星女郎

3話 星女郎(3)

6,678字 約13分 2007年8月1日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「ごもっともですね。」

 ちとこれが不意だったか、先達は、はたと(つま)って、(くすぐっ)たい顔色(がんしょく)で、

痛入(いたみい)ります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」

 境は心着いて、気の毒そうに、

「いいえ、いいえ。」

「何、(てまえ)もその気で仰有(おっしゃ)ったとは存じませぬがな、はッはッはッ。

 笑事(わらいごと)ではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓(こたつやぐら)(また)いだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番突立(つった)てておこう了簡(りょうけん)

 (すすき)の中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが(ささ)りません。えいと杖の(さき)()ねる内に、何の花か、底光りがして(つや)を持った黄色いのが、右の突捲(つきまく)りで、(すすき)なりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」

「おお!」

「得も言われぬ()(におい)がしました。はてな、あの一軒家の戸口を(のぞ)くと、ちらりと見えた――や、その艶麗(あでやか)なことと申すものは。――

 時ならぬ月が(ひさし)から()と出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。

 必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服(きもの)の色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、(てまえ)の方はただ(さっ)と白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝(まっくらさんぽう)、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合(ぐあい)が、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。

(鬼じゃ、)

 と、(てまえ)一つ大声を上げました。

(鬼じゃ、鬼じゃ。)

 と、こうぬっと腕を突張(つっぱ)った。金剛杖(こんごうづえ)を棄置いて、腰の(すわ)らぬ高足を《どう》と踏んで、躍上(おどりあが)るようにその前を通った、が、可笑(おかし)い事には、対方(さき)女性(にょしょう)じゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告(なのり)慇懃(いんぎん)になりましてな。……

(鬼でござる。)

 と夢中で(わめ)いて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――

 処で、先刻の不調法、」

 と息を()き、

「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細(しさい)はこうでござります――が、さて同一(おなじ)人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺(あなた)を前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方(こなた)こそ異形を扮装(いでたち)をしましたけれども、彼方(あなた)は何にせよ女体でござる。風説(うわさ)の通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好事(ものずき)な御令嬢が住居(すまい)いたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁出(にげだ)しましても()さそうなものじゃったに……

 ……と申すがやはり、貴辺(あなた)にお目に(かか)りましてからの分別で。ぱっと美しいもので目が(くら)みました途端には、ただ我を忘れて、

(鬼じゃ。)

 と(こぶし)を握りました。

 これだけでは、よう御合点はなりますまいで、(てまえ)のその驚き方と申すものは、変った処に艶麗(あでやか)な女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山気(さんき)の凝って鼠色の(もや)のかかりました一軒家、廂合(ひあわい)から白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい――いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。」

       十二

「分りました。」

 と三造は衣紋(えもん)を合わせて、

「何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。」

「御存じかな。」

「たびたび通って知っています。」

「ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋(かぎや)と申したのが焼残っておりますが。」

「鍵屋、――二軒目の。」

 と云って境は俯向(うつむ)いた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、(もと)来た(ふもと)へ引返そうかとも迷ったのである。

 が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心が(きま)った。

 様子は先達にも見て取られて、

「ええ、鍵屋なら、お(あが)りになりますかな。」

「別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。」

 と云って、別離(わかれ)の会釈に(つむり)を下げたが、そこに根を(はや)して、傍目(わきめ)()らず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。

「悪いんですか、参っては。」

 山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右瞻左瞻(とみこうみ)て、

「お待ち下さい。血気に(はや)り、我慢に推上(おしのぼ)ろうとなさる御仁なら、お肯入(ききい)れのないまでも、お留め申すが(てまえ)年効(としがい)ではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまいで、必ず御無用とは申上げん。

 峠でその婦人を見るものは……云々(うんぬん)と恐るべき風説はいたすが、現に、(てまえ)とても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことお(いで)(よろ)しい。」

