ひかりの素足

1話 ひかりの素足(1)

8,191字 約16分 2000年2月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

      一、山小屋

 鳥の声があんまりやかましいので一郎は眼をさましました。

 もうすっかり夜があけてゐたのです。

 小屋の隅から三本の青い日光の棒が斜めにまっすぐに兄弟の頭の上を越して向ふの萱(かや)の壁の山刀やはむばきを照らしてゐました。

 土間のまん中では榾(ほだ)が赤く燃えてゐました。日光の棒もそのけむりのために青く見え、またそのけむりはいろいろなかたちになってついついとその光の棒の中を通って行くのでした。

「ほう、すっかり夜ぁ明げだ。」一郎はひとりごとを云(い)ひながら弟の楢夫(ならを)の方に向き直りました。楢夫の顔はりんごのやうに赤く口をすこしあいてまだすやすや睡(ねむ)って居ました。白い歯が少しばかり見えてゐましたので一郎はいきなり指でカチンとその歯をはじきました。

 楢夫は目をつぶったまゝ一寸(ちょっと)顔をしかめましたがまたすうすう息をしてねむりました。

「起ぎろ、楢夫、夜ぁ明げだ、起ぎろ。」一郎は云ひながら楢夫の頭をぐらぐらゆすぶりました。

 楢夫はいやさうに顔をしかめて何かぶつぶつ云ってゐましたがたうとううすく眼を開きました。そしていかにもびっくりしたらしく

「ほ、山さ来てらたもな。」とつぶやきました。

「昨夜(ゆべな)、今朝方(けさかだ)だがな、火ぁ消(け)でらたな、覚(おべ)だが。」

 一郎が云ひました。

「知らなぃ。」

「寒くてさ。お父さん起ぎて又燃やしたやうだっけぁ。」

 楢夫は返事しないで何かぼんやりほかのことを考えてゐるやうでした。

「お父さん外(そど)で稼(かせ)ぃでら。さ、起ぎべ。」

「うん。」

 そこで二人は一所(いっしょ)にくるまって寝た小さな一枚の布団から起き出しました。そして火のそばに行きました。楢夫はけむさうにめをこすり一郎はじっと火を見てゐたのです。

 外では谷川がごうごうと流れ鳥がツンツン鳴きました。

 その時にはかにまぶしい黄金(きん)の日光が一郎の足もとに流れて来ました。

 顔をあげて見ますと入口がパッとあいて向ふの山の雪がつんつんと白くかゞやきお父さんがまっ黒に見えながら入って来たのでした。

「起ぎだのが。昨夜(ゆべな)寒ぐなぃがったが。」

「いゝえ。」

「火ぁ消(け)でらたもな。おれぁ二度起ぎで燃やした。さあ、口漱(すす)げ、飯(まま)でげでら、楢夫。」

「うん。」

「家ど山どどっちぁ好(い)い。」

「山の方ぁい、いとも学校さ行がれなぃもな。」

 するとお父さんが鍋(なべ)を少しあげながら笑ひました。一郎は立ちあがって外に出ました。楢夫もつづいて出ました。

 何といふきれいでせう。空がまるで青びかりでツルツルしてその光はツンツンと二人の眼にしみ込みまた太陽を見ますとそれは大きな空の宝石のやうに橙(だいだい)や緑やかゞやきの粉をちらしまぶしさに眼をつむりますと今度はその蒼黒(あをぐろ)いくらやみの中に青あをと光って見えるのです、あたらしく眼をひらいては前の青ぞらに桔梗(ききゃう)いろや黄金(きん)やたくさんの太陽のかげぼふしがくらくらとゆれてかゝってゐます。

 一郎はかけひの水を手にうけました。かけひからはつららが太い柱になって下までとゞき、水はすきとほって日にかゞやきまたゆげをたてていかにも暖かさうに見えるのでしたがまことはつめたく寒いのでした。一郎はすばやく口をそゝぎそれから顔もあらひました。

 それからあんまり手がつめたいのでお日さまの方へ延ばしました。それでも暖まりませんでしたからのどにあてました。

 その時楢夫(ならを)も一郎のとほりまねをしてやってゐましたが、たうとうつめたくてやめてしまひました。まったく楢夫の手は霜やけで赤くふくれてゐました。一郎はいきなり走って行って

