境界なき差別

3話

1,871字 約4分 2015年11月26日 公開

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 以上はいずれも差別のある二つの物を取って、その間に境界のないことを述べたのであるが、相手なしにただ一つの物について、その終点を調べてみても、またけっして判然たる境界はない。雲はそのもっとも好い例で雲の形は明らかに見えていながら、その周辺に判然たる境界線を見出すことはできぬ。昔の支那や日本の画では明らかな線をもって雲の輪廓を画いてあるが、実物を見れば、無論かかるものはない。富士山へでも登れば、自身が幾度か雲の中に入り、また雲から出るが、いつも知らぬ間に次第に出入するだけで、けっして今から雲に入るとか、いま雲を出たとかいい得るような判然たる境界はない。雲は掴え難いものの例としていつも引き合いに出される物ゆえ、これは特別であると考える人があるかも知れぬが、他の物でも理窟は全くこれと同じである。例えば紙の裁ち切った縁は一直線をなして、境界がきわめて判然してあるごとくに見えるが、これを千倍の顕微鏡で見れば、多数の繊維が入り乱れてあたかも竹藪のごとくであるゆえ、どこまでが紙の領分で、どこからが紙の領分以外であるか全く判然せぬ。それゆえ、もし人間が今より何千分の一か、何万分の一かのきわめて微細な身体を持っていたと想像すれば、紙の縁を通過するときには、あたかも普通の人間が、雲に出入するときと同様で、とうてい明瞭な境界を見ることはできぬであろう。地図を見れば島の周囲を明らかな沿岸線で示してあるが、実地浜辺へ出て見ると、浪が寄せては返しているゆえ、陸の領分がどこまで達し、どこで終るかを示すことはできぬ。かく境界の定められぬのは、空間に対してのみではなく、時間においてもそのとおりで、人の生命のごときも通常何年何月何日の何時何分に生れ、何年何月何日の何時何分に死んだというて、生れた時も、死んだ時も、おのおの明らかな一点のごとくにいうてはいるが、実際生れるにあたっては、生れ始めてから生れ終るまでの移り行きがあり、死ぬにあたっても、死に始めてから死に終るまでの移り行きがあるから、けっして時の一点を指して、これが生れた時、これが死んだ時と指し示すわけにはゆかぬ。電灯の(つまみ)(ひね)れば、その途端に光が現われ、またこれを捻れば、その途端に光が消えて、光っていた時の始め終りには確乎たる境界があるごとくに感ずるが、これもよく考えてみると、境界はない。電球内の細い線が微かに光り始めてから、十分の光を発するまでには、順々の移り行きがあり、光がわずかに弱り始めてから完全に消え終るまでの間にも順々の移り行きがあるゆえ、仮に七十年の人間の寿命を一日に縮め、一秒に対する時の長さの感じを今日の人間が一日に対する長さの感じと同様にしたと想像すれば、電灯が付いて明るくなるときにはあたかも夜が明けて朝となるのと同様な移り行きを感ずるであろう。また電灯が消えて、暗くなるときにはあたかも日が暮れて夜となるときと同様な移り行きを感ずるであろうから、とうてい明らかな境界を定めることはできぬに違いない。

 なお通常相対立させて用いている言葉の中には、実際対等でないものがいくらもある。例えば動と静というごときはその一で、世人は一般に動と静とを相反するものとして、その間に確かな境界があるごとくにみなしているが、よく考えてみると、動という中にははげしい動から、微かな動まで無数の階級があり、微かの極に達した所がすなわち静であるから、動と静とはけっして相対立せしむべき性質のものではなく、静はむしろ無数に変化のある動の中の一の特殊の場合とみなすべきものであろう。曲と直というのもこれと同様で、曲という中には、はなはだしい曲からきわめて微かな曲まで無限の変化があり、もっとも微かな曲がすなわち直であるゆえ、直はむしろ曲の中の一種ともみなせる。有と無との区別も、そのとおりで、有の方には明らかに有るのから微かに有るのまで無限の階級があり、その一方の端が無であるから、前と同じ筆法で論ずれば、無は当然有の中の一種と見ねばならぬ。また仮説と事実との関係もこれに似たもので、仮説の中には、すこぶる真らしからぬものから、よほど確からしいものまでさまざまの階級があり、その中のもっとも真らしいものを事実とみなしているに過ぎぬ。地球が丸いということも、地球が太陽の周囲を廻転するということも、今では事実とみなされているが、昔はただ仮説に過ぎなかった。今日といえども地球は丸くないと唱える人もあるが、その人から見れば、地球の丸いということは、事実でなくて、誤った仮説と考えられているであろう。

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