4話 獄中記(4)
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うんと鰯が食えるぜ
が、また半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏抗拒治安警察法違犯という念入りの罪名で、その事件の現場から東京監獄へ送られた。同勢十二名、内女四名、堺、山川、荒畑なぞもこの中にいた。女では、巡査の証言のまずかったためにうまく無罪にはなったが、後幸徳と一緒に雑誌を創めて新聞紙法違犯に問われ、さらにまた幸徳等と一緒に死刑になった、かの菅野須賀子もいた。
と同時に、二年前に保釈出獄した電車事件の連中も、一審で無罪になったのを検事控訴の二審でまた無罪になり、さらに検事の上告で大審院から仙台控訴院に再審を命ぜられ、そこで初めて有罪になったのをこんどはこちらから上告して大審院で審議中であったのだが、急に保釈を取消されてやはり東京監獄に入監された。この連中が西川、山口などの七、八名。僕はこの両方の事件に跨がっていた。
東京監獄は仲間で大にぎやかになった。しかし、やがて女を除くみんなが有罪にきまった時、東京監獄ではこれだけの人数を一人一人独房に置くだけの余裕も設備もなかった。僕等は一種の悪性伝染病患者のようなもので、他の囚人と一緒に同居させることもできず、また仲間同士を一緒に置くことはさらにその病毒を猛烈にする恐れがある。そこでみんなは、最新式の建築と設備とをもって模範監獄の称のある、日本では唯一の独房制度の千葉監獄に移されることになった。
千葉は東京に較べて冬は温度が五度高いというのに、監獄はその千葉の町よりももう五度高いというほどの、そして夏もそれに相応して冷しい、千葉北方郊外の高燥な好位置に建てられていた。
「あれがみんなの行くところなんだ。」
汽車が千葉近くなった時、輸送指揮官の看守長が、ちょうど甥どもを初めて自分のうちへ連れて行く伯父さんのような調子で、(実際この看守長は最後まで僕等にはいい伯父さんだった)いろいろその自分のうちの自慢をしながら、左側の窓からそとを指さして言った。みんなは頸をのばして見た。遙か向うに、小春日和の秋の陽を受けて赤煉瓦の高い塀をまわりに燦然として輝く輪喚の美が見えた。何もかもあの着物と同じ柿色に塗りたてた建物の色彩は、雨の日や曇った日には妙に陰欝な感じを起させるが、陽を受けると鮮やかな軽快な心持を抱かせる。
「鰯がうんと食えるそうだぜ。」
僕はすぐそばにいた荒畑に、きのう雑役の囚人から聞いたそのままを受け売りした。幾回かの入獄に、僕等はまだ、塩鱈と塩鮭との外の何等の魚類をも口にしたことがなかったのだ。で、この話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。
「それやいいな。早く行って食いたいな。」
荒畑も、そばにいた二、三人も、嬉しそうに微笑んだ。
下駄の緒の心造り
着いて見ると、なるほど建物は新築したばかりでてかてか光っている。室は四畳半敷くらいの、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何よりもまず窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりもよほど気持がいい。
が、第一にまず役人の利口でないのに驚かされた。着くとすぐ、みんな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。
「こんどはみんな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」
というような意味のことを繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだましが僕等にきくと思っているんだ。また、よし本当に好意でそう言ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞといういわゆる恩典があるものと思うのもあまりに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。この訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、
「つまらんことで大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えるという話だが、こんどはみんな幾らずつ貰ったんだ。」
という情けないお言葉だ。政党か何かの壮士扱いだ。さすがの堺を始めみんなは顔見合せて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来その快活な半面をしきりに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。
上典獄を始め下看守に至るまでが、ほとんどすべてこの調子なのだからやり切れない。
それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだからますます堪らない。
加うるにこんどは今までの禁錮と違って、懲役と言うのだから、一定の仕事を課せられる。しかもその仕事が、東京監獄ではごく楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれるだけならまだしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。かなり骨が折れる。それを昼の間十時間くらいやって、その上にまた夜業を二、三時間やらされる。初めの一日でうんざりしてしまった。
三度減食を食う
