2話 影 (一幕)(2)
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太吉 おとっさん、お父さん……。
重兵衛 (みかえる。)なんだ、なんだ。
太吉 怖いよう。
重兵衛 なにが怖い。(立上る。)夢でも見たのか。
(重兵衛は笑いながら、上のかたの障子をあけると、七歳の太吉が寝床から這い出して来る。)
重兵衛 はは、どうした、どうした。
太吉 (父に縋り付く。)怖いよう。
重兵衛 なにが怖いのだと云うのに……。おとっさんはここにいるから大丈夫だ。(笑いながら叱る。)弱虫め。しっかりしろ。
太吉 でも、なんだか怖いよ。おとっさん。
重兵衛 なにを云やあがるんだ、馬鹿野郎……。(声がやや暴くなる。)そんな弱虫で、おとっさんと一緒にここにいられるか。あしたはもう家へ追いかえして仕舞うから、そう思え。いいか。
(太吉はだまっている。)
重兵衛 それだから家にいろと云うのに、お父さんと一緒ならさびしくねえと云って、無理にここへ附いて来たんじゃあねえか。お父さんは年中この山の中の一軒家に住んでいるが、唯の一度だって怖いと思った事なんぞありゃあしねえ。(云いかけて肩をすくめる。)ああ、夜になったら薄ら寒くなって来た。さあ、おまえも火のそばへ来て、よく暖まって寝ろ。怖いのじゃあねえ、寒いのだ。よく暖まって、好い心持にぐっすり寝ろ。
(太吉はやはり無言で炉の前に来る。重兵衛は更に枯枝をくべる。梟の声。)
太吉 (怖ろしそうに耳を傾ける。)お父さん。あれ、あんな声が……。
重兵衛 あれは梟だ。梟が啼くのだ。めずらしくもねえ。(笑う。)おまえは今夜、どうかしているな。
(二人は向い合って焚火にあたっている。薄く山風の音。小唄の声遠く聞ゆ。)
惚れて通うに何怖かろう。
(太吉は俄に立上りて、再び父に取縋る。)
太吉 怖いよう。おとっさん。
重兵衛 また始めやあがった。意気地無しめ。いよいよあしたは家へ帰してしまうぞ。
太吉 (恐怖の眼を表へ向けて。)あれ、来たよ、来たよ。
今宵も逢おうと、闇の夜道を唯ひとり。
重兵衛 成ほど、だれか歌いながら来るようだ。聞き慣れねえ声だから、ここらの若え者じゃあるめえ。旅の人でも迷って来たかな。
先や左程にも思やせぬのに、こちゃ登りつめ、山を越えて逢いにゆく。
(重兵衛は唄を聴いている。太吉は顫えながら父に獅噛み付いている。やがて重兵衛は立って、下のかたの窓から覗く。)
重兵衛 ああ。こっちへ来た、来た。
太吉 怖いよう。
(太吉はもう堪らなくなって奥へ逃げ込み、一生懸命に障子をがたがたと閉める。重兵衛は表をながめている。下のかたより二十五六歳の旅人、旅やつれは見えながらも人柄は賤しからず、洋服を着て登山帽をかぶり、足にはゲートルを着け、リュックサックを背負い、木の枝を杖にして出づ。)
旅人 (重兵衛に声をかける。)済みませんが、少し休ませて貰えませんか。
重兵衛 はい、はい。どうぞお這入り下さい。
旅人 這入っても構いませんか。
重兵衛 かまいませんよ。(正面の戸をあける。)さあ、さあ……。
旅人 (内に入る。)とんだお邪魔をします。
重兵衛 焚火も丁度燃え付いた所だ。さあ、おあたりなさい。
旅人 ありがとうございます。(リュックサックをおろして、炉の前に腰をかける。)まだ十月のなかばだと云うのに、山の中は随分寒うござんすね。
重兵衛 (笑う。)山の中という程でもないが、それでも夜になると、里よりは滅切り冷えて来るようですよ。あなたは夜道をかけて、今頃どうしてこんな所へお出でなすったのだね。
