19話 雨乞い 一
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あくる朝、大納言師道は関白の屋形に召された。師道は雨を冒して来た。
「きのうも今日も降りつづいて、さりとは侘しいことでござる。殿には御機嫌いかがおわします」と、師道はねんごろに関白の容態をたずねた。
「とかくに勝れないでのう」と、忠通は烏帽子のひたいを重そうに押さえた。「きょうわざわざ召したはほかでもない。お身と忠通とは年ごろの馴染みじゃ。打ちあけて少しく申し談じたい儀があって……。近う寄られい」
それは玉藻を采女に推薦する内儀であった。師道にももちろん異存はなかった。
「至極の儀、わたくしも然るびょう存じ申す。当時関白殿下の御威勢を以って、彼女を采女にすすめ奉るに、誰も故障申し立つべきようもござりますまい」
「いや、そこじゃて」と、忠通は悩ましげに頭をかたむけた。「お身の言わるる通り、忠通の威勢を以って彼女を申し勧むるに、なんの故障はない筈じゃが、高き木は風に傷めらるるとやらで、この頃の忠通には眼にみえぬ敵が多い。いや、ひがみでない、忠通はたしかにそう見ておる。就いては玉藻の儀も何かとさえぎって邪魔するやからがないとも限らぬ。まず第一には弟の頼長めじゃ。次には信西入道、彼もこのごろは弟めの襟もとに付いて、ややもすれば予に楯を突こうとする、けしからぬ古入道じゃ。まだそのほかにも数え立てたら幾人もあろう。うわべはさりげのう見せかけて、心の底には忠通を押し傾けようと企んでいるやからが、殿上には充ち満ちておる。お身はまだ知らぬか」
忠通と頼長、この兄弟の不和は師道も薄うす知らないでもなかったが、忠通の敵が殿上に充ち満ちているなどとはちっとも思い寄らないことで、それは恐らく彼のひがみであろうと思った。自体関白の様子は昔とよほど変わっている。質素な人物がだんだんに驕奢に長じてきた。温厚な人物がだんだん疳癖の強いわがままな性質に変わってきた。殊にこの頃は病いに垂れ籠めているので、疳癖はいよいよ昂ぶって、あらぬことにも心を狂わすのであろう。それに逆らっては好くないと考えたので、師道は素直に彼の言うことを聴いていた。
「それじゃに因って、玉藻の儀もこの忠通の口から申しいづると、きっと邪魔するやからがある。就いては大納言、お身から好いように申し立ててはたもるまいか。お身は初めて玉藻を見いだした御仁じゃ。そのお身から申し勧むるに於いては、誰も表立ってさえぎる者もあるまい。どうじゃ。頼まれておくりゃれぬか」と、忠通は重ねて言った。
時の関白藤原忠通卿が詞をさげて頼むのである。師道はこれに対して故障をいうべきようもなかった。まして、自分は年来その恩顧を受けている。玉藻を彼に推薦したのも自分である。これらの関係上、師道はどうしてもこの頼みを断わるわけにはいかない破目になっているので、彼はやはり素直に承知した。
「御懇の御意、委細心得申した。あすにも参内して、万事よろしゅう執奏の儀を……」
「おお、取り計ろうてたもるか」と、忠通は子供のように身体をゆすって喜んだ。
いろいろの打ち合わせをして、師道はやがて関白の前をさがると、入れ代って玉藻が召し出された。忠通は笑ましげに彼女に言い聞かせた。
「万事は大納言が受け合うてくれた。心安う思え」
「ありがとうござりまする」と、玉藻も晴れやかな眼をして会釈した。
雨はその日の夕方からひとしきり降りやんで、鼠色の雲が一枚ずつ剥げてゆくように明るくなった。その明るい大空の上には赤い星が三つ四つ光っていた。この時代の習いで、亥の刻頃(午後十時)には広い屋形の内もみな寝静まって、庭の植え込みでは時どきに若葉のしずくのこぼれ落ちる音がきこえた。今夜は蛙も鳴かなかった。
女の童の小雪というのが眼をさまして厠へ立った。彼女は紙燭をともして長い廊下を伝ってゆくと、紙燭の火は風もないのにふっと消えた。それと同時に暗い行く手に明るい光りが浮き出して、七、八間ほど先きを静かに動いてゆくのを見たので、年の若い小雪はぎょっとして立ちすくんだ。光りのぬしは女であった。女は長い袴の裳をひいて、廊下を静かに歩んでゆく。そのうしろ姿が玉藻によく似ていると思ううちに、廊下の隅にある一枚の雨戸が音もなしにするりと明いて、女の姿は消えるように庭へぬけ出した。小雪は一種の好奇心にうながされて、これも足音をぬすんでそのあとからそっと庭に降り立つと、玉藻に似た姿は植え込みの間をくぐって行って、奥庭の大きい池の汀にすっくと立った。