三日目か四日目のことだ。毎日のこの仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠ってしまう。坐りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れてしまった。
「こら、起きろ!」
という声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。
「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって、貴様は監獄の規則なんぞ何とも思ってないんだな。」
看守は、貴様のような壮士が何だという腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。
しばらくして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、はなはだ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、とありのままの弁解をするつもりで行った。ところが、典獄室にはいって一礼するかしないうちに、
「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと言うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ、減食ぐらいじゃないぞ。」
と恐ろしい勢いで怒鳴りつけられた。
「ええ、何でもどうぞ。」
と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとかいう親爺の、有名な気短か屋で怒鳴り屋だというのを思出しながら、(典獄はこの学友の親爺と言ってもいいくらいによく似ていた)そのせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。
「何に!」
と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、
「もういいから連れて帰れ。」
と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、この時は皮肉でも何でもなく、思わずこの古い癖が出たのだった。
幼年学校時代の癖と言えば、もう一つ、妙な癖をやはりこの監獄で発見した。
これはその後よほど経ってからのことだが、やはり何か叱られて、看守長室へ呼ばれたことがあった。その看守長はせいの低い小太りで猫背の、濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにしてその中から意地の悪そうな細い眼を光らしている男だった。僕等はこの男を「熊」と呼んでいた。
はいると、いきなり、
「そこへ坐れ。」
と顎で指さした。見ると、足元にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で、椅子テーブルを置いて、しかも向うは靴をはいてその椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと言うのだ。僕はほとんどあきれ返った。
「なぜ坐らんか。」
「いやだから坐らない。」
「何がいやだ。」
「立っていたって話ができるじゃないか。」
「理窟は言わんでもいいから坐れ。」
「君も坐るんなら僕も坐ろう。」
というような押問答の末に、さっきからその濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。
「命令だ! 坐れ!」
僕はこの命令という声が僕の耳をつんざいた時に、その瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐入る何ものかに打たれたことを感じた。そしてそれを感じると同時に、その瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。
「命令が何だ。坐らせるなら坐らせて見ろ。」
さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そしてこの時もやはり、前の典獄室におけると同じように、そのまま自分の室へ帰された。叱られる筈のことには一言も及ばないうちに。
この命令だという一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕にはやはり大部分は幼年校時代の精神的遺物であろうと思われる。
僕は元来ごく弱い人間だ。もし強そうに見えることがあれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられるほど自分の見え坊を傷つけられることはない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とするとこの見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。
こんど犯則があれば減食ぐらいでは済まんぞという筈のが、その後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話したのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何をしたのだったか今ちょっと思い出せない。
荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、ある晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、