「冷(つめ)だぁが。」と云ひながらそのぬれた小さな赤い手を両手で包んで暖めてやりました。

 さうして二人は又小屋の中にはひりました。

 お父さんは火を見ながらじっと何か考へ、鍋はことこと鳴ってゐました。

 二人も座りました。

 日はもうよほど高く三本の青い日光の棒もだいぶ急になりました。

 向ふの山の雪は青ぞらにくっきりと浮きあがり見てゐますと何だかこゝろが遠くの方へ行くやうでした。

 にはかにそのいたゞきにパッとけむりか霧のやうな白いぼんやりしたものがあらはれました。

 それからしばらくたってフィーとするどい笛のやうな声が聞えて来ました。

 すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしてゐましたがたうとうどうしたわけかしくしく泣きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。

 お父さんがそこで

「何した、家さ行ぐだぐなったのが、何した。」とたづねましたが楢夫は両手を顔にあてて返事もしないで却(かへ)ってひどく泣くばかりでした。

「何した、楢夫、腹痛ぃが。」一郎もたづねましたがやっぱり泣くばかりでした。

 お父さんは立って楢夫の額に手をあてて見てそれからしっかり頭を押へました。

 するとだんだん泣きやんでつひにはたゞしくしく泣きじゃくるだけになりました。

「何(な)して泣ぃだ。家さ行ぐだぃぐなったべぁな。」お父さんが云ひました。

「うんにゃ。」楢夫は泣きじゃくりながら頭をふりました。

「どごが痛くてが。」

「うんにゃ。」

「そだらなして泣ぃだりゃ、男などぁ泣がなぃだな。」

「怖(お)っかなぃ。」まだ泣きながらやっと答へるのでした。

「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄(あい)なも居るし昼まで明りくて何(な)っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」

「うんう、怖っかなぃ。」

「何ぁ怖っかなぃ。」

「風の又三郎ぁ云ったか。」

「何て云った。風の又三郎など、怖っかなぐなぃ。何て云った。」

「お父さんおりゃさ新らしきもの着せるって云ったか。」楢夫はまた泣きました。一郎もなぜかぞっとしました。けれどもお父さんは笑ひました。

「ああははは、風の又三郎ぁ、いゝ事(ごと)云ったな。四月になったら新らし着物買ってけらな。一向泣ぐごとぁなぃぢゃぃ。泣ぐな泣ぐな。」

「泣ぐな。」一郎も横からのぞき込んでなぐさめました。

「もっと云ったか。」楢夫(ならを)はまるで眼をこすってまっかにして云ひました。

「何て云った。」

「それがらお母(っか)さん、おりゃのごと湯さ入れで洗ふて云ったか。」

「ああはは、そいづぁ嘘(うそ)ぞ。楢夫などぁいっつも一人して湯さ入るもな。風の又三郎などぁ偽(うそ)こぎさ。泣ぐな、泣ぐな。」

 お父さんは何だか顔色を青くしてそれに無理に笑ってゐるやうでした。一郎もなぜか胸がつまって笑へませんでした。楢夫はまだ泣きやみませんでした。

「さあお飯(まま)食べし泣ぐな。」

 楢夫は眼をこすりながら変に赤く小さくなった眼で一郎を見ながら又言ひました。

「それがらみんなしておりゃのごと送って行ぐて云ったか。」

「みんなして汝(うな)のごと送てぐど。そいづぁなぁ、うな立派になってどごさが行ぐ時ぁみんなして送ってぐづごとさ。みんないゝごとばがりだ。泣ぐな。な、泣ぐな。春になったら盛岡祭見さ連(つれ)でぐはんて泣ぐな。な。」

 一郎はまっ青になってだまって日光に照らされたたき火を見てゐましたが、この時やっと云ひました。

「なあに風の又三郎など、怖(お)っかなぐなぃ。いっつも何だりかだりって人だますぢゃぃ。」

 楢夫もやうやく泣きじゃくるだけになりました。けむりの中で泣いて眼をこすったもんですから眼のまはりが黒くなってちょっと小さな狸(たぬき)のやうに見えました。

 お父さんはなんだか少し泣くやうに笑って

「さあもう一(ひと)がへり面(つら)洗なぃやなぃ。」と云ひながら立ちあがりました。

      二、峠

 ひるすぎになって谷川の音もだいぶかはりました。何だかあたたかくそしてどこかおだやかに聞えるのでした。

 お父さんは小屋の入口で馬を引いて炭をおろしに来た人と話してゐました。ずゐぶん永いこと話してゐました。それからその人は炭俵を馬につけはじめました。二人は入口に出て見ました。

