親方子方

2話 親方子方(2)

6,941字 約14分 2025年1月11日 公開

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モリオヤ 幽かな痕跡は他の地方にもあるが、伊豆の新島ほど顯著な例は無い。島では女の子は貧富によらず、一度は十五歳までに何處かの兒の守女をしなければならぬ。それを頼むには親類の者を使に立てゝ、もりの家の承諾を求める。滿三歳の誕生日まで、夜は還つて日中だけ來てくれる。大きくなつてまで兄弟以上の親しさを續けるだけでなく、其守子の兩親までが、モリットウ・モリッカアと稱して生涯親類の附合ひをし、婚禮の日などは母子とも列席してくれるといふ。

オビオヤ 小兒三歳の祝に帶をくれる親(肥前江ノ島)。大隅ではこの帶親には叔母を頼むことになつて居る。

マハシオヤ 岡山縣西部などでいふ。マハシは褌のことで、故に又フンドシオヤともいふ。十歳から十五歳までの間に、大抵は之をきめ、親の方より男には犢鼻褌、女の子には腰卷などをくれ、婚禮の際にも袴帶鏡臺などを贈つて來る。その親の葬式には男の子は棺を舁ぎ、女も之に相應する役を持つ。肥前馬渡島では之をヘコオヤ、其子をヘコムスコなどと謂ひ、葬送には棺を贈るといふが是はまだ少し心もとない。しかしこの二つの語は北九州だけでなく、山口縣の一部にも行はれて居て、何れも一生涯の附合ひである。佐賀縣には又キヤフムスメといふ子方もある。女子成年の際に脚布即ち腰卷をもらつて、親子の縁を結んだ者であることは一つである。

オヤカタドリ 男女が年頃になつて奉公に出ることも、以前は親方取りと謂つた例が文學には見えてゐるが、家に居て單に新たなる親を求める場合も、同じ名を以て呼ぶ地方がある。山陰一帶の村々がそれで、たとへば宮津附近は男十七歳になると、名望家を親方に頼み魚を持參して禮に行き、親方から羽織着物などをもらふ。女も聟取り娘に限つて親方取りをする。鳥取縣でも男は十七、女は十三の年に親方取りをし、帶や袴を引出物に盃をもらふことになつて居る。それから以後の助け合ひは親身以上だといふ。隱岐の知夫島などはヨコヤ即ち神職を親方に取る者が多い。其關係は代々續くが、あまり幾人もの兄弟があると、又別の人をさがして親方に取ることもあつた。淡路島などでは以前は之を親取りと謂つて居た。親取りといふ名は生れたばかりの子にもあるが、親方取りといふと成年の際に限るやうで、是が一生のカリオヤとしては殊に大切なものであつたと見えて、別に目的を表示する名稱が無く、たゞ親方といひ親分といへば、此時きめた親に限るやうになつて居る土地も多い。

ヱボシオヤ 烏帽子着といふ儀式はもう久しい間、平民の間には絶えて居るのであるが、この名稱だけは京都近江などに近頃までも殘つて居た(民事慣例類集)。跡取り息子に限つて次三男にはしなかつたといふから、可なり重々しき儀禮と認められて居たのである。親方取りをした息子をヱボシゴといふ名は甲州あたりでもきく。烏帽子を着せるなどは無論しないが、その親方がヱボシナと謂つて、新たに一つの名を與へて親子の關係を結ぶ習はしは、東北にも存する(陸前江ノ島)。

カネツケオヤ 女は嫁入りの前に仲人親の外に、別に銕漿附け親といふのを頼む處がある(信州上伊那)。何か問題の起つた時に口をきいてもらふ爲で、今でも三年間は五節供の禮、其後も續いて正月の禮はする。是が此地方の親分なのであるが、甲州では丁寧な家で普通の親分以外に、別に今でも此親を頼む例がある。成女が齒黒めを要件としなくなつて、此役目は追々小さくなつたが、宮城縣の南部でも仲人をカネツケノオヤとする例があり、對馬でも伯叔母が無いと、他人を特にこの親に頼むことになつて居た。能登の半島ではカネツケゴ、又はハグロゴといふ名があつて、元は齒染め道具一切を贈つてくれる親を頼んだ。もう其風習は絶えたけれども、なほ男の烏帽子親に對して、親分のことを齒黒親などと呼んで居る(鳳至郡誌)。