旅人 箱根を越して甲州へ出る積りです。
重兵衛 はあ、甲州へ……。
旅人 行かれるでしょうね。
重兵衛 わたしも行ったことは無いが、行かれる筈ですよ。それじゃあ今夜は箱根泊りですね。
旅人 さあ、箱根に泊るか、夜通し歩くか、まだはっきりとは決めていないんですが……。ここらの山に獣が出ますか。
重兵衛 むかしは狼が出たとか、猪や熊も出たとか云うことですが、今じゃあ何が出るもんですか。唯ときどきに猿が出て来て、油断をしていると食い物を盗んで行く位のことですよ。
旅人 (安心したように。)そうですか。それじゃあ夜道も安心だ。(窓のかたを見かえる。)今夜は好い月ですね。
重兵衛 旧暦の十三夜ですよ。(思い出したように笑う。)眼の前に薄は沢山生えていながら、今夜は供えるのを忘れてしまった。
旅人 十三夜ですか。(考える。)先月の十五夜は……ここらも好い月でしたか。
重兵衛 いい月でしたよ。
旅人 (何かの感慨に耽るように。)東京もいい月でした。
重兵衛 あなたは東京でしょうね。
旅人 ええ、まあ、そうです。
重兵衛 今歌って来たのはあなたでしょう。
旅人 聞えましたか。いや、どうも……。(きまりが悪そうに頭を撫でる。)実はあんまり寂しいので、聞きかじりの小唄を出たらめに、はははははは。
重兵衛 わたしは田舎者でなんにも判りませんが、あなたは中々いい喉のようですね。
旅人 冗談でしょう。人通りのない山の中だから遠慮なしに大きな声を出したので……。東京のまん中じゃあ気恥かしくって歌えませんよ。
重兵衛 (同じく笑いながら。)その東京の人がここらへ来て、それから甲州へ行く……。どこかのお帰りですか。
旅人 (少し躊躇しながら。)ええ。わたしは旅行好きで、それからそれへと飛び歩いているんです。
重兵衛 それはお楽みですね。
旅人 一月ほど前、丁度十五夜の晩から家を飛び出して、方々をあるいて来ました。
重兵衛 どっちの方をあるいてお出でなすった。
旅人 初めは東北地方へ出かけて、那須の方へ行きました。それから福島の飯坂へ行って、会津へ行って……。それから越後へ出て、北国の方をまわって……。東海道を汽車で帰って来て、今夜は熱海で降りました。
重兵衛 (おどろいたように。)ほう、随分あるきましたね。
旅人 熱海から山道伝いにここまで来たんですが、夜ではあり、道の案内を知らないので、今もいう通り、出たらめの小唄を呶鳴りながら、無茶苦茶に歩いて……。(苦笑いする。)ここは一体なんと云う所ですね。
重兵衛 あなたは湯河原の温泉を御存じでしょう。
旅人 湯河原……。知っています。
重兵衛 その温泉場から遠くない、土肥の杉山という所です。頼朝が隠れたという大杉が先頃まで残っていましたが、今はもう枯れてしまいました。
旅人 それじゃあ里から遠くないんですね。
重兵衛 山の中と云っても、里は近いのです。わたしの家も直ぐ下の村で、女房や娘は百姓をしていますよ。
旅人 ひとりでここに住んでいるんですか。
重兵衛 ここは炭焼小屋ですから、わたしだけが住んでいるのです。
旅人 (あたりを見まわして。)ああ、炭焼小屋ですか。
重兵衛 (上のかたを指さす。)竈はこの小屋のうしろにあります。
旅人 成程。(うなずいて。)それにしても、ひとりて寂しくはありませんか。
重兵衛 馴れているから別に寂しいとも思いません。それに村が近いので、家の者も時々にたずねて来ますからね。今夜も子供がひとり泊りに来ています。
