3話 獄中記(3)
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たぶん鍛冶橋のだろうと思うが、古いいわゆる牢屋が打ち壊されて、石と煉瓦との新しい監獄がここにできた時、その古い牢屋の古木で古い牢屋そのままの建物が一つここの一隅に建てられた、という話だ。そしてこの建物は、めくらだとかびっこだとか、足腰のろくに利かない老人だとかの、片輪者や半病人をいれる半病監みたようなものになっていた。僕は二度ともこの建物の中の広い一室をあてがわれた。
初め東京監獄からここに移されて、冷たい暗い一室の中にほうり込まれた時には、実は少々心細かった。春ももう夏近い暖かい太陽のぽかぽかと照る正午近い頃だった。それだのに、室へはいると急に冷たい空気にからだじゅうをぞっと打たれる。四方の真白に塗った煉瓦の壁や、入口の大きな鉄板の扉は、見るからにひいやりとさせる。試みにそれに手をあてて見ると、そこからぞくぞくと冷たさが身にしみて来る。それに、窓が伸びあがってもとどかない、上の方に小さく開いているので、薄暗くて陰気だ。座席として板の間に敷いてある一枚のうすべりまでが、べとべとと湿っているような気がする。
命ぜられたまま、扉に近く扉の方に向いてこのうすべりの上に坐っていたが、その扉は上下が鉄板でその間が鉄の格子になっていて、しかも僕の室のすぐ真ん前に看守がテーブルを控えて突っ立っているので、絶えず監視されているという不愉快が、その看守の大して意地悪そうでもない平凡な顔をまでも妙に不愉快にさせる。「石の家は人の心を冷たくする」というロシアの諺が思い出されて、ちょいちょい窃み見するようにして僕の方を見るその看守を、この男はきっと冷たい心を持っているに違いないなぞと思わせる。
やがて、しばらく廊下でガタガタ騒がしい音がすると思っていると、看守が扉を開けて「出ろ」と言うので出て見ると、二十人ばかりの囚人が向い合って二列にコンクリートの上のうすべりに坐って、両手を膝に置いて膳に向っている。僕もその端に坐った。
「礼!」
初めての僕にはちょっと何の意味だか分らない、大きな声の号令がかかった。みんなは膝に手を置いたままの形で首を下げた。僕はぼんやりしてみんなのすることを見ていた。
「喫飯!」
また何のことだか分らない、ただぱあんというのだけがはっきりと響く、大きな声の号令がかかった。みんなは急いで茶碗と箸とを手に持った。そしてめいめい別な大きな茶碗の中に円錐形の大きな塊に盛りあげられている飯を、大急ぎに、餓鬼道の亡者というのはこんなものだろうと思われるように、掻きこみ始めた、どんぶりから茶碗へ飯を移す、それを口に掻きこむ、呑みこむ、また掻きこむ、呑みこむ。その早さは本当に文字通りの瞬く間だ。僕は呆気にとられて見ていた。
「何千何百何十番!」
看守がまた大きな声で怒鳴った。僕はびっくりしてその方を向いた。
「何をぼんやりしているんだ。早く飯を食わんか。」
看守は僕に怒鳴っているんだ。僕は自分の襟をうつむいて見て、その何千何百何十番というのが自分のきょうからの名前だということに初めて気がついた。そして急いで茶碗をとりあげた。が、僕がその円錐形の塊の五分の一くらいをようやくもぐもぐと飲みこんだ頃には、もうみんなは最初のようにその膝に手を置いてかしこまっていた。
その後も始終見たことではあるが、囚人等の飯を食うのの早いのは実に驚くほどだ。まるで歯なぞというものは入用のないように、ただ掻きこんでは呑みこむ。
「どうも仕方がないんです。いくらからだに毒だからと言っても、どうしてもああなんです。しかしその言い分を聞くと、ずいぶん無茶なことではあるが、多少の同情はされるのです。よく噛んでいた日にゃ、すぐに消化れて腹が空って仕方がないと言うんですな。」
坊さんは坊さんらしく、ある時教誨師とその話をしたら、眉を顰めながらにこにこしていた。
僕はこの上もぐもぐやるのも、きちんと正座して待っているみんなに相済まず、自分でも少々きまりが悪いし、それにもみ沢山の南京米四分麦六分といういわゆる四分六飯に大ぶ閉口もしていたのだから、そのまま箸をおいた。