フデオヤ 筆親筆子は現在は手習ひの師匠弟子のみに解して居るやうだが、信州などでは女の親分、即ち婚姻にさしかゝつて後楯となつてくれる人を、さういふ土地があるのは銕漿筆のことゝ思はれる。讃岐小豆島では十五の年にきめ、後に婚姻を世話をしてもらふ親を、男のヨボシオヤに對して女はフデオヤと謂ひ、同じ例は附近の島々にも多い。現在は勿論銕漿は附けぬが、さうして世話になる子をフデコ、又はフジムスメとも謂ひ、更に飜つて其親をムスメオヤとさへ謂つて居るが(伊吹島)、やはり成女式の日に親に取る村内の有力者のことで、從つて其社會的意義は小さくないといふ。

ヤウジオヤ 中國の一部で成年の女のカリオヤのことをいふ。是も銕漿附け道具を貰ふ習ひだつたといふから、乃ち楊枝親であつて、第二種の筆親と區別しようとしたものであらう。

第十

カネオヤ 女の銕漿附け親を又カネオヤとも、カナオヤとも謂ふ例がある。日向の兒湯郡などでは初染の日に、夫婦揃つて繁昌する家の主婦を頼み、一つの銕漿わかしの器で齒を黒めるのがカネオヤであつて、對馬ともよく似た習俗だが、伯耆出雲などでさういふのは、大體は十三の年の暮に契約を結び、實際に齒黒めをする時よりもずつと早い故に、其名義がやゝ不明にならうとして居る。併し本來はその十三が成女式、即ち女の銕漿を附ける時だつたのである。カナオヤといふ名も同じことで、嫁入りに臨んで之を頼み、或は手輕に仲人に兼ねてもらふ土地もあるのだが(長門阿武)、出雲の海岸部や隱岐島前のカナオヤの如く、必ず十三の年に頼んで置き、且つ近頃は嫁入りの際にも齒を染めぬ爲に、單なる女の親方取りと解し、又は名附け親のことだといふやうになつた。隱岐では赤子を塞の神の前に抱いて行き、通りかゝりの三人目に買つてもらふ場合にも、なほ其親をカナオヤと呼んで居る。備中の阿哲郡などには、男の子にもカナオヤがあり、信州のハネオヤ同樣に婚姻まぎはにもきめ、又二三歳の幼年期にもきめる。親の方から所望する例も稀でないが、さういふ場合にも夫婦ともカナコにすることがある。出雲石見ではカナムスメといふ名が弘く行はれ、嶺を隔てた備後の山村には、是と共にカナムスコ、又カノムスコといふ語があつて、共に契約親に對する契約子のことだと謂つて居る。カナ親が單に齒黒めの道具を贈るだけでなく、定約の盃の際男女ともに、名を改めるのを普通とする土地では、是を假名親と謂つて名附け親と同じだとも解して居るが(石見那賀郡)、少しも名をかへない地域には、通用し難い説といつてよい。私の意見では、齒黒めは人生に重要な儀式で、是を管掌する親の力は大きく、カナ娘の配偶者にも波及したゝめに、後々は此名を獨立に男の子と親との關係にも、擴張することが可能であつたので、語原はやはり銕漿だつたらうと思ふ。

ハネオヤ 信州では結婚の時に、初めて花嫁にかねを附けてもらふ親を、カネ親とも筆親とも謂つて居る例が多いが、村によつては是と似て權能の幾分か廣いものを、ハネ親といつて今でもまだ盛んに頼み合つて居る。言葉の起りは恐らくは是も銕漿であつたらうが、齒を染める風習は夙く止み、親を婚姻の際に頼む必要だけが永く殘つて、次第に別ものゝ如く考へられるに至つたのである。私の知つて居る範圍でも、男を子とするハネ親はたしかにあつた。是などは廣島縣のカナムスコも同じ樣に、新たなる擴張であらうと思ふ。契約親の入用は婚姻の時が最も痛切であり、それには女の銕漿親が、特に前々からよく働いて居たからと解せられる。このハネ親も嫁聟入りの式には必ず列席し、其以後續いて父母と呼ばれ、その實子と兄弟の交りをさせる。上伊那地方では、死んでもハネ親とは一緒に暮らせるが、生みの親とは障子一重を隔てなければならぬといふさうだが(蕗原一ノ五)、誰が言ひ始めたものか、考へて見ると中々意味が深い。

カミオヤ 下野那須地方では、カネ親の外に更に髮親といふのを頼む。二組ともに必ず夫婦揃つた者でなければならぬ。上席はカネ親で次に髮親が列座して、花嫁に訓戒する。その席には花聟もともに列することになつて居た(郷土史話)。親と名のつくものを少しでも多く、こしらへて力にしようとした心持が窺はれる。

マユオヤ 肥前江ノ島には眉親といふのがある。近頃では婚後二三年もしてから剃るのだが、是にも仲人以外の親を頼むことが稀でなかつた。眉を剃らぬ者が多くなつて此親はもう亡びようとして居る。