 馬はもりもりかひばをたべてそのたてがみは茶色でばさばさしその眼は大きくて眼の中にはさまざまのをかしな器械が見えて大へんに気の毒に思はれました。

 お父さんが二人に言ひました。

「そいでぁうなだ、この人さ随(つ)ぃで家さ戻れ。この人ぁ楢鼻(ならはな)まで行がはんて。今度の土曜日に天気ぁ好がったら又おれぁ迎ぃに行がはんてなぃ。」

 あしたは月曜日ですから二人とも学校へ出るために家へ帰らなければならないのでした。

「そだら行がんす。」一郎が云ひました。

「うん、それがら家さ戻ったらお母(っか)さんさ、ついでの人さたのんで大きな方の鋸(のこぎり)をよごして呉(け)ろって云へやぃな、いゝが。忘れなよ。家まで丁度一時半かゞらはてゆっくり行っても三時間半にあ戻れる。のどぁ乾ぃでも雪たべなやぃ。」

「うん。」楢夫(ならを)が答へました。楢夫はもうすっかり機嫌(きげん)を直してピョンピョン跳んだりしてゐました。

 馬をひいた人は炭俵をすっかり馬につけてつなを馬のせなかで結んでから

「さ、そいでぃ、行ぐまちゃ。わらし達ぁ先に立ったら好(い)がべがな。」と二人のお父さんにたづねました。

「なぁに随(つい)で行ぐごたんす。どうがお願ぁ申さんすぢゃ。」お父さんは笑っておじぎをしました。

「さ、そいでぁ、まんつ、」その人は牽(ひき)づなを持ってあるき出し鈴はツァリンツァリンと鳴り馬は首を垂れてゆっくりあるきました。

 一郎は楢夫をさきに立ててそのあとに跡(つ)いて行きました。みちがよくかたまってじっさい気持ちがよく、空はまっ青にはれて、却(かへ)って少しこはいくらゐでした。

「房下がってるぢゃぃ。」にはかに楢夫が叫びました。一郎はうしろからよく聞えなかったので「何や。」とたづねました。

「あの木さ房下がってるぢゃぃ。」楢夫が又云ひました。見るとすぐ崖(がけ)の下から一本の木が立ってゐてその枝には茶いろの実がいっぱいに房になって下って居(を)りました。一郎はしばらくそれを見ました。それから少し馬におくれたので急いで追ひつきました。馬を引いた人はこの時ちょっとうしろをふりかへってこっちをすかすやうにして見ましたがまた黙ってあるきだしました。

 みちの雪はかたまってはゐましたがでこぼこでしたから馬はたびたびつまづくやうにしました。楢夫もあたりを見てあるいてゐましたのでやはりたびたびつまづきさうにしました。

「下見で歩げ。」と一郎がたびたび云ったのでした。

 みちはいつか谷川からはなれて大きな象のやうな形の丘の中腹をまはりはじめました。栗(くり)の木が何本か立って枯れた乾いた葉をいっぱい着け、鳥がちょんちょんと鳴いてうしろの方へ飛んで行きました。そして日の光がなんだか少しうすくなり雪がいままでより暗くそして却って強く光って来ました。

 そのとき向ふから一列の馬が鈴をチリンチリンと鳴らしてやって参りました。

 みちが一(ひと)むらの赤い実をつけたまゆみの木のそばまで来たとき両方の人たちは行きあひました。兄弟の先に立った馬は一寸(ちょっと)みちをよけて雪の中に立ちました。兄弟も膝(ひざ)まで雪にはひってみちをよけました。

「早ぃな。」

「早がったな。」挨拶(あいさつ)をしながら向ふの人たちや馬は通り過ぎて行きました。

 ところが一ばんおしまひの人は挨拶をしたなり立ちどまってしまひました。馬はひとりで少し歩いて行ってからうしろから「どう。」と云はれたのでとまりました。兄弟は雪の中からみちにあがり二人とならんで立ってゐた馬もみちにあがりました。ところが馬を引いた人たちはいろいろ話をはじめました。