みんなはめいめい室に帰された。いい加減心細くなっていた僕は、この喫飯で、また例の好奇心満足主義に帰った。そして僕等の仲間達でその数年前に初めてここへはいった堺の話のように、はいってすぐ身体検査をされる時、裸体のまま四ん這いになって尻の穴をのぞかれたり、歩くのに両手を腰にしっかりとつけて決して振っちゃいけないというようなことが、今ではもう廃止されているのがかえって物足りなく思えた。
その翌朝、僕は先きに言った半病人や片輪者の連中の中へ移された。今までいたところは、新入や、翌日放免になるものや、または懲罰的に独房監禁されたものなどの一時的にいる、特別の建物であった。
石川三四郎と山口とはすでに、やはり新聞紙条令違犯で、その一室を占領していた。山口、石川、僕という順で、僕はその隣りの室へ入れられた。十畳か十二畳も敷けようと思われる広い室だ。前後が例の牢屋風の格子になっていて、後の格子には大きな障子がはまっていて、その障子を開けるとそとにはすぐそばに大きな桐の木が枝を広げていた。前の格子は、三尺ばかりの土間を隔てて、やはり障子と相対していた。この障子の向うにもやはり桐の木が見えた。室の左右は板戸を隔てて他と同じような室と続いていた。土間には看守がぶらぶらしている。
「はあ、この格子だな、例のは。」
と僕は、土間に近い一隅にうすべりを一枚敷いて、その格子の眼の前に坐った時、堺の話を思い出した。堺が前にはいった時にもやはりここに入れられたのだ。そして堺は教科書事件の先生や役人と一緒に同居した。小人で閑居していればそんな不善はしないのだろうが、大勢でいると飛んだ不善な考えを起すものと見える。みんなはこの格子を女郎屋の格子に見立て、また髯っ面の自分等を髯女郎の洒落でもあるまいが、とにかく女郎に見立て、そして怪しからんことには看守をひやかし客に見立てて「もしもし眼鏡の旦那、ちょいとお寄りなさいな」というような悪ふざけをして遊んだそうな。
僕もこの髯女郎になってからはすっかり気が軽くなった。室は明るい。そとはかなり自由に眺められる。障子は妙にアト・ホオムな感じを抱かせる。すぐ隣りには仲間がいる。看守も相手が片輪者や老人のことだから特に仏様を選んであるらしい。
旧友に会う
その室へ移されてから一時間ばかりしてからのことだ。ふと、僕の室の前に突っ立って、しきりと僕の顔を見つめている囚人がある。僕も見覚えのある顔だと思いながら、ちょっと思い出せずにその顔を見ていた。
「やあ!」
とようやく僕は思い出して声をかけた。
「うん、やっぱり君か。さっきから幾度も幾度も通るたんびに、どうも似た顔だと思って声をかけようと思ったんだが、一体どうしてこんなところへ来たんだ。」
その男は悲痛な顔をして不思議そうに尋ねた。しかし僕としては、僕自身がこんなところへ来るのは少しも不思議なことではなく、かえってこんなところでその男と会う方がよほど不思議であったのだ。
「僕のは新聞のことなんだが、君こそどうして来たんだ。」
「いや、実に面目次第もない。君はいよいよ本物になったのだろうけど。」
その男は自分の罪名を聞かれると、急に真赤になって、こう言いながら、
「失敬、また会おう。」
と逃げるようにして行ってしまった。
彼と僕とはかつて同じような理由で陸軍の幼年学校を退学させられた仲間だった。彼は仙台の幼年校、僕は名古屋の幼年校ではあったが、もう半年ばかりで卒業という時になって、ほとんど同時に退校を命ぜられた。そして二人ともすぐ東京に出て来て偶然出遇った。彼にはなお一緒に仙台を逐い出された二人の仲間があった。その一人は小学校以来の僕の幼な友達だった。かくして四人の幼年校落武者が落ち合った。そしてそこへまた大阪や東京の落武者が寄り集まって、八、九人の仲間ができた。みんなは退校処分という恥辱を雪ぐために、互いに助け合ってうんと勉強する誓いを立てた。みんなはすぐにあちこちの中学校の五年へはいった。が、彼ともう一人の仲間とが中途で誓いを破って遊びを始めた。みんなは憤慨して数回忠告した。そしてついに絶交を宣告した。翌年他の仲間のみんなはそれぞれ専門学校の入学試験に通過した。しかしその二人だけはどこでどうしているのか分らなかった。みんなは絶交を悔いていた。
ちょうどそれから四、五年目になるのだ。僕の入獄は彼から見れば「いよいよ本物になったのだ」ろうが、彼自身の入獄は当時の絶交と思い合して「実に面目次第も」なかったことに違いない。しかし僕としては、僕等が彼に申渡したその絶交が、今になってなおさらに悔いられるのであった。
