2話 貴婦人(2)
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美女は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而して、沢が其の故郷の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年崇拝する、都の文学者某君の許へ、宿望の入門が叶つて、其のために急いで上京する次第は、何故か、天機を洩らすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
蔵屋の門の戸が閉つて、山が月ばかり、真蒼に成つた時、此の鍵屋の母娘が帰つた。例の小女は其の娘で。
二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処へ寝た――丁ど真夜中過ぎである。……
枕を削る山颪は、激しく板戸を挫ぐばかり、髪を蓬に、藍色の面が、斧を取つて襲ふかともの凄い。……心細さは鼠も鳴かぬ。
其処へ、茶を焙じる、夜が明けたやうな薫で、沢は蘇生つた気がしたのである。
けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕ひして、行燈を提げて、便のないほど堂々広い廊下を伝つた。
持つて下りた行燈は階子段の下に差置いた。下の縁の、ずつと奥の一室から、ほのかに灯の影がさしたのである。
邪な心があつて、ために憚られたのではないが、一足づゝ、みし/\ぎち/\と響く……嵐吹添ふ縁の音は、恁る山家に、おのれ魅と成つて、歯を剥いて、人を威すが如く思はれたので、忍んで密と抜足で渡つた。
傍へ寄るまでもなく、大な其の障子の破目から、立ちながら裡の光景は、衣桁に掛けた羽衣の手に取るばかりによく見える。
ト荒果てたが、書院づくりの、床の傍に、あり/\と彩色の残つた絵の袋戸の入つた棚の上に、呀! 壁を突通して紺青の浪あつて月の輝く如き、表紙の揃つた、背皮に黄金の文字を刷した洋綴の書籍が、ぎしりと並んで、燦として蒼き光を放つ。
美人は其の横に、机を控へて、行燈を傍に、背を細く、裳をすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻を肩から羽織つて、両袖を下へ忘れた、双の手を包んだ友染で、清らかな頸から頬杖支いて、繰拡げたペイジを凝と読入つたのが、態度で経文を誦するとは思へぬけれども、神々しく、媚めかしく、然も婀娜めいて見えたのである。
「お客様ですか。」
沢が、声を掛けようとして、思はず行詰つた時、向うから先んじて振向いた。
「私です。」
「お入んなさいましな、待つて居たの。屹と寝られなくつて在らつしやるだらうと思つて、」
障子の破れに、顔が艶麗に口の綻びた時に、さすがに凄かつた。が、寂しいとも、夜半にとも、何とも言訳などするには及ばぬ。
「御勉強でございますか。」
我ながら相応はない事を云つて、火桶の此方へ坐つた時、違棚の背皮の文字が、稲妻の如く沢の瞳を射た、他には何もない、机の上なるも其の中の一冊である。
沢は思はず、跪いて両手を支いた。やがて門生たらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。
時に、見返つた美女の風采は、蓮葉に見えて且つ気高く、
「何うなすつたの。」
沢は仔細を語つたのである……
聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、
「頼母しいのねえ、貴下は……えゝ、知つて居ますとも、多日御一所に居たんですもの。」
「では、あの、奥様。」
と、片手を支きつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。
「まあ、嬉しい!」
と派手な声の、あとが消えて、じり/\と身を緊めた、と思ふと、ほろりとした。
「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走しませう……めしあがれ。」
と云ふ。最う晴やかに成つて、差寄せる盆に折敷いた白紙の上に乗つたのは、たとへば親指の尖ばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの……
「栃の実の餅よ。」
同じものを、来る途の爺が茶店でも売つて居た。が、其の形は宛然違ふ。
「貴下、気味が悪いんでせう……」
と顔を見て又微笑みつゝ、
「真個の事を言ひませうか、私は人間ではないの。」
「えゝ!」
「鸚鵡なの、」
「…………」
「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本の先生を、最う其は……贔屓な夫人があつて、其の方が私を飼つて、口移しに餌を飼つたんです。私は接吻をする鳥でせう。而してね、先生の許へ贈りものになつて、私は行つたんです。
先生は私に口移しが出来ないの……然うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。
私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻をさせるために生れました。而して、遙々東印度から渡つて来たのに……口惜いわね。
其で居て、傍に置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。
雀や燕でないのだもの、鸚鵡が町家の屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠つて、先生の小説ばかり読んで居ます。
貴下、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」
と不思議な美しい其の餅を、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。
で、ぐいと引寄せられた。
「恁うして、さ。」
と、櫛巻の其の水々とあるのを、がつくりと額の消ゆるばかり、仰いで黒目勝な涼い瞳で凝と、凝視めた。白い頬が、滑々と寄つた時、嘴が触れたのであらう、……沢は見る/\鼻のあたりから、あの女の乳房を開く、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女の顔を見ながら、甘さ、得も言はれぬ其の餅を含んだ、心消々と成る。山颪に弗と灯が消えた。
と婦の全身、廂を漏る月影に、たら/\と人の姿の溶ける風情に、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅に透通るのを覚えたのである。
「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」
東雲の気爽に、送つて来て別れる時、つと高く通しるべの松明を挙げて、前途を示して云つた。其の火は朝露に晃々と、霧を払つて、満山の木の葉に映つた、松明は竜田姫が、恁くて錦を染むる、燃ゆるが如き絵の具であらう。
……白い鸚鵡を、今も信ずる。