湯島詣

41話 胸騒 四十一

1,177字 約2分 2018年11月4日 公開

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「おや、おかしいねえ、」と吃驚(びっくり)して(きっ)となったが、蝶吉は出がけに人形の顔を掻巻(かいまき)の襟で隠しておいたのに気が付いた。

「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、(おもかげ)だったかしら。」

 思わず悚然(ぞっ)として、あたりを見たが、莞爾(にっこり)して、

「ちょいと、()ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んで(こたえ)がない。

「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、恐々(こわごわ)掻巻を上げて見ると、牡丹(ぼたん)のように裏が返った、敷蒲団(しきぶとん)との間には、紙一枚も無いのである。

 蝶吉は我知らず、

(ふう)ちゃん、」と声を立てて、真直(まっすぐ)に跳起きた。

「はてな、」机に()りかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中瑞林寺(ずいりんじ)の一間に(ぐう)する、学士神月梓である。

 衣帯正しく端然として膝に手を()いて(じっ)ともの思いに沈んだが、(かり)ものの経机を(そば)に引着けてある上から、そのむかしなにがし殿(でん)の庭にあった梅の古木で刻んだという、(かれ)愛玩(あいがん)香合(こうごう)を取って、一捻(いちねん)して、

「こんなこッちゃあ()かん。」と自から(たしな)めるがごとく(つぶや)いて、洋燈(ランプ)を見て、再び机に向った時、()が広いので灯も届かず、薄暗い古襖(ふるぶすま)の外に(しわぶ)く声して、

「先生、御勉強じゃな、」といいながら静かに入ったのは、院の住職律師雲岳(うんがく)である。

 学士の前に一揖(いちゆう)して、

「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、暫時(ざんじ)あれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の貴方(あなた)の御声というものは、実に白蓮(びゃくれん)の花に露が(まろ)ぶというのか、こうその渓川(たにがわ)の水へ月が、映ると申そうか、いかにも(たと)えようのない、清い、澄んだ、冴々(さえざえ)した、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細い(なさけ)ないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。

 梓はト胸を突いた様子で、

「希代なことがあるんですよ、お上人(しょうにん)、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞き()れるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を一雫(ひとしずく)ずつ飲むようで、()が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けて()くようで、月の雫で洗ったようです。それでいて(さわや)かな()い心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たい(きぬ)の上から胸を(おさ)えた、人にも逢わず引籠(ひきこも)って、二月(あまり)、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、(つや)を増して、品()(やせ)ぎすな俤は、見るともの(すご)いほどである。

胸騒(むなさわぎ)ッていうんでしょう。」

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