彼は早稲田辺で、ある不良少年団の団長みたようなことをしていたのだそうだ。そしてその団員の強盗というほどでもないほんの悪戯から、彼は強盗教唆という恐ろしい罪名が負わせられたのだそうだ。そしてかつて仙台陸軍地方幼年学校の一秀才であった彼は、今は巣鴨監獄で、他の囚人に食事を運んだり仕事の材料を運んだりする雑役を勤めているのであった。
彼は僕が二度目に来て満期近くなるまで、この建物の中に雑役をしていた。どこでどうして手に入れて来るのか知らないが、ある時なぞは、ほとんど毎日のように氷砂糖の塊を持って来てくれた。そして毎月一度面会に来る女房をどこでどうして知っているのか、「君、奥さんが来てるよ、もうすぐ看守が呼びに来るだろうから用意して待っていたまえ」なぞと知らしてくれたりした。
ある日急に彼の姿が見えなくなった、その日の夜ある看守の手を経て、「あす仮出獄で出る、君が出ればすぐ会いに行く」と言った紙きれを受取ったが、それっきり彼とはまだ一度も会わない。
二十五年目の出獄
この男と一緒にやはり雑役をしていた、もう六十を越した一老人があった。やはり僕が二度目の満期になる少し前に放免になったのだが、何でも二十五年目とか六年目とかで日の目を見るのだと言っていた。
「電車なんてものはどんなものだか、いくら話に聞いても考えても分りませんや。何しろ電燈だって初めてここで知ったんですからな。」
ある時彼は夢見るような目つきで電燈を見あげながら言った。
看守がそばにいて、一緒になって話をする時には、彼はよくいろんなことを話した。しかしそうでない時には、雑役としての用以外には、ほとんど一言もきかない。自分の監房にいる時でもやはりそうだ。看守のすきを窺ってはいろんな悪戯やお饒舌をする時にも、彼だけは一人黙ってふり仮名つきの何かの本を読んでいた。話しかけられても返事をしない。雑役としての用をする時にも、よほど意地の悪い看守よりも、もっと一刻者だった。
「おい君、こんなきたない着物じゃしょうがないじゃないか。もっと新しいのを持って来てくれたまえ。」
僕は一度この老人にその持って来た着物の不足を言った。
「贅沢言うな。」
老人はこう言い棄てて隣りの室の方へ行った。
「おい、君、君!」
と僕は少し大きな声で呼び帰そうとした。看守はそれを聞きつけてやって来た。そして一応僕の苦情を聞いて、
「新しいのを一枚持って来てやれ。」
と老人に言いつけた。老人はぶつくさ言いながらまた取りに行った。
これはこの老人の一刻者らしいいい例ではないが、とにかくすべてがこの調子だった。他の囚人の苦情なぞはいっさい取りいれない。毎日半枚ずつ配ってくれる落し紙ですら、腹工合が悪いからもう一枚くれと言っても、決して余計にくれたことはない。時には、いいから何とかしてやれなどという看守に、獄則を楯にして食ってかかることすらあったが、この獄則を守る点では、先きにも言ったようにまるで裏表のない、獄則そのものの権化と言ってもいいくらいだった。数年前の規則そのままに、歩く時には手を少しも振らないように、五本の指をぴんとのばして腰にしっかりと押しつけていた。賞標の白い四角な布も三つほど腕につけていた。
最初殺人で死刑の宣告を受けたのを、終身に減刑され、その後また何かの機会に減刑また減刑されて、ついに放免になったのだそうだ。一刻者は最初からの、しかも正直者というほどの意味であったらしいが、入獄以来その一刻から出た犯罪を後悔するとともに、その一刻をただ獄則厳守のことにのみ集中させて、ますます妙な一刻者になったのらしい。
びっこの少年
隣りの室には十人ばかり片輪者が同居していた。その中に、七十幾つかの老人と、森の中にでもいればどうしてもチンパンジイとしか思えないような顔つきの若い大男と、尻が妙に出っぱってびっこをひいて歩く少年とがいた。チンパンジイは盲というほどでもないが両眼ともよく見えなかったらしい。高い眉の下にひどく窪んだ細い眼をいつもしょぼしょぼさせていた。この男は僕がいる間に一度ちょっと出てまたすぐはいって来た。みんなほんのこそこそ盗棒らしかった。