「ああ、それはどうも難有(ありがた)い。」

 と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。

「さ、さ、」

 先達も立構えで、話の(うち)に《むし》って落した道芝の、帯の端折目(はしょりめ)に散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、(あお)ぐように(はた)いてくれた。

「ところで、」

 顔を振って四辺(あたり)を見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。

「この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。――急ぎの旅ではなかろうで、手前お(まも)りをいたす、(ふもと)御堂(みどう)で御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰も()らず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。

 (てまえ)は、急いで、竹の橋まで(くだ)りますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴辺(あなた)はまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶を(わか)して相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。

 就きましては、」

 かさかさと胸を開いて、仰向(あおむ)けに手に据えた、鬼の面は、紺青(こんじょう)の空に映って、山深き(こみち)(かすか)なる光を放つ。

「先生方にはただの木の面形(めんがた)でござれども、現に(てまえ)が試みました。驚破(すわ)とある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。」

 三造は猶予(ためら)いつつ、

「しかし、御重宝、」

「いや、御役に立てば本懐であります。」

 すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手に(すず)が鳴った。

「御無事で、」

「さようなら。」

 (ひぐらし)の声に風(さっ)と、背を押上げらるるがごとく境は(こうべ)を峠に上げた。雲の峰は(へり)浅葱(あさぎ)に、鼠色の牡丹(ぼたん)をかさねた、頂白くキラキラと黄金(こがね)(すじ)の流れたのは、月がその(うち)に宿ったろう。高嶺(たかね)の霞に咲くという、金色(こんじき)(すみれ)の野を、天上(はる)かに仰いだ風情。

西山日没東山昏(せいざんひはぼっしてとうざんくらし)旋風吹馬馬蹈雲(せんぷううまをふきうまくもをふむ)。――

 低声(こごえ)に唱いかけて、耳を澄ますと、鐸の()(こずえ)(ゆす)って、薄暗い谷に沈む。

       十三

女巫澆酒雲満空(じょふさけをそそぐくもくうにみつ)玉炉炭火香鼕鼕(ぎょくろたんかにおいとうとう)海神山鬼来座中(かいしんさんきざちゅうにきたる)紙銭鳴風(しせんしつそつせんぷうになる)相思木帖金舞鸞(そうしぼくちょうきんぶらん)

蛾一重一弾(さんがいっそうまたいったん)呼星召鬼杯盤(ほしをよびおにをめしはいばんをきんす)山魅食時人森寒(さんみくらうときひとしんかんす)

 境の足は猿ヶ馬場に(かか)った。今や影一つ、山の()に立つのである。

終南日色低平湾(しゅうなんのにっしょくわんにひくし)神兮長有有無間(かみやとこしなえにうむのあいだにあり)

 (こし)の海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北国(ほっこく)の山々は、皆黄昏(たそがれ)の袖を連ねた。

「神兮長に有無の間にあり。」

 胸を見ると、背中まで抜けそうな(まなこ)(かっ)と、鬼の面が馬場を(にら)んで、ここにも一人神が(たたず)む、三造は身自から魔界を辿(たど)(おもい)がある。

 峠のこの故道(ふるみち)は、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、(あし)(しげり)かと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、――それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目標(めじるし)の一軒家は(もや)(かか)らぬのに屋根も分らぬ。

 場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈迷(ふみまよ)う路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶予(ためら)うて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……

 ひょっこり肌脱の若衆(わかいしゅ)が、草鞋穿(わらじばき)で出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさと(あら)われそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目前(めさき)幻影(まぼろし)に出るものかも知れぬ。

 現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る――通ると……その形が幻を(つか)ねた雲になって、(さっ)と一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりと()いて来て、ふいと()くと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずに(じっ)と留まって、(すそ)の消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。

 またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他愛(たわい)もなく、形なく力もなく、袖を透かして背後(うしろ)へ通る。

 三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、(すすき)の海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。

「ああ、そうか……」

 山伏は大跨(おおまた)で、やがて(ふもと)へ着いた時分、と、足許(あしもと)の杉の(こずえ)にかかった一片(ひとひら)の雲を透かして、里可懐(なつかし)く麓を望んだ……時であった。

