4話 四 ハハア…内妻ですな?
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『もう何時頃でござんせう?』
ふと、隅つこに座つてゐた女が向き直つて聞いた。龍子はコオトのポケツトをさぐつて時計を出して見た。
『一時に二十分前ですよ』
『あ、左様ですか、何うもありがたう御座います。』
女は座つてゐた足を痛さうにのばしながら汚い下駄の上に乗せた。背中の子は大きな坊主頭を母親の背におつつけてよく眠つてゐた。その母親の櫛の歯のあとなど見えない油つ気のぬけた、そゝけ放題な頭の毛や汚いねんねこで、龍子の眼には、何うしても、その日暮らしの人足か立ん坊の内儀としか見えなかつた。
『随分待ちますねえ』
Mはもちまへの優しい調子でそのかみさんに話かけた。
『えゝ、朝からですから、随分長いことまちます。まだおひるつからのは、なか/\で御座いませうか?』
『いや、もう直きでせう。一時になつたら会はすでせう。』
『あ、左様で御座いますか、何うもありがたう御座います。』
かみさんはそれで口をつぐんだ。丁度其の時に受附の窓口に洋服を着た一人の男が立つた。受附の男は何か頻りに聞き糺しながら面会の手続をしてやつてゐるらしかつた。龍子は直ぐに立つて行つた。その男が番号を書いた札を受取つて退くと直ぐ龍子は代つた。
『誰に会ふ?』
受附の年老つた役人はさも横風に龍子の顔を睨みつけた。広い室の中に縦横に置かれた大きな机の前の彼方此方の顔が物珍らしさうに龍子の顔を老人の肩越しに覗いてゐた。龍子は爺さんの横風な問にムツとして睨み返しながら、素つ気なくE――の名を云つた。
『ア、Eさん――さうですか、あなたは?』
爺さんは急に態度も言葉使ひも改めながら、云つた。龍子はだまつて自分の名刺をさし出した。
『何う云ふお続柄で――』
『内妻――』
さう云つて龍子はふつとくすぐつたい笑ひを洩らさうとした。
『何あに、いくら女房ぢやないの何だのつて威張つたつて、裁判所に引つぱり出されたり、監獄に面会に来たりして御覧、内縁の妻にされつちもふよ。』
Eはよく二人の関係について冗談を云ふ度びに友達の前や何かでそんな事を云つた。
『アラいやだ。』
『あらいやだなもんか本当だよ』
『嫌やだわ内縁の妻だなんて。』
『嫌やだつたつてそれが事実ぢやないか』
『違ふわ』
『ぢや何んだ』
『何んでもないわ、いろだわたゞ――』
『ぢやあ若し裁判所で内縁の妻だなんて云つたら抗議を申込むか』
『えゝ、内縁の妻だなんてそんなもんぢやない。いろだつてさう云ふわ』
『さうか、そりやあえらいな』
さう云ふ事は幾度も/\云つてゐた。そして二三日前、警視庁に、或友人と一緒に差入れに行つたときに矢張り其処の係りの巡査から同じ事を尋ねられた。
『あなたはEさんの何んです?』
巡査はぢつと龍子の顔をみつめながら云つた。何も彼も知つてるくせに――と思ひながら龍子は
『一緒にゐるものです。』
と曖昧な答へをした。
『ハヽア、すると内妻ですな』
巡査は至極真面目くさつて書きつけた。龍子は巡査のその言葉を聞くと何かくすぐつたいやうな気持と一緒に、何も彼も解り切つた事までも根掘り葉掘り聞かなければ承知の出来ない巡査が、その曖昧な答を馬鹿にのみ込みよく問ひ返しもせずに『内妻』としたのを妙な気持で眺めてゐたが、ふつとEの何時もの言葉を思ひ出して、危くふき出さうとした。そして同時にその内縁の妻と云ふ文字が新聞の三面記事より他の場所では先づ見た事がないんだ等と思ふと、何んだかその言葉が無暗と感の悪い言葉に思えて仕方がなかつた。その晩帰つてからも、その次の日も、龍子はそれを思ひ出すと変な気がした。しかし終ひにはだん/\と其の気持を誇張してゐるうちに擬悪的な興味が少しづゝ顔をのぞかし初めて来た。そして何時の間にか平気で自分の口から『内妻』と云ひ得るやうになつたのだ。しかし平気でさう云つた後から直ぐにボツと顔が紅らむやうな気がした。
龍子が『七十二番』と云ふ番号札を受取つて控所に戻つた時には、外の控所から這入つて来た面会人が十人近くもゐた。そして後から後から三四人づゝゾロ/\這入つて来て、何時の間にか、ヒツソリしてゐた控所の中は一杯になり腰掛には空きがなくなつた。龍子は席にかへると直ぐ時計を出して見た。一時はとうに過ぎてゐた。廊下には書記や看守が往つたり来たりし初めた。
『ガターン!』遠く近く、扉の音が幾度も幾度も龍子の眉をひそめさせた。