横目に睨みながら、自在(じざい)湯沸(ゆわか)しを取って(しも)のかたへ行き、棚から土瓶(どびん)をおろして茶の支度をする。(ふくろう)の声。)

旅人  (これもやや恐怖を感じたように。)あ。あの声はなんですか。

重兵衛 梟ですよ。

旅人  (いや)な声ですね。

重兵衛 あなた、聞いた事はありませんか。

旅人  下町に住んでいたので、聞いたことがありません。いや、どこかで聞いた事があるかも知れないが、あんな(いや)な声だとは思いませんでした。(梟の声つづけて(きこ)ゆ。)ああ、又()いている……。なんだか人を呼んでいるようですね。

重兵衛 わたし達は年中聞き慣れているので、なんとも思いませんが、たまに聞く人には(いや)な声かも知れませんね。

    (重兵衛は盆の上に土瓶(どびん)と茶碗を乗せて、再び炉の前に来る。)

重兵衛 こんな所ですから(きたな)い茶碗で、まあ御勘弁ください。

旅人  色々御厄介になります。(茶をのみながら。)さあ、遠慮なしに喰べて下さい。((すし)の折を差出(さしだ)す。)子供さんは嫌いですか。

重兵衛 嫌いどころか大好きで、飛び付いて喰べるのですよ。(太吉に。)これ見ろ。おまえが大好きな玉子もあるぞ。海苔巻(のりま)きもあるぞ。早くここへ来て御馳走になれ。おまえは鮓は嫌いか。

    (太吉は首をのばしてそっと覗いたが、旅人を見ると又(にわか)に小さくなる。重兵衛は客の手前もあり、わが子の意気地のないのが腹立たしくもあり、声を(あら)くして(しか)り付ける。)

重兵衛 やい、何をぐずぐずしているのだ。ここへ来い、ここへ来い。

太吉  (低い声で。)あい。

重兵衛 あいじゃあねえ。お客様がいるのに行儀の悪い奴だ。早く来い、この野郎……。(炉のそばにある枯枝を()って、太吉に叩き付ける。)

旅人  (あわてて(さえぎ)る。)あ、あぶない。怪我(けが)でもさせると、いけない。

重兵衛 なに、云うことを()かない時には、いつでも()うして引っぱたくのです。野郎、まだ来ねえか。(又もや枯枝をふり上げる。)

    (太吉も今は引込(ひっこ)んでもいられず、恐る恐る這い出して来て、父のうしろに寄添(よりそ)うと、重兵衛は鮓の折を()って、その眼さきに突き付ける。)

重兵衛 どうだ。(うま)そうだろう。お客さまにお辞儀をして、どれでも()いのを喰べてみろ。

    (太吉は父のうしろに隠れたままで答えず。)

旅人  (笑いながら。)早くおあがんなさい。

    (その声を聞くや、太吉は又ふるえ(あが)って、父の背中に獅噛(しが)み付く。)

重兵衛 今夜に限って変な奴だな。おまえが喰べなければ、お父さんが()んな喰べてしまうぞ。いいか。

    (太吉は無言で首肯(うなず)く。重兵衛は(すし)を一つ取って(うま)そうに食い、茶をのむ。旅人は巻烟草(まきたばこ)を出して吸いはじめる。(ふくろう)の声。)

重兵衛 わたしばかりが遠慮なしに喰べていちゃあ失礼だ。あなたもどうぞ(あが)って下さい。

旅人  いえ、わたしは烟草(たばこ)の方が()い。あなたもどうです、烟草は……。(巻烟草を出す。)

重兵衛 やあ、これは色々御馳走さまで……。じゃあ、一本頂戴します。(烟草を貰って吸いながら、太吉をみかえる。)こいつはわたしの末ッ子で、始終ここへ遊びに来たり、泊りに来たりして、さびしいのには慣れているのに、今夜に限ってさびしいの、怖いのと云うのです。ここはこの通りの一軒家ですから、山道に迷った人なんぞが時々にたずねて来ることもありますが、こいつは馬鹿に人なつッこい奴で、()らない人でも()ぐにお友達のようになって、おじさんおじさんと云っているのですが、どう云うわけだか今夜のあなたに限って、お辞儀もしないし、口も()かないで、私のうしろに小さくなっているばかりで……。まったく変な奴ですよ。

旅人  (笑う。)わたしがよっぽど嫌われたと見える……。いや、わたしはこの子ばかりじゃあない、誰にでも嫌われるような人間に出来ているんです。

重兵衛 それこそ御冗談でしょう。御馳走になったからお世辞をいうのじゃあねえが、あなたのような人を嫌う者はありますまい。はははははは。

旅人  (力強く。)いえ、嫌われますよ。取分(とりわ)けて女には嫌われたり、だまされたり……。まったく哀れな人間です。

重兵衛 (笑いながら。)あなたは裏を云っているのじゃありませんか。

旅人  裏も表もない。ほんとうのことですよ。現に今度の旅行でも、ゆく先々で(いや)がられたり、嫌われたり、どこでも()い顔をされませんでした。

重兵衛 なぜでしょう。

旅人  わたしがそういう人間に出来ているんでしょう。

重兵衛 そうですかねえ。

    (話に継穂(つぎほ)がなく、二人は黙って烟草を吸っている。(しも)のかたよりおつや、二十四五歳、熱海あたりの芸妓(げいこ)とおぼしき風俗にて()づ。おつやは(すこぶ)る威勢のいい女、少し酔っている。)