「そんなところで何をぼんやりしている。……何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何になる? 馬鹿!」
とやられたと言って、あとでその話をして大笑いをしたことがあった。
もう半年はいっていたい
要するに僕等は監獄にはいってこれほどの扱いを受けるのは初めてだった。しかし僕等は、先方の扱い如何にかかわらず、一年なり二年なりの長い刑期を何とかして僕等自身にもっとも有益に送らなければならない。
僕はその方法について二週間ばかり頭を悩ました。方法と言っても読書と思索の外にはない。要はただその読書と思索の方向をきめることだ。
元来僕は一犯一語という原則を立てていた。それは一犯ごとに一外国語をやるという意味だ。最初の未決監の時にはエスペラントをやった。次の巣鴨ではイタリア語をやった。二度目の巣鴨ではドイツ語をちっと噛った。こんども未決の時からドイツ語の続きをやっている。で、刑期も長いことだから、これがいい加減ものになったら、次にはロシア語をやって見よう。そして出るまでにはスペイン語もちっと噛って見たい。とまずきめた。今までの経験によると、ほぼ三カ月目に初歩を終えて、六カ月目には字引なしでいい加減本が読める。一語一年ずつとしてもこれだけはやられよう。午前中は語学の時間ときめる。
こう言うと、僕は大ぶえらい博言学者のように聞えるが、実際またこの予定通りにやり果して大威張りで出て来たのだが、その後すっかり怠けかつこの監獄学校へも行かなくなったので、今ではまるで何もかも片なしになってしまった。
それから、以前から社会学を自分の専門にしたい希望があったので、それをこの二カ年半にやや本物にしたいときめた。が、それも今までの社会学のではつまらない。自分で一個の社会学のあとを追って行く意気込みでやりたい。それには、まず社会を組織する人間の根本的性質を知るために、生物学の大体に通じたい。次に、人間が人間としての社会生活を営んで来た径路を知るために、人類学ことに比較人類学に進みたい。そして後に、この二つの科学の上に築かれた社会学に到達して見たい。と今考えるとまことにお恥かしい次第だが、ほんの素人考えに考えた。それには、あの本を読みたい、この本を読みたい、と数え立ててそれを読みあげる日数を算えて見ると、どうしても二カ年半では足りない。少なくとももう半年は欲しい。
こうなると、今までずいぶん長いと思っていた二カ年半が急に物足りなくなって、どうかしてもう半年増やして貰えないものかなあ、などと本気で考えるようになる。
仕事はある。しかしそれは馴れさえすれば何とでもなる。一日幾百足という規定ではあるが、その半分か、四分の一か、あるいはもっと少なくなってもいい。何と言われてもこれ以上はできませんと頑張ればいい。みんなで相談してひそかにある程度にきめればさらに妙だ。現にこの相談はほとんど最初から、自然にできあがっている。とにかく、できるだけ仕事の時間を盗んで、勉強することだ。
こうきめて以来は滅茶苦茶に本を読んだ。仕事の方は馴れるに従ってますます早くやれるようになる。それに、下等の南京麻ではない上等の日本麻をやらしてくれる。いよいよますます仕事はしやすい。しかし仕事の分量は最初から少しも増やさない。ただもう看守のすきを窺っては本を読む。
かくして僕は、かつて貪るようにして掻き集めた主義の知識をほとんどまったく投げ棄てて、自分の頭の最初からの改造を企てた。
鱈腹食う夢を見て下痢をする
一方に学究心が盛んになるとともに、僕は僕の食欲の昂進、というよりもむしろ食いっ気のあまりにさもしい意地きたなさに驚かされた。
最初の東京監獄の時は弁当の差入れがあるのだから別としても、その次の巣鴨の時にも、二度目の巣鴨の時にも、刑期の短かかったせいかそれほどでもなかったが、こんどは自分ながら呆れるほどにそれがひどくなった。好き嫌いのずいぶんはげしかったのが、何でも口に入れるようになったのは結構だとしても、以前には必ず半分か三分の一か残ったあのまずかった四分六の飯を本当に文字通り一粒も残さずに平らげてしまう。おはちの隅にくっついているのも、おしゃもにくっついているのも、落ちこぼれたのさえも、一々丁寧にほじくり取り、撫で取り、拾い取る。ちゃんと型に入れて、一食何合何勺ときまっている飯の塊を、きょうのは大きいとか小さいとか言ってひそかに喜びまたは呟く。看守が汁をよそってくれるのに、ひしゃくを桶の底にガタガタあてるかどうかを、耳をそばだて眼を円くして注意する。底にあてれば、はいる実が多いのだ。それも茶碗を食器箱の蓋に乗せてよそって貰うのだが、その蓋の中にこぼれた汁も、蓋を傾けてすすってしまう。特に残汁と言って、一と廻り廻った残りをまた順番によそって歩くことがある。その番の来るのがどれほど待ち遠しいか知れない。
小説なぞを読んでいて、何か御馳走の話が出かかって来れば、急いでページをはぐって、その話を飛ばしてしまう。とても読むには堪えないのだ。そうかと思うと、本を読んでいる時でも、何か考えている時にでも、またはぼんやりしている時でも、何でもないことがふと食物と連想される。
折々何か食う夢を見る。堺もよくその夢を見たそうだが、堺のはいつも山海の珍味といったような御馳走が現れて、いざ箸をとろうとすると何かの故障で食えなくなるのだそうだ。堺はひどくそれを残念がっていた。しかるに僕のは、しるこ屋の前を通る、いろんな色の餅菓子やあんころ餅などが店にならべてある、堪らなくなって飛びこむ、片っ端から平らげて行く、満腹どころかのどにまでもつめこんでうんうん苦しがる、というようなすこぶる下等な夢だ。そして妙なことには、苦しがって散々もがいたあげく、ふと眼をさますと腹工合が変だ。急いで便所へ行くと一瀉千里の勢いで跳ね飛ばす。そうでなくても翌朝起きてからきっと下痢をする。まるで嘘のような話だ。
しからば色欲の方はどうかと言うに、これまたすこぶる妙だ。先きの東京監獄や巣鴨監獄では時々妙な気も起きたが、ここへ来てからまるでそんなことがない。
