玉藻の前

23話 犬の群れ 二

3,716字 約7分 2000年3月30日 公開

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 甘露(かんろ)のような雨はその夜のふけるまで降り通したので、天の恵みをよろこぶ声ごえは洛中洛外に溢れた。彼らは天の恵みを感謝すると共に、玉藻の徳の宏大無量を讃美した。彼らばかりではない。忠通は小おどりして喜んだ。

「見い、あいつら。これほどの奇特を見せられても、まだまだ玉藻を敵とするか。この忠通を侮るか。はは、小気味のよいことじゃ」

 実際、これに対して玉藻の敵も息をひそめないわけにはいかなかった。頼長も信西もなんとも声を立てることが出来なくなった。とりわけ面目を失ったのは泰親である。彼は(おおやけ)の沙汰を待たないで、自分から門を閉じて蟄居(ちっきょ)した。

 泰親はもともと雨を祈ったのではない。したがって玉藻との祈祷くらべに不覚を取ったというのではないが、悪魔調伏は秘密の法で、表向きは雨乞いの祈祷である以上、泰親が半日の祈祷にはなんの効験(しるし)もなかったのに、それに入れ代った玉藻は(いっとき)の後にあれほどの大雨を呼び起こしたのであるから、表向きはどうしても彼の負けである。安倍晴明六代の孫は祖先を恥ずかしめたのである。彼は(つつし)んで罪を待つよりほかはなかった。弟子も無論に師匠と共に謹慎していた。泰親は自分の居間に閉じ籠ったままで、誰とも口をきかなかった。

 その明くる日は晴れていたが、きのうの雨に洗われた大空は、俄に一里も高くなって、その高い空から秋らしい風がそよそよと吹きおろしてきた。縁に近い(きり)の葉が一、二枚、音もなしに寂しく落ちるのを、泰親はじっと眺めていると、千枝太郎はぬき足をして燈台をそっと運んで来た。きょうももういつの間にか暮れかかっていた。

「千枝太郎、きょうは朝から誰も見えぬか」

「誰も見えませぬ」

「関白殿よりお使いもないか」

「はい」

 千枝太郎は伏し目になって師匠の顔色をうかがうと、燈台の灯に照らされた泰親の顔は水のように蒼かった。

「大切の祈祷を仕損じた泰親じゃ。重ければ流罪(るざい)、軽くとも(いえ)の職を奪わるる。その御沙汰がきょうにもあるべき筈じゃに、今になんのお使いもないは……」と、泰親は(かしら)をかたむけた。「人は何ともいえ、雨乞いの勝ち負けなど論にも及ばぬ。ただ無念なは我が秘法の()えなくも破れたことじゃ。七十日の祈りもしっかい(くう)となって、悪魔が調伏の壇にのぼって勝鬨(かちどき)をあぐるとは、しょせん泰親の法もすたった。(かみ)に申し訳がない、先祖に申し訳がない。左大臣殿や少納言殿にも申し訳がない。この上はただ(つつし)んで罪を待つよりほかはないのじゃが、いかに思い返しても唯このままに手をつかねて、悪魔の(あら)ぶるをおめおめ見物するのは、国のため、世のため、人のため、なんぼう忍ばれぬことじゃ。泰親を卑怯と思うな。未練と思うな。泰親の命は()くに投げ出してある。しかしもう七十日無事でいて、命のあらんかぎり二度の祈祷をしてみたい。就いては千枝太郎、折り入って頼みたいことがある。頼まれてくれぬか」

 師匠の眼の底には強い決心の光りがひらめいていた。千枝太郎はその光りに打たれたように頭を下げた。

「いかようのお役目でも、わたくしきっと承りまする」

「まずは過分(かぶん)じゃ。幸いに日も暮れた。いま一ほどしたら屋敷をぬけ出して、少納言殿屋敷までそっと走ってくりゃれ」

 千枝太郎は心得顔にうなずくと、泰親はさらに声を忍ばせて言った。その用向きはほかでもない、信西入道の袖にすがって更に七十日の猶予を頼もうとするのである。家の職を奪われ、あるいは遠流(おんる)の身となっては、再び悪魔調伏の祈祷を試むる便宜(よすが)もない。関白殿からなんの沙汰もないうちに、なんとかして自分の罪を申しなだめて、二度の祈祷を試むるだけの期間をあたえて貰いたい。その七十日を過ぎてもやはり効験(しるし)がなかったらば、流罪はおろか、死罪獄門も厭わない。勿論、それは信西入道の一存で取り計らうわけにもいくまいが、入道から更に左大臣頼長に訴えて、この願意を聞き済ましてくれるように何分尽力して貰いたい。自分は謹慎の身の上でみだりに門外へ出ることが出来ないから、おまえが今夜忍んでこの使いを果たしてくれというのであった。

 千枝太郎は即座に承知した。

「委細心得ました。仰せの通りに仕まつりまする」

 彼は立派に受け合って師匠の前を退がった。一度の祈祷を仕損じても、さらに二度の祈祷を心がける師匠の強い決心に、千枝太郎は感激した。もう一つには、(かず)ある弟子たちのうちでこの大切の使いを自分に頼まれたということが、彼に取っては一生の面目のようにも思われた。たとい信西入道がなんと言おうとも、かならず取りすがってこの役目を果たして来なければならないと、彼ははりつめた心持で夜の来るのを待っていた。

