玉藻の前

24話 犬の群れ 三

4,602字 約9分 2000年3月30日 公開

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 いかに玉藻に口説かれても、千枝太郎は師匠の使命を果たさなければならない破目(はめ)になっていた。無益の祈祷を幾たびもつづけて、罪に罪をかさねるのは悼ましいことの限りであるが、今更そんな諫言を()くようなお師匠さまでないことは、彼にもよく判っていた。諫言を肯かないばかりでなく、あるいは心の弱い者として自分に勘当を申し渡されるかもしれない。千枝太郎はそれも怖ろしかった。

 第一の問題は、玉藻が果たして魔性の者であるか無いかということで、それを確かに見きわめた上でなければ、あとへもさきへも踏み出すことが出来ないのであるが、今の千枝太郎は不幸にして、それを見定めるだけの大きい強い眼をもっていなかった。彼は師匠を信じながらも、師匠を疑おうとした。玉藻を疑っていながらも、玉藻を信じようとした。こうした悲しい矛盾に責められて、彼はもう自分の立ち場が判らなくなってきた。

 相手もその苦しみを察しているらしく、眼をふさぎながら(しず)かに言った。

「お前の(せつ)ない破目もわたしはよく察している。二度の祈祷をするもせぬも、しょせんはお師匠さまの心ひとつじゃ。又それを仕損じて、どのような怖ろしい罪科に陥ちようとも、しょせんはお師匠さまの自業自得(じごうじとく)じゃ。わたしはお前のお師匠さまに恨みこそあれ、恩もない、義理もない、由縁(ゆかり)もない。あの人がどうなろうとも構わぬが、唯くれぐれも案じらるるはお前のことじゃ。おまえはそもそもお師匠さまが大切か、わたしがいとしいか、それを聞きたい。お前の性根(しょうね)を確かに知りたい。それを正直に言うてくだされ」

 その正直な返事をすることが、千枝太郎に取っては一生に一度の難儀であった。彼は自分自身にもそれが確かに判っていないのである。玉藻はしばらくその返事をうかがっていたが、相手は唯うつむいて土に映る二人の黒い影を眺めているばかりであるので、彼女はやがて低い溜息をつきながら言った。

「お前はどうでもお師匠さまの味方と見た。この上はもうなんにも言うまい。お師匠さまと一つになって、わたしを祈るとも呪うとも勝手にしなされ。じゃが、千枝。わたしはあくまでもお前をいとしいものに思うている。お師匠さまにどのような禍いが降りかかっても、お前ばかりはきっと助けたいと念じている。それだけのことはよく覚えていてくだされ」

 こう言い切って、彼女は明るい月をみあげた。きのうの稲妻に照らされた悽愴(ものすご)い顔とは違って、今夜の月を浴びた彼女の清らかな神々(こうごう)しいおもてには、月の精が宿っているかとも思われた。千枝太郎に師匠を疑う心がまた起こった。しかも別れてゆく女をさすがに抑留(ひきと)める気にもなれなかったので、彼はなんだか残り惜しいような心持でそのうしろ影を見送っていたが、やがて思い切って信西の屋敷の門をくぐった時には、彼の両袖は夜露にしっとりとしめっていた。

 信西入道はすぐに逢ってくれた。千枝太郎が師匠の口上を取次ぐと、信西は案外にこころよく承知した。

「おお、さもあろうよ。一度は仕損じても、身命をなげうって二度の祈祷を心がくる――泰親としてはさもあるべきことじゃ。信西もそうありたいと願うていた。左大臣殿もおそらく同じ心であろう。あすにも直ぐに宇治へまいって、播磨守の願意は確かにそれがしが取次いでやる。さものうてもこのたびの仕損じに就いて、播磨守一人に罪を負わすは我々も甚だ(こころよ)うないことじゃで、なんとか穏便(おんびん)の沙汰をと工夫しておったる折りからじゃ。彼が二度の祈祷を願うとあれば猶更のこと、なんとかして彼を救わねばなるまい。して、関白殿よりは今になんの沙汰もないか」