僕は子供の時には、性欲を絶った仙人とか高僧とかいうものは非常に偉いものと思っていたが、やや長じてからは、そんな人間があるとすれば老耄の廃人くらいに考えていた。しかしそれはどちらも誤っていた。僕のような夢にまで鱈腹食って覚めてから下痢するというほどの浅ましい凡夫でも、時と場合とによれば、境遇次第で、何の苦心も修養も煩悶もなく、ただちに聖人君子となれるのだ。
ある夜などは、自分が不能者になったのかと思って少々心配し出して、わざといろんな場面を回想もしくは想像して見た。が、ついにその回想や想像が一つとして生きて来ない。僕はほとんど絶望した。
危く大逆事件に引込まれようとする
一カ年の刑期のものはとうに出た。一カ年半のものも出た。二カ年の堺と山川ももう残り少なくなった。そこへ突然検事が来て、今お前等の仲間の間にある大事件が起っているが知っているかというお尋ねだ。何か途方もない大きな事件が起きて、幸徳を始め大勢拘引されたということは薄々聞いていた。その知っただけのことを、またどうしてそれを知ったのか、監獄の取締上一応聞いて置きたいと言うのだ。うろん臭いのでいい加減に答えて置いた。
すると数日経って、不意に、恐ろしく厳重な警戒の下に東京監獄へ送られた。そして検事局へ呼び出されて、こんどは本式に、いわゆる大逆事件との関係を取調べられた。
「この事件は四、五年前からの計画のものだ。お前等が知らんという筈はない。現にお前等もその計画に加わっていたということは、他の被告等の自白によっても明らかだ。」とくどくどと嚇かされたりすかされたりするのだが、何分何にも知らないことはやはり知らないと答えるより外はない。
監獄では典獄を始めどの看守でも、しきりに、気の毒そうに同情してくれる。
「こんな事件にひっかかったんでは、とても助かりっこはない。本当に気の毒だな。」
と明らさまに慰めてくれる看守すらある。みんなで僕等を大逆事件の共犯者扱いするのだ。
最初はそれを少々可笑しく思っていたが、この同情が重なるに従ってだんだん不安になり出して来た。監獄の役人がこれほどまで思っているのだから、あるいは実際検事局で僕等をその共犯者にしてしまってあるのじゃあるまいか、と疑われ出して来た。まさかと打消しては見るが、どうしても打ち消し得ないあるものが看守等の顔色に見える。そうなったところで仕方がない、とあきらめても見るが、そうなったのかならぬのか明らかにならぬうちは、やはり不安になる。
やがて堺は無事に満期出獄した。それでこの不安は大部分おさまった。しかしまだ役人等の僕に対する態度には少しも変りがない。僕自身ももう満期が近づいたのだから、出獄の準備をしなければならぬと思って、二カ月に一回ずつしか許されない手紙や面会の臨時を願い出ても、典獄や看守長はそんなことをしても無駄だと言わんばかりのことを言って、一向とり合ってくれない。ただ気の毒そうな顔色ばかり見せている。どうかすると僕一人があの中に入れられるのかな、と疑えば疑えないこともない。が、その後少しも検事の調べがないのだから、とまたそれを打消しても見る。
その間に僕は大逆事件の被告等のほとんどみんなを見た。ちょうど僕の室は湯へ行く入口のすぐそばで、その入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前へ控えていた。で、すきさえあれば窓からその廊下を注意していた。みんな深いあみ笠をかぶっているのだが、知っているものは風恰好でも知れるし、知らないものでもその警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。
ある日幸徳の通るのを見た。
「おい秋水! 秋水!」
と二、三度声をかけて見たが、そう大きな声を出す訳にも行かず(何という馬鹿な遠慮をしたものだろうと今では後悔している)、それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行ってしまった。
とうとう満期の日が来た。意外なのを喜ぶ看守等に送られて、東京監獄の門を出た。そとでは六、七人の仲間が待っていた。みんな手を握り合った。
出獄して唖になる
僕は出た日一日は盛んに獄中のことなどのお饒舌をしたが、翌日からまるで唖のようになってほとんど口がきけない。二年余りの間ほとんど無言の行をしたせいか、出獄して不意に生活の変った刺激のせいか、とにかくもとからの吃りが急にひどくなって、吃りとも言えないほどひどい吃りになった。
で、その後まる一カ月くらいはほとんど筆談で通した。うちにいるんでも、そとへ出掛けるんでも、ノートと鉛筆を離したことがない。
「耳は聞えるんですか。」
とよく聞かれたが、勿論耳には何の障りもない。それでも知らない人は、僕がノートに何か書いて突き出すので、向うでも同じようにそのノートに返事を書いて寄越したりした。
これは僕ばかりではない。その後不敬事件で一年ばかりはいった仲間の一人も、やはり吃りであったが、出た翌日からほとんど唖になってしまった。そしてやはり僕と同じように、一カ月ばかりの間筆談で暮していた。
牢ばいりは止められない
また少々さもしい話になるが、出る少し前には、出たら何を食おう、かにを食おうの計画で夢中になる。しかし出て見ると、ほとんど何を食っても極まりなくうまい。
まずあの白い飯だ。茶碗を取り上げると、その白い色が後光のように眼をさす。口に入れる。歯が、ちょうど羽布団の上へでも横になった時のように、気持よく柔らかいものの中にうまると同時に、強烈な甘い汁が舌のさきへほとばしるように注ぐ。この白い飯だけでたくさんだ、ほかにはもう何にも要らない。
「あれを思い出しちゃ、とても牢ばいりはやめられないな。」
前科者同士がよく出獄当時の思い出話をしながら、こう言っては笑う。実際日本飯の本当の味なぞは、前科者ででもなければとうてい味わえない。