池は年を経て、その水は蒼黒く淀んでいるのが、この頃の雨に嵩を増して、濁った暗い色が汀までひたひたと押し寄せていた。あやめや、かきつばたはその濁った波に沈んで、わずかに藻の花だけが薄白く浮かんでいるのが、星明かりにぼんやりと見えた。女はまず北に向かって一つの大きい星を拝した。ほかの星の赤いなかに、その星一つは優れて大きく金色に輝いていた。それは北斗七星というのであろうと小雪は思った。
女はその星をしばらく拝していたが、やがて向きを変えて池の汀にひざまずいた。彼女は左の手で長い袂をおさえながら、夜目にも白い右の手をのばして池の玉藻をすくっているらしかった。好奇心はいよいよ募って、女の童は息もせずに見つめていると、女はやがてその青い藻を手の上にすくいあげて、しずくも払わずに自分の頭の上に押し頂いた。
藻をかつぐのは狐である――こういう言い伝えを彼女は知っていたので、小雪は俄に怖ろしくなった。すくんだ足を引き摺りながらそっと引っ返そうとした時に、女のひかりは吹き消したように消えた。
「小雪か」と、暗いなかで女の涼しい声がきこえた。それは確かに玉藻の声であった。
女の童はもうおびえて、声も出なかった。ただ身を固くしてそこにうずくまっていると、玉藻はするすると寄って来て、彼女の細い腕をつかんだ。
「おまえ見たか」
女の童はやはり黙ってすくんでいた。
「隠さずに言や。なにを見た」
「なんにも……見ませぬ」
彼女はふるえながら答えたが、もう遅かった。女の童の小さいからだは、蛇に呑まれようとする蛙のように手足をひろげたまま固くなってしまった。その正体のない女の童を地の上にまろばして、玉藻はまずその黒い髪の匂いを嗅いだ。豊かな頬の肉をねぶった。
このとき、鬼火のような小さい松明の光りが植え込みのあいだからひらめいて、だんだんにこちらへ近寄って来た。それは織部清治で、彼は宵と夜なかと夜あけとの三度に、屋形の庭じゅうを見廻るのが役目であった。
彼は暗いなかで、犬が水を飲むような異様なひびきを聞いたので、ぬき足をしてここへ忍んで来た。そうして、その正体を見定めようとして松明をあげると、その火は水を掛けられたように消えてしまった。しかしその一刹那に、そこに這いかがまっている人が玉藻であるらしいことを、彼は早くも認めた。
「玉藻の御か」と、清治は声をかけると、あたりは急に明るくなった。その光りは花の宴のゆうべに、玉藻の身から輝いたのと同じように見えた。
それより更に清治の眼をおどろかしたのは、その光りに照らし出されたこの場のむごたらしい光景であった。女の童の小雪は死んだきりぎりすのように、手も足もばらばらになってそこに倒れていた。玉藻の口には生なましい血が染みていた。もうこうなると、相手の玉藻はまさに鬼女である。清治はすぐに太刀に手をかけたが、その手はしびれて働かなかった。
玉藻はその冷艶なおもてに物凄い笑みを洩らした。怪しい光りは再び消えて、暗いなかで男の唸る声がきこえた。
「望みを遂ぐる時節も近づいたと思うたら、丁度幸い男と女の生贄を手に入れた」
男の唸り声も玉藻の声もそれぎりで聞こえなくなった。
夜があけてから、清治と女の童との浅ましい亡骸が古池の水に浮かんでいるのを見いだされた。しかも二人がどうしてこんな無惨な死にざまをしたのか、誰にも判らなかった。
兼輔の死に次いで、こんな奇怪な事件が再び出来したので、忠通の神経はいよいよ傷つけられた。殊に今度はそれが自分の屋形の内に起こったので、彼は言い知れない恐怖と不安とに囚われた。彼は三度の食事すらも快く喉へは通らないようになってきた。
それから四日ほど過ぎて、大納言師道が来た。彼の報告はさらに忠通の心を狂わせる種であった。玉藻を采女に申し勧める一条は、果たして左大臣頼長から強硬なる抗議が出た。信西入道も反対であった。彼らの反対は師道も内々予期していたので、彼もなんとかしてその敵を押し伏せようと試みたが、何をいうにも正面の敵は頼長である。しかも博学宏才の信西入道がその加勢に付いているので、師道はとても彼らと対抗することは出来なかった。結局さんざんに言いまくられて、彼は面目を失って退出した。
「彼らは何故ならぬという。素性が卑しいと申すのか」と、忠通は唇を咬みながら訊いた。
「いや、そればかりではござりませぬ。玉藻という女性に就いては落意しがたき廉々があるとか申されまして……」と、師道もすこしあいまいに答えた。「あのような女性を召されては天下の乱れにもなろうと信西入道が申されました」
「なんの、天下の乱れ……。おのれらこそこの忠通を押し倒して、天下を乱そうと巧んでいるのじゃ」
忠通は拳を握って、跳り上がらんばかりに無念の身をもだえた。