 兄弟はしばらくは、立って自分たちの方の馬の歩き出すのを待ってゐましたがあまり待ち遠しかったのでたうとう少しづつあるき出しました。あとはもう峠を一つ越えればすぐ家でしたし、一里もないのでしたからそれに天気も少しは曇ったってみちはまっすぐにつゞいてゐるのでしたから何でもないと一郎も思ひました。

 馬をひいた人は兄弟が先に歩いて行くのを一寸(ちょっと)よこめで見てゐましたがすぐあとから追ひつくつもりらしくだまって話をつゞけました。

 楢夫はもう早くうちへ帰りたいらしくどんどん歩き出し一郎もたびたびうしろをふりかへって見ましたが馬が雪の中で茶いろの首を垂れ二人の人が話し合って白い大きな手甲がちらっと見えたりするだけでしたからやっぱり歩いて行きました。

 みちはだんだんのぼりになりつひにはすっかり坂になりましたので楢夫はたびたび膝(ひざ)に手をつっぱって「うんうん」とふざけるやうにしながらのぼりました。一郎もそのうしろからはあはあ息をついて

「よう、坂道、よう、山道」なんて云ひながら進んで行きました。

 けれどもたうとう楢夫は、つかれてくるりとこっちを向いて立ちどまりましたので、一郎はいきなりひどくぶっつかりました。

「疲(こは)いが。」一郎もはあはあしながら云ひました。来た方を見ると路(みち)は一すぢずうっと細くついて人も馬ももう丘のかげになって見えませんでした。いちめんまっ白な雪、(それは大へんくらく沈んで見えました。空がすっかり白い雲でふさがり太陽も大きな銀の盤のやうにくもって光ってゐたのです)がなだらかに起伏しそのところどころに茶いろの栗(くり)や柏(かしは)の木が三本四本づつちらばってゐるだけじつにしぃんとして何ともいへないさびしいのでした。けれども楢夫はその丘の自分たちの頭の上からまっすぐに向ふへかけおりて行く一疋(ぴき)の鷹(たか)を見たとき高く叫びました。

「しっ、鳥だ。しゅう。」

 一郎はだまってゐました。けれどもしばらく考えてから云ひました。

「早ぐ峠越えるべ。雪降って来るぢょ。」

 ところが丁度そのときです。まっしろに光ってゐる白いそらに暗くゆるやかにつらなってゐた峠の頂の方が少しぼんやり見えて来ました。そしてまもなく小さな小さな乾いた雪のこなが少しばかりちらっちらっと二人の上から落ちて参りました。

「さあ楢夫、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平らだはんて。」一郎が心配さうに云ひました。

 楢夫は兄の少し変わった声を聞いてにはかにあわてました。そしてまるでせかせかとのぼりました。

「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて、なあにあど一里も無ぃも。」一郎も息をはづませながら云ひました。けれどもじっさい二人とも急がずに居られなかったのです。めの前もくらむやうに急ぎました。あんまり急ぎすぎたのでそれはながくつゞきませんでした。雪がまったくひどくなって来た方も行く方もまるで見えず二人のからだもまっ白になりました。そして楢夫(ならを)が泣いていきなり一郎にしがみつきました。

「戻るが、楢夫。戻るが。」一郎も困ってさう云ひながら来た下の方を一寸(ちょっと)見ましたがとてももう戻ろうとは思はれませんでした。それは来た方がまるで灰いろで穴のやうにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂の頂上だってもうぢきでした。そこまでさへ行けばあとはもう十町もずうっと丘の上で平らでしたし来るときは山鳥も何べんも飛び立ち灌木(くわんぼく)の赤や黄いろの実もあったのです。

「さあもう一あしだ。歩(あ)べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖(お)っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込んで云ひました。楢夫は涙をふいてわらひました。楢夫の頬(ほほ)に雪のかけらが白くついてすぐ溶けてなくなったのを一郎はなんだか胸がせまるやうに思ひました。一郎が今度は先に立ってのぼりました。みちももうそんなにけはしくはありませんでしたし雪もすこし薄くなったやうでした。それでも二人の雪沓(ゆきぐつ)は早くも一寸も埋まりました。