旅人 子供さんは幾つです。
重兵衛 年弱の七つですから、まだ本当の子供ですよ。
旅人 子供さんがいるなら、ここに好い物があります。(リュックサックの中から鮓の折詰を取出す。)これは汽車の中で買ったんですが、ここで蓋を明けることにしましょう。(折の蓋をあける。)
重兵衛 やあ、それは御馳走ですね。子供はさぞ喜ぶでしょう。(奥に向って呼ぶ。)おい、太吉。ここへ来い、ここへ来い。お客様が好い物を下さるぞ。早く出て来い。
(障子の内では答えず。重兵衛は立って、障子をあけて覗く。)
重兵衛 これ、何をしているのだ。お客さまが旨いものを下さると云うのだ。(笑いながら。)まあ、だまされたと思って来てみろ。
旅人 もう寝てしまったんですか。
重兵衛 なに、起きているのですが……。これ、太吉。なぜ隅の方に小さくなっているのだ。さあ、出て来い。ええ、出て来ねえか。
太吉 (泣声で。)忌だよ、忌だよ。怖いよ。
重兵衛 又そんなことを……。この弱虫め。まあ来てみろと云うのに……。この野郎、ぐずぐずしていると、襟ッ首をつかんで引摺り出すぞ。
(重兵衛は太吉の腕をつかんで、無理に引摺り出して来る。太吉は旅人を一目見るや、更に恐怖の念を増したる如く、身をすくめて土間の隅に小さくなっている。)
重兵衛 さあ、お客様に御挨拶をしねえか。
旅人 (笑いながら。)今晩は……。
(太吉は答えず、いよいよ身を竦めている。)
重兵衛 (舌打ちして。)仕様のねえ奴だな。まあ、折角の御馳走ですから、番茶でも淹れましょう。湯ももう沸いたようです。
(重兵衛は太吉を横目に睨みながら、自在の湯沸しを取って下のかたへ行き、棚から土瓶をおろして茶の支度をする。梟の声。)
旅人 (これもやや恐怖を感じたように。)あ。あの声はなんですか。
重兵衛 梟ですよ。
旅人 忌な声ですね。
重兵衛 あなた、聞いた事はありませんか。
旅人 下町に住んでいたので、聞いたことがありません。いや、どこかで聞いた事があるかも知れないが、あんな忌な声だとは思いませんでした。(梟の声つづけて聞ゆ。)ああ、又啼いている……。なんだか人を呼んでいるようですね。
重兵衛 わたし達は年中聞き慣れているので、なんとも思いませんが、たまに聞く人には忌な声かも知れませんね。
(重兵衛は盆の上に土瓶と茶碗を乗せて、再び炉の前に来る。)
重兵衛 こんな所ですから穢い茶碗で、まあ御勘弁ください。
旅人 色々御厄介になります。(茶をのみながら。)さあ、遠慮なしに喰べて下さい。(鮓の折を差出す。)子供さんは嫌いですか。
重兵衛 嫌いどころか大好きで、飛び付いて喰べるのですよ。(太吉に。)これ見ろ。おまえが大好きな玉子もあるぞ。海苔巻きもあるぞ。早くここへ来て御馳走になれ。おまえは鮓は嫌いか。
(太吉は首をのばしてそっと覗いたが、旅人を見ると又俄に小さくなる。重兵衛は客の手前もあり、わが子の意気地のないのが腹立たしくもあり、声を暴くして叱り付ける。)
重兵衛 やい、何をぐずぐずしているのだ。ここへ来い、ここへ来い。
太吉 (低い声で。)あい。
重兵衛 あいじゃあねえ。お客様がいるのに行儀の悪い奴だ。早く来い、この野郎……。(炉のそばにある枯枝を把って、太吉に叩き付ける。)
旅人 (あわてて遮る。)あ、あぶない。怪我でもさせると、いけない。
重兵衛 なに、云うことを肯かない時には、いつでも斯うして引っぱたくのです。野郎、まだ来ねえか。(又もや枯枝をふり上げる。)