第十一

オヤガハリ 伯耆米子附近では、婚姻の日の後見をする役に頼む親を、女の方のみカナ親・カナ娘と謂ひ、男の側の親は名附け親、又は親方とも親代りとも謂ふさうである。其親代りも成年の頃に契約して置き、當日は聟入りに同行し、嫁を迎へに行つてくれる。能登の穴水では男の子の元服、女の子の齒黒めに親になる者をオヤダイと謂ひ、此祝にも贈り物をする。是も多分は聟入り嫁迎へに同行してくれるのであらう。生みの親が是非とも代りを頼まなければならなかつた理由は、私は性の禁忌だらうと解して居る。他の事務には何でも口を出せるが、親が我子の配偶選擇に干與することは因習が許さなかつたのである。現在は既にその反對の傾向が強くなつて居るが、事實なほ此問題に觸れることは、實の親子の間では可なり苦痛である。カリオヤの必要の此際に認められたのは、必ずしも未來の利害の打算からではなかつたと思はれる。

ナカウドオヤ 仲人を親に準じて大切にする風習は、現代の大都市にも見られ、其爲に出來るだけえらい人を物色することも流行であるが、その仲人は常に本當の奔走者ではない。この方には禮をしたり早くいゝ加減に手を分つて、名義の仲人のみ親にするのは、よほど亦ハネ親の方と似て居る。村の小さな家ではさう何段もの橋かけが無く、世話も引受けも一手にする故に、是がオヤコの附合ひとなるので、中には死んだ時の見送りは勿論、里と同列に子祝などの贈遺をする例もある。

ヤドオヤ 青年男女の宿は今では多く衰へ、たま/\男子ばかりには殘つて居ても、もう婚姻の世話まではせぬ親が多くなつたが、それでも若者は最もその宿親を尊信し、むつかしい問題は是へ持込むだけで無く、親が進んで一肩入れてやり、又裁決しなければならぬ紛紜は多く、その大半は女出入りにからんで居た。仲人といふ語のまだ無かつた頃から、宿親は當然の仲人親であり得たのである。或は既にこの組織は無くなつても、何か障碍のあるたびに、臨時にさういふ若者の相談相手になる人を見つけようとする。甲州などの村々の親分は、以前の任務の大半は、好いたどうしを夫婦にしてやることであつた。宿親が一生交際せられるやうに、この親分子分もそれからは永く續いた。或は宿親を立てない若者宿もあるが、その場合は年長の膽力ある者が、自然に仰がれて若者頭の地位をしめ、又仲人親に近い職分をつとめた。斯ういふ場合には宿子仲間、即ち兄弟分の多數の意向が、暗々裏に背後の力になつて居たから、判斷と處置とを誤ることが少なかつたかと思ふ。

第十二

ヨリオヤ 人が生れ在所の外に出ずにしまつた場合は、親はもう此以外に無くてもよかつたが、一たび世間に出て生計を新たにするとなると、今まであつた親は遠くしてたより難く、爰に第三期の親方取りは必要が生じて來る。近世種類を増加した親方が、多くは都市のものだつたことは此理由からである。桂庵や職業紹介所も親切であつたか知らぬが、是は就職以前の生活までは見ついでくれない。だから貧困の者はもう一段と有力な庇護者を必要とするやうになるのである。以前の勞働者の寄場には親があつた。大きな權能を以て意の如く人を働かせる代りに、特殊の用途のある者は可なり永くたゞ養つてくれた。人入れ稼業などといふ侠客の家に、無頼の命知らずが子分となつて寄食したのも其爲で、弊ばかり多くはなつたが他所の者の集まつて來る土地では、無くてはならぬ制度だつたといへる。是が複雜に變化して鷄鳴狗盜、今日の制御し難い幾つかの團體は生れたのである。

ワラヂオヤ 寄親といふオヤは田舍にもある。是と都府にある同名のものとを比べて見ると、大よそは其成長の經路がわかる。村の方の特徴は第一に外から來て住まんとする者の少ないこと、第二には勞務の種類が幾らもなくて、すぐにも仕事があり、さう大きな親方によつて庇護せられる必要の無いことである。信州には草鞋親といふ言葉がある。是だけでは不明だが日本の全領土に亙つて、他處から村に入つた者の先づ落着いた家を、草鞋脱ぎ場と謂ひ又濡れ草鞋と謂つて居るのを見ると、其意味は隱れた所が無い。濡れ草鞋は即ち漂浪者の生涯である。それを脱がせて村民竝みにしてくれようといふ引受人があれば、是を親と頼むのは自然の情でもあり、又必要なる順序でもあらう。

