44話 鶯 四十四
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「……一旦縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、疚しいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、表向縁を切りかたがた、あの男は手切を取ると言われても構わない。芸妓を落籍せると隠さずにいって、金子を取って、それで、勿論二度とかかりあいはしない意じゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、可愧いんですが言います。実はそれを心楽みにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。
先刻私を尋ねて来た、品の可い老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めている取しまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、怪我にも仰有りはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。貴方が内を出てからは、鬱々として人にもお逢いなさらない。
医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性に罹って、三日も四日も、七日ばかり一目もお寝みなさらない事がある。悩みが一通じゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が跫音を立て、それがために目が覚めたといって腹を立って、小刀を投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。
この頃じゃ、まるで一室の外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。
承れば大分御謹慎で、すっかりお品行も治ったそうだって、そういうことでございました。
随分片意地な老女が、我を折っていましたから嘘じゃあありますまい。
成程それではあんな夫人でも私をそれまでに思ってくれるのが解りましたが、こうなった上のこと。
謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の引籠って身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。
ときっぱりいって帰しましたよ。」
「ふう、」と上人は頷いて、じっと考え、
「いや、段々お心が静まって来て、好い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、
「それでさっぱりとなされたかな。」
「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金の蔓があって、一式のことに落籍して素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底に温があったのを、断然、使を帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに棄身になった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう孤島に独り残されたようで心細い、胸騒のするのはそのために違いないんです、お可愧いね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。
「ははあ、いや、お若い中また余り悟り澄さないのも宜しかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、呵々と笑って、行きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」
梓はまた机に向ったが、木の角では、心の跳るのが押え切れず、胸騒がする、気が鬱ぐ、もう引入れられそうで耐えられなくなって、香の薫に染みた不断着をそのまま、かかる時、梓が行くのは必ず湯島。