おつや (窓の外より呼ぶ。)おじさん。黒い小父(おじ)さん。

重兵衛 誰だ。(覗いて。)おお、おつやか。今頃どうして来た。

おつや (少し躊躇(ちゅうちょ)しながら。)お客様じゃあない……。

重兵衛 むむ、お客様だが……。まあ、遠慮なしに這入(はい)れよ。

旅人  どうぞお構いなく……。

おつや じゃあ、御免なさい。

    (おつやは正面の戸をあけて内に入り、炉のまえに来て旅人に会釈する。旅人も無言で会釈する。)

おつや (馴々(なれなれ)しく。)今晩はなかなか冷えますね。

旅人  急に寒くなったようです。

重兵衛 (おつやをじろじろ見て。)今頃ここへどうして来たんだよ。

おつや (旅人を見返りながら。)お客さまの前で云っても()いの。

重兵衛 悪い事をしたのでなけりゃあ、誰の前でも遠慮はねえ筈だ。まさかに警察から追っ掛けられている訳でもあるめえ。

    (旅人は少しく顔の色を動かしたが、やはり冷静に聴いている。)

おつや 仕舞(しまい)にゃあ追っ掛けられるような事になるかも知れないが……。(笑う。)実は……あたし、主人と衝突してね。

重兵衛 (顔をしかめながら笑う。)また飛び出したのか。困った阿婆摺(あばず)れ女だな。今度でもう三度目じゃあねえか。おめえの主人は熱海でも評判の()(うち)だと云うのに、どうしてそう喧嘩をするのかな。

おつや どうしてと云って……。つまりは(しょう)が合わないんでしょうね。十月に這入(はい)って、土地も()としきり繁昌(はんじょう)する時節だから、その稼ぎ時に五六日も(うち)をあけて、()っと主人を困らせて()りたいのさ。黒いおじさん、だしぬけで済みませんが、五六日の間ここへ(かく)まって()れない……。

重兵衛 隠れるなら小田原へ行くがいいじゃあねえか。自分の家がある筈だ。

おつや 自分の家じゃあ()ぐに追手(おって)がかかるのは知れている。と云って、(ふとこ)ろは秋風(あきかぜ)だから、東京や横浜までのして行って、ぶらぶら遊んでいるほどの元気も無し、ここなら誰も気が()く気づかいも無いから、まあ五六日(かく)まって貰って、()い時分に天から降ったようにのっそりと帰る(つも)り……。ねえ、後生(ごしょう)だから置いて頂戴よ。

重兵衛 飛んでもねえ主人泣かせだな。稼ぎ時に稼がなけりゃあ、主人が困るばかりでなく、第一自分の損にもなるじゃあねえか。そのくらいの理屈が判らねえのか。

おつや あら、(いや)だ。損得なんぞを考えて、主人と喧嘩が出来るかって云うんだ。はははははは。(笑いながら旅人に。)ねえ、あなた。そうでしょう。

旅人  (同じく笑いながら。)そうかも知れませんね。

おつや (重兵衛に。)そら御覧なさいな。こちらだって、あたしに同情して下さるわ。黒いおじさんだって、女ひとりが()うして駆け込んで来た以上、いざ(なわ)()って代官所へなんて、野暮なことを云やあしないでしょう。

重兵衛 どうでおれは野暮な人間だが……。(苦笑いして。)まったくお前は女ひとり……。いくら月夜でも、これから夜道を追い返すわけにも行くめえ。今夜だけはまあ泊めて()るから、あしたになったら何処(どこ)へでも勝手に出て行ってくれ。長く泊めて置くことは出来ねえぞ。いいか。

おつや はい、はい。あしたになれば又あしたの風が吹きます。行き暮らしたる旅の修行者、一夜の宿をお貸し下されば結構でございます。まあ、まあ、これで安心した。あはははははは。(云いながら太吉に眼をつける。)あら、()ァちゃん、そこにいたの。あんまりおとなしいので、()っとも気が()かなかった。さあ、おばさんのとこへお()でよ。

    (おつやに招かれて、太吉はその(そば)へ寄って行くが、やはり気味悪そうに旅人の顔色をうかがっている。)

おつや ()ァちゃん、お前どうしたの。木から落っこちた(えて)さんのように、今夜は(いや)ぼんやりだね。もう眠くなったのかい。

重兵衛 さっき寝かし付けたのだが、何か(うな)されたように怖い怖いと云って、又ここへ()()して来たのだ。

おつや あら、なにが怖いのさ。()ァちゃんは不断から強い強いと自慢して、将来は拳闘家になると威張(いば)っているんじゃないか。ここにはこの通り、おとっさんもいるし、あたしも居るし、このお客様もおいでなさるし……。狐が来たって、狸が来たって、なにが来たって、びくとする事があるもんかね。