 都の(てら)でらの鐘が(いぬ)の刻(午後八時)を告げるのを待ち侘びて、千枝太郎は土御門(つちみかど)の屋敷を忍んで出ると、八月九日の月は霜を置いたように彼の袖を白く照らした。

「千枝太郎どの。千枝

 柳のかげから女の声がきこえた。それは彼が信西入道の屋敷の前まで行き着いた時であった。その声には確かに聞き覚えがあるので、彼は大地に釘づけになったように一旦は立ちすくんだが、聞かない顔をして一生懸命に歩き出そうとすると、その直衣(のうし)の袂はいつか白い手に掴まれていた。

「千枝太郎どの、なぜ逃げる。つれない人じゃ」

「いや、わしは急ぎの用がある」

 振り切ろうとしても玉藻は放さなかった。

「なんの用かは知らぬが、お前たちは慎みの身の上じゃ。勝手に夜歩きなどしても苦しゅうないか」

 千枝太郎は行き詰まった。勿論、まだ表向きには謹慎も蟄居も申し渡されてはいないのであるが、この場合に謹慎は当然のことである。その身の上で勝手に夜歩きをする。ひとに見咎められては申し訳がない。彼もしばらく黙って突っ立っていた。

「それ、お見やれ」と、玉藻はほほえんだ。「おまえは今夜このお屋敷へなにしに参られた。お師匠さまのお使いか」

 千枝太郎はやはり黙っていた。

「ほほ、言わいでも大抵知れている。そう思うて、わたしはさっきからここにお前を待っていた。一度は首尾して逢うてくれと、このあいだもあれほど頼んだに、お前はきょうまで素知らぬ顔をしている。それほどにわたしが憎いか。但しはお師匠さまと同じように、あくまでもわたしを魔性の者のように疑うているのか。お師匠さまはともあれ、山科の里で子供のときから一緒に育ったお前が、なんでわたしを疑うぞ。論より証拠はきのうの祈祷(いのり)じゃ。お前たちもお師匠さまと一つになって、悪魔調伏の祈祷をせられたが、あっぱれその効験(しるし)が見えましたか。もともと悪魔でもないわたしを百日千日祈ればとて呪えばとて、なんのしるしがあるものか、積もって見ても知らるることじゃ。関白殿は殊のほかの御立腹で、泰親はいうに及ばず、祈祷の壇にのぼった者は、一人も残さずに遠い鬼界ヶ島(きかいがしま)へ流せと仰せられたを、わたしが縋ってなだめ申したは、お前という者がいとしいからじゃ。お師匠さまはわたしに取っては仇じゃが、そのお弟子のお前はいとしい。あけても暮れても硫黄(いおう)の煙りを噴くという怖ろしい鬼界ヶ島、そのような処へお前をやらりょうか。のう、千枝。わたしがこれほどの心づくしを、お前は哀れとも思わぬか、嬉しいとも思わぬか。ほんにほんに、むごい人、つれない人、憎い人、わたしは口惜しゅうて涙も出ぬ。察してくだされ」

 彼女は千枝太郎の胸に顔をすり付けて、()る瀬ないように身もだえして泣いた。男は女を(かか)えたままで、明るい月の下に黙って立っていた。

 関白殿から今までなんの沙汰もなかったのは、玉藻が内からさえぎっていたのであることを、千枝太郎は今初めて覚った。名を聞くさえも恐ろしい鬼界ヶ島へ遠流――年の若い彼はさすがにぞっとした。それを救われたのは玉藻の情けであることを考えると、千枝太郎も(すげ)なく彼女を突き放すことも出来なくなった。

 玉藻は果たして魔性の女であろうか――この疑いが又もや彼の胸に芽をふいた。彼はもとより師匠を信じていた。しかも玉藻のいう通り、彼女が果たして魔性の者であるならば、日本一というお師匠さまが七十日の間も肝胆を砕いた必死の祈祷に、その正体をあらわさぬということはあるまい。彼女は恐るる色もなしに調伏の壇に登ったのである。それを悪魔の勝利と見るのが正しいのであろうか。あるいは悪魔でもない者を悪魔として無益の祈祷をつづけていたこちらの眼違いであろうか。こう思うと、彼の胸は急に暗闇(くらやみ)になった。彼は自分の抱えている女を、どう処置していいか判らなくなってきた。

「お前はまだわたしを疑うているのか。いや、お前ばかりでなく、お師匠さまもきっとわたしを疑うているに相違あるまい。播磨守殿は情のこわい人と聞く。おそらくこれには懲りもせで、二度の祈祷など(たく)まるることであろう。二度が三度でもわたしは厭わぬが、そのような罪をかさねて、身の行く末は何となることやら、思いやるだに悼ましい。お師匠さまが大事じゃと思うなら、お前からよく意見して、もうさっぱりと思い切らせてはどうであろう。それともお前までがいつまでもお師匠さまの味方して、わたしを悪魔と呪う気か」

 玉藻は男の腕に手をかけて、怨めしそうに彼をみあげた。その眼には白い露がきらきらと光っていた。

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