 今昇った坂一畝(ひとうね)(さが)た処、後前(あとさき)草がくれの(こみち)の上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える――(ひとし)く雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いが(いろどり)があって、髪が黒く、(おもかげ)が白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、(ほっそ)りと(くぎ)って濃い。

 道は二町ばかり、間は(へだた)ったが、(かざ)せばやがて(てのひら)へ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長(おもなが)らしいのも想像された。

 同時に、その(かたわら)のもう一人、瞳を返して、三造は眉を(ひそ)めた。まさしく先刻の(ばば)らしい。それが、黒い袖の(ゆき)短かに、(しわ)の想わるる手をぶらりと、首桶(くびおけ)か、骨瓶(こつがめ)か、風呂敷包を一包(ひとつつみ)提げていた。

 境が、上から伸懸(のしかか)るようにして差覗(さしのぞ)くと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。

 (たしか)暗号(あいず)に違いない、しかも自分にするのらしい。

「ええ。」

 胸倉を取って小突かれるように、強く此方(こなた)(こた)えるばかりで、見るなか、()けか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横啣(よこぐわ)えにして飛びそうな、(いや)な手つきだとしみじみ感じた。

       十四

 その内に……婆の手の(かたわら)から(すすき)(なび)いて、穂のような手が動いた。(そっ)と招いて、胸を開くと、片袖を掻込(かいこ)みながら、(かいな)をしなやかに、その(すそ)のあたりを教えた。

 そこへ下りて来よ、と三造に云うのである――

 意味は(あきら)かに、しかも優しく、(うるわ)しく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?

 峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分(われ)にしか云うものが、婦人(おんな)の身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずん()けば何とする?

 すべてかかる事に手間(ひま)取って、とこうするのが魔が()すのである。――構わず()こう。

「何だ。」

 谿間(たにま)の百合の大輪(おおりん)がほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。(くびす)を廻らし、猛然と飛入るがごとく、(むぐら)の中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。

 山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋の(ふち)の底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲蛇(めくらへび)でまっしぐらに突いて出ると、(さっ)と開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真暗(まっくら)(そび)えたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一条(ひとすじ)濃い(もや)(かか)った、靄の下に、九十九谷(つくもだに)(はさ)まった里と、村と、神通(じんつう)射水(いみず)の二大川(だいせん)と、富山の(まち)が包まるる。

 さればこそ思い違えた、――峠の立場(たてば)はここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。

 紫に桔梗(ききょう)の花を織出した、緑は(せん)を開いたよう。こんもりとした(はて)には、山の()せた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹(おいき)の桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に(たたず)む。

 と見れば鍵屋は、(いしずえ)が動いたか、四辺(あたり)の地勢が露出(むきだ)しになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一(そう)頂に据えたるごとく、(おごそか)にかつ寂しく、片廂(かたびさし)をぐいと、山の()から空へ離して、(みよし)の立った形して、立山の波を漕がんとす。

 境は可懐(なつかし)げに進み寄った。

「や!」

 その門口(かどぐち)に、美しい清水が流るる。いや、水のような(つま)(こぼ)れて、脇明(わきあけ)の肌ちらちらと、白い撫子(なでしこ)乱咲(みだれざき)を、帯で結んだ、浴衣の地の(うす)お納戸。

 すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の(かいな)力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく(つやや)かな(びん)を支えた、前髪を透く、清らかな耳許(みみもと)の、(かすか)()るる俯向(うつむ)(なり)、膝を折って打伏した姿を見た。

 冷い風が、()と薫って吹いたが、キキと鳴く(いたち)も聞えず、その婦人(おんな)蝦蟇(がま)にもならぬ。

 耳が(かっ)と、目ばかり()える。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、(くだん)の姿ばかりは、がっくり伸ばした(うなじ)の白さに、毛筋が揃って、(おく)れ毛のはらはらと(そよ)ぐのまで、瞳に映って透通る。