    (おつやが「このお客様」と云った時、太吉はまた(おび)えておつやに獅噛(しが)み付く。おつやも気がついて、旅人をみかえる。)

おつや おかしいね、この子は……。(笑う。)こちらが知らない方だもんだから、お前は人みしりをするんだね。こちらは立派な紳士さんで、なんにも怖いことは無いんだよ。

旅人  わたしはさっきから()の子に嫌われているんですよ。

重兵衛 こうして(すし)を下すったりなんかするのに、そいつは手も出さなければ、お辞儀もしねえ。仕様のねえ馬鹿野郎だ。

おつや ほんとうに仕様のないお馬鹿さんだね。(鮓を見て。)じゃあ、これはこちらが下すったの。()ァちゃんの代りに、あたしが一つ御馳走になっても()いかしら。

旅人  どうで(うま)くはありますまいが、さあ、さあ、遠慮なしに食べて下さい。

おつや 行儀の悪い千松(せんまつ)でございます。どうぞ御勘弁を……。

    (おつやは笑いながら鮓を一つ(つま)んで食う。重兵衛もまた食う。旅人は烟草(たばこ)を吸いながら眺めている。)

おつや おじさん。後生(ごしょう)だからお(ぶう)を一杯……。

重兵衛 そうか、そうか。はは、忘れていた。(膳棚へ茶碗を取りにゆく。)

旅人  (思い出したように。)いや、わたしも忘れていた。お茶よりもここに()い飲み物がありますよ。(リュックサックより大罎(おおびん)の酒を取出(とりだ)す。)これはどうです。

おつや あら、お酒……。まあ、素敵だわ。あなたは色々の物を仕込んでお()でなすったのね。

旅人  どこで野宿をするかも知れないと思って、途中で買って来たんですよ。さあ、飲んで下さい。

おつや あたしがお(しゃく)をしますから、あなたもお飲みなさいよ。ちょいと、黒いおじさん。

重兵衛 一々黒いおじさんと云うなよ。

おつや だって、おじさんは炭を焼く人じゃあないの。

重兵衛 なるほど炭焼にゃあ相違ねえが、御叮嚀(ごていねい)に黒と(ことわ)るにゃあ及ばねえ。口の悪い奴だ。

おつや 黒がそんなに悪いかしら。天下を望む大伴(おおとも)黒主(くろぬし)と来りゃあ、黒だって役がいいわ。まあ、そんなことより、これ、これ……。((びん)をみせる。)又こんなものを頂いたのよ。

重兵衛 ほう、酒か。(顔をくずして。)いよいよ御馳走だな。

おつや さあ、さあ、これから宴会を開きます。幹事諸君もお席へお着きください。はははははは。

    (おつやは膳棚の下へ行って罎の口を抜き、小さい盆に乗せて来る。太吉はうろうろして、そのあとへ附いてゆく。)

おつや うるさいねえ、この子は……。糸の切れた奴凧(やっこだこ)のように、なぜそうからみ付くんだよ。(旅人に。)まあ、あなたから……。こんながら(ぱち)のサアビスじゃあお気に入りますまいけれど……。

旅人  いや、どうも……。(自分の茶碗に受けて少し飲む。)

おつや さあ、おじさん。

重兵衛 (旅人に会釈する。)じゃあ頂きます。(おつやに()がせて飲む。)ああ、結構な酒だ。おまえも御馳走になれよ。

旅人  わたしがお酌をしましょう。

おつや あら、あなたが……。どうも済みません。(旅人の酌で飲む。)ねえ、黒……。おっと、白いおじさん。こうなると、あたし今夜は馬鹿に愉快になっちまったよ。主人と衝突して、さっきから無暗(むやみ)むしゃくしゃして……。そら、()んとか云うでしょう。ああ、憂欝、憂欝……。その憂欝になっていたのが、ここで()うして一杯飲んだら、胸がすうとして、急に(ほがら)かになって……。ああ、()心持(こころもち)だ。トテモ愉快だわ。

    (おつやは再び重兵衛に酌をする。重兵衛も()心持(こころもち)そうに飲む。旅人は無言でおつやに酌をする。)

おつや まだ飲ませて下さるの。はい、はい、恐れ入りました。(又飲む。)ねえ、あなた。まだ御挨拶も致しませんでしたが、あたくしはこのおじさんの遠縁にあたる者で、生れは相州小田原在、餓鬼(がき)の折から手癖(てくせ)が悪く……じゃあ大変だが、まあ()っとばかりペンペンを仕込まれたのが因果で、()ず小田原を振出(ふりだ)しに、東海道を股にかけという程でもございませんが、大磯(おおいそ)箱根(はこね)や湯河原を流れ渡って、唯今(ただいま)では熱海の(まつ)()に巣を食って居ります。俗名はおつや、芸名

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