湯島詣

9話 三両二分 九

1,259字 約3分 2018年11月4日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

「聞きねえ、婆さん、御前(おまえ)なんざあ上草履で廊下をばたばたの方だったから、情人(いろ)達引(たてひ)くのに、どうだ、こういうものは気が付くめえ。豪儀なもんだぜ、こら、どうだ素晴しいもんじゃあねえか。」

 (かしら)籐表(とうおもて)を打った、繻珍(しゅちん)の鼻緒で、桐の(まさ)という、源次が私生児を引放(ひっぱな)して、片足打返して差出した。

「ねえ、こら。」と(ひっ)くり返して鼻緒を(つか)んでちょっと(ひね)る。

「どうしたんだね、」と婆さんは膝に手を乗せて(うずく)まったまま呆れて見ている。

 (かしら)大袈裟(おおげさ)に、

「どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を踏鳴(ふみなら)すんだぜ、お前も知ってるだろう、一昨年(おとどし)仁和加(にわか)狒々(ひひ)退治の武者修行をした大坂家の抱妓(かかえ)な。」

「蝶吉さんかね。」

「うむ、この節あ数寄屋町に居らあ、あの(はね)ッ返りめ、お先走りで、何でも来いだから、仁和加の時も、一本引ッこ抜いて使うんだからッて、それ痛い目に逢わないだけにして、本式に習いたいというので、お前ンとこの藤さんに仕込んでもらったな。

 面小手で竹刀(しない)引担(ひっかつ)いでお前、稽古着に、小倉の襠高(まちだか)か何かで、(ほお)の木歯を引摺(ひきず)って、ここの内へ通っちゃ、引けると仲之町を縦横十文字に(なら)して歩いた。ここにおわします色男も鳴すことその通り。

 それがだな。あのお(ちゃっ)ぴいめ、ついこないだまで竹馬に乗ったり、学校の生徒に引張(ひっぱ)り出されちゃあ田圃(たんぼ)でぶらんこをしていたっけが、どうだい、一番この男とおっこちゃあがって、それ、お歳玉(としだま)内証(ないしょ)だよ、と()りゃあがったんだとよ。驚くじゃあねえか、この下駄だ。」といって、また(ひっ)くり返した。(かしら)(へッつい)の前に両足を拡げながら、片手で抜取って銀煙管(ぎんぎせる)(くわ)え、腰なる両提(りょうさげ)ふらふらと(たばこ)を捻る。

「おや、」といったきり、婆さんはかねてその蝶吉というのを知ってるほど、おっこちたと()わるる男、すなわちこれなる源次郎のせめてそれだけでも()して頂きたい、目金を乗せた鼻の形と、(くだん)の下駄と(かわ)(がわ)見競(みくら)べて()せない顔附。

 (かしら)は悠然と煙を(ふか)して、

「何しろ素晴しいもんじゃあねえか、可恐(おそろ)しい。幾らだとか言ったっけな、んんどうだろう、うむ、豪儀な。」

 言いようが余り業々(ぎょうぎょう)しいので、取合う気もなかった婆さんも近々と目を寄せて、

「頭、こりゃ今の流行(はやり)かい。」と老いたる事をまじまじと言う。

 これを聞くと叱るがごとく、

「これ(くら)七戸前(ななとまえ)()めた口で、何だい、その言い(ぐさ)は、こう源坊、若い(うち)だぜ、年紀(とし)は取るもんじゃあねえの。ここに居る婆さんは、これでも仲じゃあ(くず)の葉といってその昔は売ったもんだ、ずうっとそれ、」

()しねえな、見っともない、」と(おだやか)微笑(ほほえ)んで目を(そら)した、もう仏に近いのである。

(もと)()で二朱ぐらいか、源坊、幾らだとかいったっけな、二両二分。」

「頭、三円、」といって(くだん)の鼻を仰向(あおむけ)にして(すま)す。

「ああ、三両二分か、何でも二分という(はした)だけは付いてると聞いたよ。そうか、三両二分か。ふ、豪儀なもんだ、ちょっとした碁盤より()が張ってら。格子戸で、二間なら一月分の店賃(たなちん)だ、可恐(おそろ)しい、豪傑な。」と熟々(つくづく)見ながら、うっかりしたか、下駄の(はら)で吸殻をとん。

 源次(あわただ)しく、

「頭、」

「ほい、これは。」

目次に戻る

目次