 これを見棄てては駆抜けられない。

「もし……」

 と言いもあえず、後方(あと)退(さが)って、

「これだ!」

 とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、(つッ)ぱじけて、

「……顔を見ると……のっぺらぼう――」

 と思わずまた独言(ひとりごと)。我が声ながら、変に(かす)れて、まるで先刻(さっき)の山伏の(おん)

「今も今、手を()った……ああ、(しき)りに留めた……」

 と思うと、五体を取って緊附(しめつ)けられる心地がした。

       十五

 けれども、まだ(さいわい)俯向(うつむ)けに投出されぬ。

「触らぬ神に(たたり)なし……」

 非常な場合に、極めて普通な(ことわざ)が、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出(ふみだ)して去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。

 境は後髪(うしろがみ)を取って引かれた。

 洋傘(こうもり)()いて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた(なが)めた。――今しがた、ちぎれ雲の草を(かす)めて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを(よぎ)った事は(たしか)である。

 確で、しかもその顔には、この鬼の面を(かぶ)っていた。――時に、門口へ(あら)われた婦人(おんな)の姿を鼻の穴から(のぞ)いたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために(すくな)からず驚かされた。

 おお、それだと、たとい須磨(すま)に居ても、明石(あかし)に居ても、姫御前(ひめごぜ)は目をまわそう。

 三造は心着いて、夕露の玉を(ちりば)めた女の寝姿に引返した。

「鬼じゃ。」

 試みに山伏の(ことば)を繰返して、まさしく、(おびや)かされたに相違ないと思った。

「鬼じゃ。……」

 と一足出てまた(つぶや)いたが、フト今度は、反対に、人を(いまし)むる山伏の声に聞えた。(なか)れ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。

 境は再び逡巡した。

 が、(じっ)(みつ)めて立つと、(きぬ)の模様の白い花、撫子の(おもかげ)も、一目の時より際立って、伏隠(ふしかく)れた(はだ)の色の、小草(おぐさ)(から)んで乱れた有様。

 手に触ると、よし蛇の(きぬ)とも()らば()れ、熱いと云っても月は(いだ)く。

 三造は重い(ひさし)の下に入って、背に盤石(ばんじゃく)を負いながら、やっと(おんな)の肩際に(しゃが)んだのである。

 耳許はずれに()(のぞ)く。俯向(うつむ)けのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を(かざ)しもしなかったが、(びん)の毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、(かすか)呼吸(いき)がありそうである。

令嬢(じょうさん)。」

 とちょっと低声(こごえ)に呼んだ――(つま)はずれ、帯の(さま)、肩の様子、山家(やまが)の人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。

「嬢さん、嬢さん――」

 とやや心易げに呼活(よびい)けながら、

「どうなすったんですか。」

 とその肩に手を置いたが、花弁(はなびら)に触るに(ひと)しい。

 三造は四辺(あたり)を見て、つッと立って、門口から、真暗(まっくら)()の内へ、

「御免。」

「ほう……」

 と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って(こだま)と知れた。自分の声が高かった。

「誰も居ないな。」

 美女の姿は、依然として足許に(よこた)わる。無慚(むざん)や、片頬(かたほ)は土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目(むすびめ)高う根が(ゆる)んで、(かんざし)の何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。

 しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可厭(いや)な婆と二人居て手を()ったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等(かれら)怪しき(やから)が、ここにかかる犠牲(いけにえ)のあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て(さまたげ)しょう。早く助けずば、と急心(せきごころ)(かっ)となって、(おのの)く膝を()いて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした(かいな)が柔かに動いて、脇明(わきあけ)(すべ)った手尖(てさき)が胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに(いだ)き上げると、仰向(あおむ)けに綿を()せた、胸がふっくりと咽喉(のど)が白い。カチリと音して、(くし)が鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後(うしろ)(ほう)った。

「山伏め、何を言う!」

       十六

目次に戻る

目次