 だんだんいたゞきに近くなりますと雪をかぶった黒いゴリゴリの岩がたびたびみちの両がはに出て来ました。

 二人はだまってなるべく落ち着くやうにして一足づつのぼりました。一郎はばたばた毛布をうごかしてからだから雪をはらったりしました。

 そしていゝことはもうそこが峠のいたゞきでした。

「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ、楢夫。」

 一郎はふりかへって見ました。楢夫は顔をまっかにしてはあはあしながらやっと安心したやうにわらひました。けれども二人の間にもこまかな雪がいっぱいに降ってゐました。

「馬もきっと坂半分ぐらゐ登ったな。叫んで見べが。」

「うん。」

「いゝが、一二三、ほおお。」

 声がしんと空へ消えてしまひました。返事もなくこだまも来ずかへってそらが暗くなって雪がどんどん舞ひおりるばかりです。

「さあ、歩(あ)べ。あと三十分で下りるにい。」

 一郎はまたあるきだしました。

 にはかに空のほうでヒィウと鳴って風が来ました。雪はまるで粉のやうにけむりのやうに舞ひあがりくるしくて息もつかれずきもののすきまからはひやひやとからだにはひりました。兄弟は両手を顔にあてて立ちどまってゐましたがやっと風がすぎたので又あるき出さうとするときこんどは前より一そうひどく風がやって来ました。その音はおそろしい笛のやう、二人のからだも曲げられ足もとをさらさら雪の横にながれるのさへわかりました。

 たうげのいたゞきはまったくさっき考へたのとはちがってゐたのです。楢夫はあんまりこゝろぼそくなって一郎にすがらうとしました。またうしろをふりかへっても見ました。けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、うしろはまるで暗く見えましたから楢夫はほんたうに声を立てないで泣くばかりよちよち兄に追ひ付いて進んだのです。

 雪がもう沓(くつ)のかゝと一杯でした。ところどころには吹き溜(だま)りが出来てやっとあるけるぐらゐでした。それでも一郎はずんずん進みました。楢夫もそのあしあとを一生けん命ついて行きました。一郎はたびたびうしろをふりかへってはゐましたがそれでも楢夫はおくれがちでした。風がひゅうと鳴って雪がぱっとつめたいけむりをあげますと、一郎は少し立ちどまるやうにし楢夫は小刻みに走って兄に追ひすがりました。

 けれどもまだその峯みちを半分も来ては居りませんでした。吹きだまりがひどく大きくなってたびたび二人はつまづきました。

 一郎は一つの吹きだまりを越えるとき、思ったより雪が深くてたうとう足をさらはれて倒れました。一郎はからだや手やすっかり雪になって軋(きし)るやうに笑って起きあがりましたが楢夫はうしろに立ってそれを見てこはさに泣きました。

「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」一郎は云ひながら又あるきました。けれどもこんどは楢夫がころびました。そして深く雪の中に手を入れてしまって急に起きあがりもできずおじぎのときのやうに頭をさげてそのまゝ泣いてゐたのです。一郎はすぐ走り戻ってだき起しました。そしてその手の雪をはらってやりそれから、

「さあも少しだ。歩げるが。」とたづねました。

「うん」と楢夫は云ってゐましたがその眼はなみだで一杯になりじっと向ふの方を見、口はゆがんで居りました。

 雪がどんどん落ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人は又走り出しましたけれどももうつまづくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいてるのかどうか前無かった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。

 風がまたやって来ました。雪は塵(ちり)のやう砂のやうけむりのやう楢夫はひどくせき込んでしまひました。

 そこはもうみちではなかったのです。二人は大きな黒い岩につきあたりました。

 一郎はふりかへって見ました。二人の通って来たあとはまるで雪の中にほりのやうについてゐました。

「路まちがった。戻らなぃばわがなぃ。」

 一郎は云っていきなり楢夫の手をとって走り出さうとしましたがもうたゞの一足ですぐ雪の中に倒れてしまひました。

 楢夫はひどく泣きだしました。

「泣ぐな。雪はれるうぢ此処(こご)に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。

 風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。

「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまゝ楢夫(ならを)を抱きしめました。

 一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまはり燈籠(どうろう)のやうに見えて来ました。正月に二人は本家(ほんけ)に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないといふやうにひどく目で叱(しか)ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでゐるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一そう強く楢夫を抱きしめました。

      三、うすあかりの国

目次に戻る

目次