ナゴオヤ 前の名附け親に對する名子とは、日本では一般に保護者を持つ農勞働者を名子と謂つて居た。その名子の起りは獨立農の零落、奴婢の後裔などと色々あらうが、親の無い子や凶年に養ひ兼ねた子供を、小さい時から家に養つて、働きぶりによつて家を持たせ土地を預けて、主從のやうな關係を新たに作ることもあつた。豐後の玖珠郡ではさういふ名子の親方を、特に名子親と謂つて居る。オヤコは只單なる相互扶助よりも、寧ろ斯ういふ勞働組織に伴なふものゝ方が、古いのでは無いかと私は思つて居る。

タスケオヤ 斯ういふ名の親は、古くからも少しはあつたか知れぬが、現代は益種類を増加しようとして居る。昔の助け親は孤兒が救はるゝとか、道に飢ゑ海に漂うて居たのが連れて來られるとか、事實命の親といふやうなのに限られて居たのが、近世になると喧嘩を仲裁してもらつたり、借金を片付けてもらつたり、乃至は失業の苦しみを濟うてもらふといふやうな、小さな助け親が幾らも出來る。恩を施してやがては報謝を求めようとするやうなけちな親方が、國の政治を蠧毒するのも、根本にはこの歴史的なるオヤコの義理を基礎にして居るのである。

ショクオヤ 職親の歴史は比較的古いが、その中では土方とか坑夫とか、又は露店商などいふものに特別の組織が出來て居る。しかし其他の色々の職人でも、又は今少し高尚な藝術でも、其名が無いばかりで良いにつけ惡いにつけ、親子兄弟分の感覺で繋がれて居らぬものは無いといつてよい。社會の倫理の是によつて、公々然と制限を受けて居ることは、もしも認めない者があつたら到底この時世は説けないだらう。

結論

 親方が最初から吉凶歳時の往訪や、贈遺交換などを繁瑣にする爲だけに、設けられたもので無いことは此言葉の用法からでもわかる。我々のよく使ふ普通のオヤカタは、職人の頭のことだけれども、江戸期の文獻によれば商家の主人も、手代丁稚等の親方であり、武家でも奉公人は失禮で無しに、抱へ主を親方と呼んで居る。東北では地主の大きいのも親方であると共に、農家の亭主を雇人がさういひ、更に全國に亙つて總領の兄を、親方と謂つて居る例は一ぱいである。嫡子が一家の農作業を、指揮する權能を付與せられて居た結果と考へられる。オヤコが一つの共同勞働團で無かつたら、親を認める必要はもと起らなかつたのである。一つの場合はカイナリオヤ、即ち人爲の親の最も自然に近いものにシウトオヤがある。此語の本來の意味はまだ誰も考へて居らぬ樣だが、洽ねく地方の語を調べて比較して見たら、恐らく是が勞働から出た名であることが判るであらう。現在は信濃の下水内郡などに、舅をシゴトヂッサ、姑をシゴトバアサと謂ふ例がある。即ち聟は其家から働く女をつれて行く代りに、此縁によつて妻の家の勞働の、一部分を負擔して居た名殘かも知れぬのである。近世は家々の生産が孤立し、オヤコの間にも協力の機會は少なくなつたが、それでも家作りとか山伐りとか、其他臨時の大作業だけには、出て行つて大きな手助けをして居る。個人の知能が今少し低かつた時代には、中心に一人の「敬ふべき者」の存在を、必要としたことは疑ひが無く、それが又武家としての軍隊編制の、日頃からの練習ともなつて居たかと思ふ。家の分裂といふことは少なくとも農業山村に取つては、至つて近代の變化に他ならなかつた。しかもさういふ再合同をせずとも、各自が自立して行かれる多くの條件が具はつて、人はたゞ經濟以外の目途の爲だけに、主として今までの團結感の、ある部分だけを保存しようとしたかと思はれる。死んで墓場に行くときの伴の數、もしくは年に何度といふ身祝ひの日に、同じ飮みもの食ひものを共にする者が、多い少ないなどは何でもないことのやうだが、我々は只この無形の滿足の爲にも、自ら所望して色々の親方となり、澤山の子分契約子を集めるのに努力した。だから是がもし社會上の地位を築き、政治の力を養ふに便だとわかると、次に更に如何樣の種類の親方制度を發明するか知れたものでない。日本がまだ純乎たる個人主義の國に、なり切つて居ないといふことは是で明らかになつた。この上は弊害を警戒してそれが惡者によつて濫用せられるを防ぐべきである。前車の覆轍は既に眼前に横たはつて居る。博徒の子分は理非を辨へずに、ひたすらに親方の指揮に服從する。それがある故にこの古來の慣行を、けしからぬものだと斷定するは過ぎて居る。

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