(太吉も今は引込んでもいられず、恐る恐る這い出して来て、父のうしろに寄添うと、重兵衛は鮓の折を把って、その眼さきに突き付ける。)
重兵衛 どうだ。旨そうだろう。お客さまにお辞儀をして、どれでも好いのを喰べてみろ。
(太吉は父のうしろに隠れたままで答えず。)
旅人 (笑いながら。)早くおあがんなさい。
(その声を聞くや、太吉は又ふるえ上って、父の背中に獅噛み付く。)
重兵衛 今夜に限って変な奴だな。おまえが喰べなければ、お父さんが皆んな喰べてしまうぞ。いいか。
(太吉は無言で首肯く。重兵衛は鮓を一つ取って旨そうに食い、茶をのむ。旅人は巻烟草を出して吸いはじめる。梟の声。)
重兵衛 わたしばかりが遠慮なしに喰べていちゃあ失礼だ。あなたもどうぞ上って下さい。
旅人 いえ、わたしは烟草の方が好い。あなたもどうです、烟草は……。(巻烟草を出す。)
重兵衛 やあ、これは色々御馳走さまで……。じゃあ、一本頂戴します。(烟草を貰って吸いながら、太吉をみかえる。)こいつはわたしの末ッ子で、始終ここへ遊びに来たり、泊りに来たりして、さびしいのには慣れているのに、今夜に限ってさびしいの、怖いのと云うのです。ここはこの通りの一軒家ですから、山道に迷った人なんぞが時々にたずねて来ることもありますが、こいつは馬鹿に人なつッこい奴で、識らない人でも直ぐにお友達のようになって、おじさんおじさんと云っているのですが、どう云うわけだか今夜のあなたに限って、お辞儀もしないし、口も利かないで、私のうしろに小さくなっているばかりで……。まったく変な奴ですよ。
旅人 (笑う。)わたしがよっぽど嫌われたと見える……。いや、わたしはこの子ばかりじゃあない、誰にでも嫌われるような人間に出来ているんです。
重兵衛 それこそ御冗談でしょう。御馳走になったからお世辞をいうのじゃあねえが、あなたのような人を嫌う者はありますまい。はははははは。
旅人 (力強く。)いえ、嫌われますよ。取分けて女には嫌われたり、だまされたり……。まったく哀れな人間です。
重兵衛 (笑いながら。)あなたは裏を云っているのじゃありませんか。
旅人 裏も表もない。ほんとうのことですよ。現に今度の旅行でも、ゆく先々で忌がられたり、嫌われたり、どこでも好い顔をされませんでした。
重兵衛 なぜでしょう。
旅人 わたしがそういう人間に出来ているんでしょう。
重兵衛 そうですかねえ。
(話に継穂がなく、二人は黙って烟草を吸っている。下のかたよりおつや、二十四五歳、熱海あたりの芸妓とおぼしき風俗にて出づ。おつやは頗る威勢のいい女、少し酔っている。)
おつや (窓の外より呼ぶ。)おじさん。黒い小父さん。
重兵衛 誰だ。(覗いて。)おお、おつやか。今頃どうして来た。
おつや (少し躊躇しながら。)お客様じゃあない……。
重兵衛 むむ、お客様だが……。まあ、遠慮なしに這入れよ。
旅人 どうぞお構いなく……。
おつや じゃあ、御免なさい。
(おつやは正面の戸をあけて内に入り、炉のまえに来て旅人に会釈する。旅人も無言で会釈する。)
おつや (馴々しく。)今晩はなかなか冷えますね。
旅人 急に寒くなったようです。
重兵衛 (おつやをじろじろ見て。)今頃ここへどうして来たんだよ。
おつや (旅人を見返りながら。)お客さまの前で云っても好いの。
重兵衛 悪い事をしたのでなけりゃあ、誰の前でも遠慮はねえ筈だ。まさかに警察から追っ掛けられている訳でもあるめえ。
(旅人は少しく顔の色を動かしたが、やはり冷静に聴いている。)