「なんの御沙汰もござりませぬ」

「それは重畳(ちょうじょう)。関白殿も本来は賢い御仁じゃで、無道の御沙汰もあるまいと存ずるが、なにをいうても今は悪魔に(みい)られているので、いかようの御沙汰もあろうかと、それがしも(ない)ない懸念しておったが、今になんの御沙汰もなくば、存外穏便に済もうも知れぬ。いずれにしても信西が引き受けた。播磨守にも安心せいと伝えてくりゃれ」

 関白殿からなんの御沙汰もないのは、かの玉藻の取りなしであることを知っていたが、千枝太郎は、この人の前でもそれを明白(あらわ)に言うのを憚った。彼はうやうやしく礼をいって、信西の屋敷を出ると、月はいよいよ明るくなって、路ばたになびく柳の葉も一いちかぞえられる程であった。

 姉小路を出て、高倉の辻へさしかかると、ゆき先きで犬のほえる声がきこえた。気にも留めずに歩いてゆくと、犬の声はそこにもここにも聞こえた。それは唯ならぬ唸り声であった。

「盗賊かな」と、千枝太郎はあるきながら考えた。

 しかし彼は(たくま)しい若者である。賊の一人くらいは取りひしいで呉れようという息込みで、わざと大股に辻のまん中へ進んでゆくと、犬の声はだんだんに近くなった。一匹でない、四方八方から群がって来て、何者をか取り巻いているらしかった。

 見ると眼の前には一人の女が立ちすくんでいた。被衣(かつぎ)を深くして、しかもこちらを背にして立っているので、その顔はもとより判らなかったが、それが玉藻であるらしいことは直ぐに千枝太郎の胸に()かんだ。彼女はまだここらをさまよっていたらしく、あまたの犬は(きば)をむき出して彼女を遠巻きにしているのであった。犬のなかには熊のように大きいのもあった。虎のように(たけ)っているのもあった。しかしかれらは、なんの武器をも持たない女ひとりを噛み倒すほどの勇気もないらしく、唯すさまじい唸り声をあげて、いたずらに地上に映る女の影に吠えているばかりであった。

 孱弱(かよわ)女子(おなご)が群がる犬に取り巻かれている。それが見ず識らずの人であっても見過ごすことは出来ないのに、まして相手は玉藻であるらしいので、千枝太郎の胸は(おど)った。彼はまず路ばたの小石を拾って真っ先に進んでいる犬の二、三匹を目がけてばらばらと打ち付けながら、つかつかと駈け寄って女を囲った。それでも犬はなかなか(ひる)まないらしく、一、二間さがったままでまだ執念ぶかく吠えつづけているので、千枝太郎もじれた。しかし彼も扇のほかに何物をも持っていないので、そこらに転がっている小石や、土くれのたぐいを手あたり次第に拾って投げた。手近へ飛びかかって来る敵を扇で打ち払った。

 犬の声があまりに激しいので、宵寝の都人(みやこびと)も夢をおどろかされたらしい。路ばたの小さい商人店(あきうどみせ)では細目に戸をあけた。それが盗賊でない、犬のいたずらであると知ったときに、そこらの家から二、三人の男が棒切れを持って出て来た。彼らは千枝太郎に加勢して、むらがる犬どもを叩きのけてくれた。敵がだんだんに多くなったので、犬もとうとう追い散らされてしまった。

「かたじけのうござる」

 千枝太郎は加勢の人たちに礼をいって、自分の囲っている女を見かえると、女はいつか自分のうしろを離れて、ある家の軒下の暗いかげに身を寄せていた。千枝太郎は彼女に声をかけた。

「さぞ怖ろしゅうござったろう。犬どもはみな追い払うた。心安うおぼされい」

 女は黙って軒下からすうと出て来た。彼女はまだ被衣を深くしているのを、千枝太郎は月明かりで覗きながら訊いた。

「玉藻でないか」

 言いかけて彼はぎょっとした。被衣を洩れた女の顔は譬えようもないほどに悽愴(ものすご)いものであった。彼女の眼は怪しくさか吊って火のように燃えていた。彼女の口は(けもの)のように尖っていた。千枝太郎は再び眼を据えてよく視ると、それは一時のまぼろしで、月に照らされた女の顔はやはり美しい玉藻に相違なかった。

