20話 雨乞い 二
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師道が早々に帰ったあとで、忠通はすぐに玉藻を呼んだ。彼は燃えるような息を吐きながら、今聞いた顛末を物語った。
「もう堪忍も容赦もならぬ。衛府の侍どもを召しあつめて、宇治へ差し向けようと思う」
「宇治へ……」と、玉藻は眉をよせた。
「おお、頼長めを誅伐するのじゃ。氏の長者を許され、関白の職におる忠通に敵対するやからは謀叛人も同様じゃ。弟とて容赦はない。すぐに人数を向けて攻め亡ぼすまでのことじゃ。信西入道も憎いやつ、今までは我が師と敬うていれば付け上がって、謀叛人の方人となって我に刃向かうからは、彼めも最早ゆるされぬ。頼長と時を同じゅうして誅伐する。かれら二人をほろぼせば、その余の徒党は頭のない蛇も同様で、よも何事をも仕得まいぞ。侍を呼べ、すぐに呼べ」と、忠通はまなじりを裂いて哮った。
「御立腹重々お察し申しまするが、まずお鎮まりくださりませ」
玉藻はさえぎってとめた。今この場合に衛府の侍どもを召されても、かれらが素直に左大臣誅伐の命令に応じて動くかどうかわからない。左大臣の野心はとうに見え透いているものの、これぞと取り立てていうほどの証拠もないのであるから、迂闊にここで事を起こすと、理を以って非に陥るおそれがないでもない。衛府の者どものうちに左大臣や信西入道に心をかよわす者があって、早くもそれを敵に注進されたら、あの精悍な頼長と老獪な信西とが合体して何事を仕向けるかもしれない。あるいは機先を制して、むこうから逆寄せに押しかけて来るかもしれない。下世話のことわざにもある通り、急いては事を仕損ずる。しょせんは彼らを誅伐するにしても、今しばらく堪忍しておもむろに時機を待つ方が安全であろうと、彼女は賢しげに忠告した。
それも一応理屈はあった。殊にそれが玉藻の意見であるので、忠通も渋しぶながら納得したので、彼女はほっとしたような顔をしてそこを起った。
その日の午過ぎに玉藻は被衣を深くして屋形を忍んで出た。清治と女の童の死んだ晩から、さみだれ空はぬぐったように晴れつづいて、俄に夏らしい強い日に照らされた京の町には、もう軽い砂が舞い立っていた。柳のかげには牛をつないで休んでいる人が見えた。玉藻は姉小路の信西入道の屋形をたずねた。
門をはいると、大きい槐の梢に蝉が鳴いていた。車溜りのそばには一人の若い男がたたずんで、その蝉の声を聴いているらしく見えた。男は千枝太郎であった。
「千枝太郎どの」
玉藻に呼ばれて、千枝太郎は振り向いた。
「おお、玉藻……」と、彼はすこしく眉を動かしたが、さりげなく会釈した。「晴れたら俄に暑うなった。お身には河原で逢うたぎりじゃが、変わることもないか」
「お前にも変わることはありませぬか」と、玉藻はなつかしそうに言った。「その後にはよい折りがのうて、逢うこともならなかった。して、今はなにしにここへ……。お師匠さまのお供してか」
千枝太郎はうなずいた。彼は明るい夏の日の前で玉藻とむかい合って、きょうこそはその正体をよく見届けようと思ったのである。地に黒く映っている玉藻の影は、やはり普通の女の姿であった。千枝太郎は更に女の顔をじっと視つめると、玉藻は少し羞じらうように顔をかしげて、斜めに男の眼のうちをうかがった。
「お師匠さまはなんの御用じゃ」
「わしは知らぬ」と、千枝太郎は情なく言った。
梢の蝉は鳴きつづけていた。二人はしばらく黙っていた。
「お前には一度逢うて、しみじみ話したいこともあるが、よい折りはないものか」と、玉藻はひと足すり寄って訊いた。
懐かしげな、恋しげな、情けの深そうな女の眼をじっと見ているうちに、千枝太郎の胸はなんとなくほてってきた。彼女は果たして魔性の者であろうか。年の若い千枝太郎は師匠の教えを少し疑うようにもなってきた。それでも彼は迂闊に油断しなかった。
「お師匠さまは厳しいで、御用のほかには滅多に外へは出られぬ。それはわしばかりでない。ほかの弟子たちも皆それじゃで是非がない」
「ほんにそうであろうのう」と、玉藻は低い溜息を洩らした。「それでも忍んで出られぬことはあるまいに、たった一度じゃ、逢うて下されぬか。むかしの藻じゃ、憎うはあるまい。それともお前、ほかに親しい女子でも出来たのか。もう昔の藻を何とも思わぬのか。このあいだも言うた通り、人の身の行く末は知れぬものじゃ。山科の里に一緒に育って、おまえは烏帽子折りの職人になる。わたしも烏帽子を折り習うて……。思えばそれもたがいに幼い同士の夢であった」
千枝太郎の眼の前には、その幼い夢の絵巻物が美しく拡げられた。山科の里の森や川や、それを背景にして仲よく遊んでいた二人の姿も、まぼろしのように浮かび出した。彼はうっとりとして玉藻の顔を今更のように見つめた。そうして、何事をか言おうとするとき、奥から一人の侍が出て来た。
