湯島詣

44話 鶯 四十四

1,381字 約3分 2018年11月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「……一旦(いったん)縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、(やま)しいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、表向(おもてむき)縁を切りかたがた、あの男は手切(てぎれ)を取ると言われても構わない。芸妓(げいしゃ)落籍(ひか)せると隠さずにいって、金子(かね)を取って、それで、勿論二度とかかりあいはしない(つもり)じゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、可愧(はずかし)いんですが言います。実はそれを心(たのし)みにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。

 先刻(さっき)私を尋ねて来た、品の()い老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めている(とり)しまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、怪我(けが)にも仰有(おっしゃ)りはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。貴方(あなた)が内を出てからは、鬱々(うつうつ)として人にもお逢いなさらない。

 医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性に(かか)って、三日も四日も、七日(なぬか)ばかり一目もお(やす)みなさらない事がある。悩みが一通(ひととおり)じゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が跫音(あしおと)(たて)て、それがために目が覚めたといって腹を立って、小刀(ナイフ)を投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。

 この頃じゃ、まるで一室(ひとま)の外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。

 承れば大分御謹慎で、すっかりお品行(みもち)も治ったそうだって、そういうことでございました。

 随分片意地な老女が、()を折っていましたから嘘じゃあありますまい。

 成程それではあんな夫人(ひと)でも私をそれまでに思ってくれるのが(わか)りましたが、こうなった上のこと。

 謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の引籠(ひきこも)って身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。

 ときっぱりいって帰しましたよ。」

「ふう、」と上人は(うなず)いて、じっと考え、

「いや、段々お心が静まって来て、()い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、

「それでさっぱりとなされたかな。」

「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金の(つる)があって、一式のことに落籍(ひか)して素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底に(あったまり)があったのを、断然、使(つかい)を帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに棄身(すてみ)になった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう孤島(はなれじま)に独り残されたようで心細い、胸騒(むなさわぎ)のするのはそのために違いないんです、お可愧(はずかし)いね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。

「ははあ、いや、お若い(うち)また余り悟り(すま)さないのも(よろ)しかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、呵々(からから)と笑って、()きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」

 梓はまた机に向ったが、木の角では、心の(おど)るのが押え切れず、胸騒がする、気が(ふさ)ぐ、もう引入れられそうで(こた)えられなくなって、(こう)(かおり)に染みた不断着をそのまま、かかる時、梓が()くのは必ず湯島。

目次に戻る

目次