おつや 仕舞にゃあ追っ掛けられるような事になるかも知れないが……。(笑う。)実は……あたし、主人と衝突してね。
重兵衛 (顔をしかめながら笑う。)また飛び出したのか。困った阿婆摺れ女だな。今度でもう三度目じゃあねえか。おめえの主人は熱海でも評判の好い家だと云うのに、どうしてそう喧嘩をするのかな。
おつや どうしてと云って……。つまりは性が合わないんでしょうね。十月に這入って、土地も一としきり繁昌する時節だから、その稼ぎ時に五六日も家をあけて、些っと主人を困らせて遣りたいのさ。黒いおじさん、だしぬけで済みませんが、五六日の間ここへ隠まって呉れない……。
重兵衛 隠れるなら小田原へ行くがいいじゃあねえか。自分の家がある筈だ。
おつや 自分の家じゃあ直ぐに追手がかかるのは知れている。と云って、懐ろは秋風だから、東京や横浜までのして行って、ぶらぶら遊んでいるほどの元気も無し、ここなら誰も気が注く気づかいも無いから、まあ五六日隠まって貰って、好い時分に天から降ったようにのっそりと帰る積り……。ねえ、後生だから置いて頂戴よ。
重兵衛 飛んでもねえ主人泣かせだな。稼ぎ時に稼がなけりゃあ、主人が困るばかりでなく、第一自分の損にもなるじゃあねえか。そのくらいの理屈が判らねえのか。
おつや あら、忌だ。損得なんぞを考えて、主人と喧嘩が出来るかって云うんだ。はははははは。(笑いながら旅人に。)ねえ、あなた。そうでしょう。
旅人 (同じく笑いながら。)そうかも知れませんね。
おつや (重兵衛に。)そら御覧なさいな。こちらだって、あたしに同情して下さるわ。黒いおじさんだって、女ひとりが斯うして駆け込んで来た以上、いざ縄打って代官所へなんて、野暮なことを云やあしないでしょう。
重兵衛 どうでおれは野暮な人間だが……。(苦笑いして。)まったくお前は女ひとり……。いくら月夜でも、これから夜道を追い返すわけにも行くめえ。今夜だけはまあ泊めて遣るから、あしたになったら何処へでも勝手に出て行ってくれ。長く泊めて置くことは出来ねえぞ。いいか。
おつや はい、はい。あしたになれば又あしたの風が吹きます。行き暮らしたる旅の修行者、一夜の宿をお貸し下されば結構でございます。まあ、まあ、これで安心した。あはははははは。(云いながら太吉に眼をつける。)あら、太ァちゃん、そこにいたの。あんまりおとなしいので、些っとも気が注かなかった。さあ、おばさんのとこへお出でよ。
(おつやに招かれて、太吉はその傍へ寄って行くが、やはり気味悪そうに旅人の顔色をうかがっている。)
おつや 太ァちゃん、お前どうしたの。木から落っこちた猿さんのように、今夜は忌にぼんやりだね。もう眠くなったのかい。
重兵衛 さっき寝かし付けたのだが、何か魘されたように怖い怖いと云って、又ここへ這い出して来たのだ。
おつや あら、なにが怖いのさ。太ァちゃんは不断から強い強いと自慢して、将来は拳闘家になると威張っているんじゃないか。ここにはこの通り、おとっさんもいるし、あたしも居るし、このお客様もおいでなさるし……。狐が来たって、狸が来たって、なにが来たって、びくとする事があるもんかね。
(おつやが「このお客様」と云った時、太吉はまた悸えておつやに獅噛み付く。おつやも気がついて、旅人をみかえる。)
おつや おかしいね、この子は……。(笑う。)こちらが知らない方だもんだから、お前は人みしりをするんだね。こちらは立派な紳士さんで、なんにも怖いことは無いんだよ。
旅人 わたしはさっきから其の子に嫌われているんですよ。