「犬に取り巻かるるは怖ろしいものじゃ。男でも難儀することがある。別に怪我もなかったか」と、彼は摺り寄って又きいた。

 玉藻はやはり黙っていた。異常の恐怖に囚われて、彼女はまだ息も出ないらしかった。千枝太郎は加勢の人に頼んで、(うち)から水を持って来てもらった。その水をのんで、玉藻はようよう我に返ったらしく見えたが、それでもただ黙礼するばかりで、ひと言も口へは出なかった。人びとに挨拶して別れて、千枝太郎は玉藻を送って行った。

「お前にはいろいろ恩になりました」と、玉藻は途中で初めて言い出した。「先度(せんど)も物に狂うた法師にとらわれて、ほとほと難儀しているところを、お前に救うてもろうたに、今夜もまた……。とりわけて今夜の怖ろしさ、わたしは生きている心地もなかった」

「関白殿のお屋形には犬を飼うておられぬか」

「わたしは犬が大嫌いじゃで、殿に願うて一匹も残さず追い払うてしもうた」

「犬もおとなしければ可愛いものじゃが、群がって来て人を噛もうとする、そのような野良犬は憎いものじゃよ」と、千枝太郎も言った。

「わたしがこのように夜歩きして、犬に悩まされたなどということを、誰にも言うて下さるな」と、玉藻は頼むように言った。

「おお、誰にも言うまい。このようなことがひとに知れたら、わしも叱らるるわ」

「お師匠さまにか」

 千枝太郎はだまって月を仰いでいた。

「思えば不思議なものじゃ」と、玉藻は溜息をついた。「こうしてお前と親しゅうなりながら、お前のお師匠さまはわたしを仇のように呪うているお人、そのお弟子なりゃお前とわたしも仇同士、二人の行く末はどうなろうかのう」

 千枝太郎も引き入れられるような寂しい心持になった。玉藻はまた言った。

「くどくも言うようじゃが、お前のお師匠さまは遅かれ(はや)かれ破滅の身の上じゃ。宇治の左大臣殿がいかほど贔屓(ひいき)せられても、理を非にまぐることは出来ない。そのまきぞえを受けぬように()く心しなされ」

 関白の屋形の門前で二人は別れた。千枝太郎が師匠の家へ戻り着いた頃には、夜もよほど更けていた。泰親はまだ眠らずに待っていたので、千枝太郎はすぐに師匠の前へ出て、今夜の使いの結果を報告すると、泰親は()ましげにうなずいた。

「少納言の御芳志は海山(うみやま)じゃ。泰親もよみがえったような心地がする。お身も大事の使いを果たしてくれて、いこう大儀であった」

 こう言ううちに、泰親の眉がだんだん陰ってきたのを、若い弟子はちっとも気がつかなかった。彼は師匠に褒められたのを誇りとして、自分の部屋へしずかに引き退がった。玉藻に就いて考えたいことがたくさんあったが、今夜の彼はあまりに疲れていたので、枕に就くとすぐに安らかに眠ってしまった。

 しかしその安らかな夢がさめると、彼は不意の落雷に驚かされたのである。夜があけると、彼は師匠の前に呼び出されて、突然に破門(はもん)を申し渡された。

「行く末の見込みある若者じゃと思うて、わしもこれまでいろいろに丹精してみたが、お身は執念(しゅうね)怪異(あやかし)()かれている。お身のおもてに現われた死相はどうでも離れぬ。こう言うと、おのれの罪をひとにまぶし付くるようで甚だ心苦しいことではあるが、泰親が今度の祈祷を仕損じたも、五色にかたどった五人のうちにお身をまじえた為ではないかと疑わるる(ふし)もある。かたがた、いつまでもここにおっては、泰親のためにもようない。お身のためには殊にようない。いったんは叔父のもとへ立ち戻って昔の烏帽子折りになって見やれ。そうして、つつがなく一年二年を送って、その禍いが去ったとみえたらば、再びもとの弟子師匠じゃ。憎うて勘当するのではない。しょせんはお身が可愛いからじゃ。むごい師匠と恨むまいぞ」

 噛んでふくめるように言い聞かせて、泰親は幾らかの金をつつんで呉れた。千枝太郎はただ夢のようで、なんと言い返してよいかを知らなかった。彼はおのずと涙ぐまれた。

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