侍は胡乱らしく玉藻をじろじろ眺めているので、玉藻は丁寧に会釈して、主人の入道に取次ぎを頼むと、侍は更に彼女の顔を睨むように見て、すぐに内へ引っ返して行った。
「あれは右衛門尉成景というお人じゃ」と、千枝太郎は彼のうしろ姿を見送って教えた。
「見るから逞しそうな。さすがは少納言殿のお内に侍う人ほどある」と、玉藻はうなずいて、さてまた語り出した。
「のう、千枝太郎どの。くどくも言うようじゃが、お前どうでもわたしに逢うのはいやか。今宵にはかぎらぬ、あすでもあさってでも……。関白殿のお屋形へまいって、玉藻に逢おうと言うてくれたら、わたしはきっと首尾して出る。これ、どうでもいやか。どうでも応とは言われぬか」
彼女はくれないの唇を男の耳にすりつけて囁いた。
女のうす絹に焚きこめた甘いような香の匂いは千枝太郎のからだを夢のように押し包んで、若い陰陽師の血は俄に沸き上がった。強い夏の日を仰ぐ彼の眼はくらくらと眩んできて、彼は真っ直ぐに立っているに堪えられないように、思わず女の腕にもたれかかると、玉藻はほほえみながら彼を軽くかかえてやった。そうして又、甘えるようにささやいた。
「さりとは情のこわい人じゃ。むかしの藻を忘れてか」
邪魔なところへ右衛門尉成景が再び出て来た。彼は玉藻に向かっておごそかに言った。
「主人の少納言、あいにくの客来でござれば、御対面はかなわぬとの儀にござる。失礼は御免、早々にお帰りあれ」
「それは残り多いこと」と、玉藻は相手の無礼を咎めもせずにあでやかに笑った。「お客は播磨守殿とやら。大切の御用談でござろうか」
「主人と閑室にての差し向かい、いかようの用談やら我々すこしも存じ申さぬ」と、成景はにべなく言った。
それでも玉藻は素直に立ち去らなかった。自分は是非とも入道殿にひと目逢って密々に申し入れたい大切の用事があるから、お客の邪魔にならないように別間でしばらくお逢いを願いたいと押し返して言った。成景はなんとかして主人に逢わせまいと考えているらしく、いろいろに詞をかまえて追い払おうとしたが、玉藻はなかなか動きそうもないので、彼もとうとう根負けがして又もや奥へ引っ返したかと思うと、今度はすぐに出て来て、玉藻を内へ案内した。
千枝太郎はもとの一人になって、えんじゅの青い影の下に立っていた。彼はもう半分は夢のようで、なにを考える力もなかった。青い葉をゆする南風がそよそよと彼の袂を吹きなびかせて、鈴を振るような蝉の声がにぶい耳にもこころよく聞こえた。
しばらくして玉藻は成景に送られて出て来た。彼女の口元には豊かな笑みが浮かんでいた。成景の見る前、もうなにも言っている間もないので、彼女はただ千枝太郎に目礼して別れた。そのうしろ影が門の外へ消えてゆくのを見送って、千枝太郎はなんだか物足らないような寂しい心持になって、糸にひかれたようにふらふらと樹の下を離れた。そうして、彼女を追うように同じく門の外へ出ると、まだ五、六間とはゆき過ぎない玉藻がけたたましく叫んだ。
「あれ、誰か来て……。助けてくだされ」
その声におどろかされて、きっと見ると、痩せさらばえた一人の老僧が片手に竹の杖を持って、片手に玉藻の袂をしかと掴んでいた。僧は物に狂っているらしい。鼠の法衣は裂けて汚れて、片足には草履をはいて片足は跣足であった。千枝太郎はすぐに駈け寄って二人のあいだへ割ってはいった。
「おお、千枝太郎どの。ようぞ来てくだされた。この御僧は物に狂うたそうな。不意にわたしを捉えてどこへか連れて行こうとする。どうぞ助けてくだされ」と、玉藻は悩める顔を袖に掩いながら言った。
「御坊。いかに狂えばとて、女人をとらえてなんの狼藉……」と、千枝太郎は叱るように言った。「静まられい、ここ放されい」
僧はなんにも言わなかった。白い鬚がまだらに伸びて、頬骨の悼ましく尖った顔に、窪んだ眼ばかりを爛々とひからせて、彼は玉藻の白い襟もとをじっと見つめていた。相手が執念深いので、千枝太郎はいよいよ急いた。
「ええ、退かれいというに……。ええ、放されい。放さぬか」
彼は相手の痩せた腕をつかんで、力まかせに引き放そうとしたが、命のあらんかぎりと掴んでいるらしい僧の手は容易に解けなかった。血気の若者は焦れてあせって、折れるばかりにその手を捻じ曲げて、無理にようよう引き放して、突きやると、力の尽きた老僧は枯木のようにばったり倒れた。玉藻はそれを見向きもしないで、急ぎ足に立ち去った。
僧は這い起きて又追おうとするのを、千枝太郎は又抱き止めた。僧は熱い息をふいて身をもがいているところへ、四、五人の若い僧が汗みどろになって追って来た。
「おお、ここにじゃ。どなたか知らぬが、かたじけのうござる」
彼らは千枝太郎に礼をいって、まだ哮り狂っている老僧を宙にかつぐように連れて行った。狂える老僧は法性寺の阿闍梨であった。