重兵衛 こうして鮓を下すったりなんかするのに、そいつは手も出さなければ、お辞儀もしねえ。仕様のねえ馬鹿野郎だ。
おつや ほんとうに仕様のないお馬鹿さんだね。(鮓を見て。)じゃあ、これはこちらが下すったの。太ァちゃんの代りに、あたしが一つ御馳走になっても好いかしら。
旅人 どうで旨くはありますまいが、さあ、さあ、遠慮なしに食べて下さい。
おつや 行儀の悪い千松でございます。どうぞ御勘弁を……。
(おつやは笑いながら鮓を一つ摘んで食う。重兵衛もまた食う。旅人は烟草を吸いながら眺めている。)
おつや おじさん。後生だからお湯を一杯……。
重兵衛 そうか、そうか。はは、忘れていた。(膳棚へ茶碗を取りにゆく。)
旅人 (思い出したように。)いや、わたしも忘れていた。お茶よりもここに好い飲み物がありますよ。(リュックサックより大罎の酒を取出す。)これはどうです。
おつや あら、お酒……。まあ、素敵だわ。あなたは色々の物を仕込んでお出でなすったのね。
旅人 どこで野宿をするかも知れないと思って、途中で買って来たんですよ。さあ、飲んで下さい。
おつや あたしがお酌をしますから、あなたもお飲みなさいよ。ちょいと、黒いおじさん。
重兵衛 一々黒いおじさんと云うなよ。
おつや だって、おじさんは炭を焼く人じゃあないの。
重兵衛 なるほど炭焼にゃあ相違ねえが、御叮嚀に黒と断るにゃあ及ばねえ。口の悪い奴だ。
おつや 黒がそんなに悪いかしら。天下を望む大伴の黒主と来りゃあ、黒だって役がいいわ。まあ、そんなことより、これ、これ……。(罎をみせる。)又こんなものを頂いたのよ。
重兵衛 ほう、酒か。(顔をくずして。)いよいよ御馳走だな。
おつや さあ、さあ、これから宴会を開きます。幹事諸君もお席へお着きください。はははははは。
(おつやは膳棚の下へ行って罎の口を抜き、小さい盆に乗せて来る。太吉はうろうろして、そのあとへ附いてゆく。)
おつや うるさいねえ、この子は……。糸の切れた奴凧のように、なぜそうからみ付くんだよ。(旅人に。)まあ、あなたから……。こんながらッ八のサアビスじゃあお気に入りますまいけれど……。
旅人 いや、どうも……。(自分の茶碗に受けて少し飲む。)
おつや さあ、おじさん。
重兵衛 (旅人に会釈する。)じゃあ頂きます。(おつやに注がせて飲む。)ああ、結構な酒だ。おまえも御馳走になれよ。
旅人 わたしがお酌をしましょう。
おつや あら、あなたが……。どうも済みません。(旅人の酌で飲む。)ねえ、黒……。おっと、白いおじさん。こうなると、あたし今夜は馬鹿に愉快になっちまったよ。主人と衝突して、さっきから無暗にむしゃくしゃして……。そら、何んとか云うでしょう。ああ、憂欝、憂欝……。その憂欝になっていたのが、ここで斯うして一杯飲んだら、胸がすうとして、急に朗かになって……。ああ、好い心持だ。トテモ愉快だわ。
(おつやは再び重兵衛に酌をする。重兵衛も好い心持そうに飲む。旅人は無言でおつやに酌をする。)
おつや まだ飲ませて下さるの。はい、はい、恐れ入りました。(又飲む。)ねえ、あなた。まだ御挨拶も致しませんでしたが、あたくしはこのおじさんの遠縁にあたる者で、生れは相州小田原在、餓鬼の折から手癖が悪く……じゃあ大変だが、まあ些っとばかりペンペンを仕込まれたのが因果で、先ず小田原を振出しに、東海道を股にかけという程でもございませんが、大磯箱根や湯河原を流れ渡って、唯今では熱海の松の家に巣を食って居ります。俗名はおつや、芸名