4話 四
読み方を変える
われらはつねづねかように考えるゆえ、いずれの方面を見ても、差別はあって境界はないというのが宇宙の真相であるごとくに感ずる。差別はあるが境界はないというのが宇宙の真相であるとすれば、ある差別をないと思うのも誤りであり、ない境界をありとみなすのも誤りである。差別のあることにのみ注意すると、とかく、境界のない所に境界ありと信ずる誤りにおちいりやすく、境界のないことにのみ注意すると、とかく、ある差別をもこれを無視するの弊におちいりやすい。されば何ごとを論ずるにあたっても、「差別はあり境界はなし」という根本の事実をつねに念頭から離さぬようにして、両方に注意せぬと、いずれか一方の誤りにおちいるを免れぬ。
さてかくのごとく、実際に境界のないものを捕えて、何故世人は一般に境界あるものと思い込むに至ったかというに、われらの考えによれば、これは、全く人類が言語を用いて思考するためである。元来、物の名は、他物と区別するために付けたものゆえ、ことごとく差別に基づいて名づけてあって、他に移り行く所などはしばらく度外視してある。虹の七色の名称などはすなわちその適例で、特徴の明らかに現われた部分の外には名は付けてない。地面のいちじるしく高まった所には何山という名を付け、地面の目立って広い所には何原という名を付けるが、その境界の漠然たることは当分構わずに置く。自分の身体について見ても、手とか腕とか肩とか頸とか、各部に名称は付けてあるが、その間に厳しい境は定めてない。しかし境界は定めてなくとも、各部に名が付けてありさえすれば、腕に怪我をしたとか、頸に腫物ができたとかいう日々の談話には何の差支えもない。実物を目の前に置いて調べるような学問を修める者は、物の名称とはすべてかかる性質のものであることを忘れる虞はないが、実物を離れて、ただ言葉のみをもって考える人々は、一つ一つの言葉に定義を下して、その内容の範囲を定め、隣りの言葉との間に繩張りをしてかからぬと思想の整理ができぬごとくに感じ、到る所に境界を造り、後にはかような境界が最初からあったもののごとくに思う癖が生じて、終には物と物との間にはかならず境界があると考えねば合点ができぬようになるとみえる。言葉と言葉との間の境界は畢竟行政上の区画のごときもので、整理の必要からいえば、是非ともどこかに定めねばならぬが、実物の方にはこれに相当する真の境界のないことをつねに忘れてはならぬ。土地の表面にはただ山川、高低があるだけで、何の境もない所へ、行政上の必要から、県の境、郡の境、町の境、村の境を設けるごとくに、実物にはただ差別があるばかりで、境界のない所へ、若干の言葉を割り振り、その間に縦横に繩を張って、一々の言葉の領分を定めたに過ぎぬが、実物を離れて、言葉のみを用いていると、繩張りのみに目が付いて、実物の方にもそこに判然たる境界があるかのごとくに思い込む癖が生じたのであろう。
また人間は指をもって物の数を算え、数に一二三四五とおのおの名称を付け、十は五の二倍、四は八の二分の一というように勘定し、長さ、広さ、重さをいい現わそうとするにあたっては、まず単位を定めて、その何倍とか、何分のいくつとかいう言葉を用いる。長さならば、里町間とか、丈尺寸とかいう単位を設け、何里の道とか、何尺の紐とかいうているが、一本の紐を見て、目分量でその長さを測るときには頭の中で、その紐を一尺ずつに境を付けて考える。万事かように頭の中で、切って考える癖が付くと、何物を見ても、これを単位の集合であるとみなし、単位と単位との間には、判然たる境界があるごとき感じを有するに至りやすい。一昼夜を二十四時間に分け、地球の周囲を三百六十度に分けるなどは、皆境界のない所へ便宜上、境界を造ったものであるが、このことは誰にも明瞭であるにかかわらず、始終用い慣れ見慣れると、その境界が真にあるかのごとき心持ちになって、地図や地球儀を見ても、経度緯度の線が縦横に画いてないと、何となく間が抜けたごとくに感ずる。赤道の所にはやはり、太い線を引いて、北半球と南半球とを判然と区別して置かぬと承知ができかねる。日常の生活には午前と午後との間には確乎たる境界があるごとくにみなして置く方が都合がよろしい。かような次第で、差別の明らかでないところへ、便宜上境界を仮想することもつねであるが、これが習慣になると、その境界を実際ありと思うようになりやすい。今日赤道を通過すると聞いて、朝から甲板上に立って、一生懸命に海面を眺めている乗客の所へ、茶目式の若い船員が来て、赤道は肉眼ではとうてい見られぬからこれを貸してあげようというて、赤インキで玉に横線を引いた望遠鏡を貸してやったという話を聞いたことがあるが、これは極端な例としても、日常これに似た考えを持っている場合はいくらもある。大晦日と元日との間にも何となく判然たる境界があるごとき心持ちを禁じ得ない。