この少年はひょうきん者で、一日みんなを笑わせては騒いでいた。誰かがブッと屁を放る。するとこの少年は、「うん、うん、よしよし」なぞと、赤ん坊でもなだめすかすようなことを言う。一日に幾度とちょっとは数え切れないほどみんなはよく屁をひった。そしてそのたんびにこの少年はこんなことを言ってはみんなを笑わしていた。隣りで聞いている僕も時々吹き出した。
仕事がいやになるとみんなはよく便所へはいって一と休みした。
「いつまで便所にはいってるんだ。」
時々は看守も二、三度廻って来てまだ同じ人間が便所にしゃがんでいるので小言を言う。すると少年は「どうも難産で」と言いながら「うん、うん」と唸って見せる。みんなはどっと笑う。看守も仕方なしに「いい加減にして出ろ」と言い棄てて行ってしまう。
この隣りの笑い声で、どれほど僕は、長い日の無聊を慰められたか知れない。
獄中からの手紙
僕の生活は、毎朝起きるとまずこの広い室のふき掃除をして、あとは一日机に向って読み書き考えてさえいればいいのだった。
本は辞書の外五、六冊ずつ手許に置くことができた。そしてそれを毎週一回新しいのと代えて貰うことができた。ペンとインクとノートとは特別に差入れを許された。
その頃の生活を当時の気持そのままに見るために、獄中から出した手紙の二、三を次に採録して見る。いずれも最初の時のものだ。
「暑くなったね。それでも僕等のいる十一監というところは獄中で一番涼しいところなのだそうだ。煉瓦の壁、鉄板の扉、三尺の窓の他の監房とは違って、ちょうど室の東西がすべて三寸角の柱の格子になっていて、その上両面とも直接に外界に接しているのだから、風さえあればともかくも涼しいわけだ。それに十二畳ばかりの広い室を独占して、八畳づりの蚊帳の中に起きて見つ寝て見つなどと古く洒落れているのだもの。平民の子としてはむしろ贅沢な住居だ。着物もことに新しいのを二枚もらって、その一枚を寝巻にしている。時に洗濯もしてもらう。
「老子の最後から二章目の章の終りに、甘其食、美其衣、安其所、楽其俗、隣国相望、鶏犬声相聞、民至老死不相往来という、その消極的無政府の社会が描かれてある。最初の一字の甘しとしただけがいささか覚束ないように思うけれど、まず僕等の今の生活と言えば、まさにこんなものだろうか。妙なもので、この頃は監獄にいるのだという意識が、ある特別の場合の外はほとんど無くなったように思う。」(堺宛)
この蚊帳で思い出すが、ある夜、暑苦しくて眠れないので、土間をぶらぶらしている看守に話しかけた。
「少しくらい暑くたって君等はいいよ。僕はさっきから蚊帳の中に寝ている君等を見ながらつくづく思ったんだ。こうして格子を間にして君等の方を見ていると、実際どっちが本当の囚人だか分らなくなって来るよ。」
看守は笑いながらではあるが、しみじみとこぼして言った。
それからしばらくして幸徳に宛てた手紙を出した。
「暑かった夏も過ぎた。朝夕は涼しすぎるほどになった。そして僕は『少し肥えたようだね』などと看守君にからかわれている。
「この頃読書をするのにはなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べてある。次に動植物を説いてある。そして最後に人生社会を論じている。やがて読書にあきる。顔をあげてそとを眺める。まず目にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下っては向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのことをそのまま実地に復習するようなものだ。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ浅いのに、いつもいつも恥じ入る。これからは大いにこの自然を研究して見ようと思う。
「読めば読むほど、考えれば考えるほどどうしてもこの自然は論理だ。論理は自然の中に完全に実現されている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ。
「僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学や人間史に強く僕の心を引かれて来た。こんな風に、一方にはそれからそれへと泉のように学究心が湧いて来ると同時に、(中略)
「兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐ多年宿望のクロの自伝をやりたいと思っている。今その熟読中だ。」
それからもう出獄近くなって山川に宛てた手紙を出した。その中に法廷に出る云々というのは、あとの新聞紙条令違犯の公判の時のことだ。
「きのう東京監獄から帰って来た。まず監房にはいって机の前に坐る。本当にうちへ帰ったような気がする。
「僕は法廷に出るのが大嫌いだ。ことに裁判官と問答するのはいやでいやで堪らぬ。いっそのこと、ロシアのように裁判しないですぐシベリアへ逐いやるというようなのが、かえって赤裸々で面白いようにも思う。貴婦人よりは淫売婦の方がいい。
「裁判が済めばまず東京監獄へ送られる。門をはいるや否や、いつも僕は南京虫のことを思って戦慄する。一夜のうちに少なくとも二、三十カ所は噛まれるのだもの、痛くてかゆくて、寸時も眠れるものじゃない。僕が二、三日して巣鴨に帰ると、獄友諸君からしきりに痩せた痩せたというお見舞いを受ける。
「ただ東京監獄で面白かったのは鳩だ。ちょうど飯頃になると、窓のそとでばたばた羽ばたきをさせながら、妙な声をして呼び立てる。試みに飯を一かたまり投ってやる。十数羽の鳩があわただしく下りて来て、瞬く間に平らげてしまう。また投ってやる。面白いもんだから幾度も幾度も続けざまに投ってやる。飯をみな投ってしまって汁ばかりで朝飯を済ましたこともある、あとで腹がへって困ったが、あんな面白いことはなかった。
「巣鴨に帰る。大変早かったね、裁判はどうだった。などと看守君はいろいろ心配して尋ねてくれる。何だか気も落ちつく。本当にうちへ帰ったような気がする。
「しかしこのうちにいるのも、もうわずかの間となった。久しいイナクティブな生活にもあきた。早く出たい。そして大いに活動したい、この活動については大ぶ考えたこともある。決心したこともある。出たらゆっくり諸君と語ろう。同志諸君によろしく。」
鬼界ヶ島の俊寛
出て一カ月半ばかりして、こんどは堺や山川やその他三人の仲間と一緒に、例の屋上演説事件でまた入れられた。既決になると、その他三人というのが東京監獄に残されて、堺と山川と僕とが巣鴨へ送られた。
「やあ、また来たな。」
と看守や獄友諸君は歓迎してくれる。
「またやられたよ。しかしこんどは、まだ碌に監獄の気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて好都合だ。」
僕は当時われわれの機関であった『日本平民新聞』の編集者で、その後幸徳と一緒に死刑となった森近運平に宛てて、こんな冒頭の手紙を書いて送った。
山口は何かの病気で病監にはいっていた。山川はたしかほかの建物へやられたように思う。石川、僕、堺という順で、相ならんでいた。
堺はもう格子につかまって「ちょいとお髯の旦那」をやる当年の勇気も無くなっていたが、石川と僕とは盛んに隣り合っていたずらをした。運動の時にそとで釘を拾って来て、二人の室の間の壁に穴をあけた。本やノートに飽きるとその穴から呼び出しをかける。石川が話している間は僕は耳をあてている。僕が話をする間は石川が耳をあてる。ところがこれがなかなかうまく行かない。時々口をあて合ったり耳をあて合ったりすることがある。どうしたのかと思って、耳をはずしてのぞいて見ると、向うでも耳をあてて待っている。ちょっと議論めいたことになると、お互いに「こんどは俺がしゃべるんだからお前は聞け」と言い合って、小さな穴を通して唾を飛ばし合う。時とすると「しばらくそこで見ておれ」と言って、室の真ん中へ行って踊って見せたりする。
こんなことをしてふざけながらも、石川は二千枚近い『西洋社会運動史』を書いていた。これは後に出版されて発売禁止になった。堺と僕とは当時堺の編集で『平民科学』という題で出していた叢書を翻訳していた。山川もやはりそれをやっていた。
そしてちょうどこの翻訳が一冊ずつできあがった頃に堺と山川と僕とは満期になった。
「可哀想だがちょうど鬼界ヶ島の俊寛という格好だな。しかしもう少しだ。辛抱しろ。」
堺と僕とは石川にこう言いながら、
「おい、俊寛、左様なら。」
とからかってその建物を出た。
千葉の巻