9話 九 小窓から出たEの顔
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龍子は定められた順番よりはずつと後れて五時近くになつて呼ばれた。例の老看守は龍子が廊下に上るのを待つて云つた。
『これから共犯者申し合はせて面会に来る事はならんぞ』
何んな場合にでもまだ龍子は、そんな乱暴な言葉で扱はれた事はなかつた。それともう一つ、『共犯者』と云ふ耳ざわりな言葉が龍子を怒らせた。看守は尋常な答へを龍子に待ち受けてゐた。しかし彼女は黙つて何んにも答へずに済まして看守より先きに歩き出した。
『分つたか、共犯者一緒に来ると、会はせないぞ、会はせても遅くなつたりするからそつちの損だ。』
しかし龍子はなほすまして歩いて行つた。廊下を直ぐ折りまがつて突き当つた処に、三尺位の引手のついた戸がズラリとならんで、一二三と番号が書いてあつた。
『七十二番は一号の前――』と云ふ指図通りにその扉の前に立つた。彼女はポケツトから小さな手帳を引き出した。それは今、Eと会つて、話し洩らしてはならない用件を書いておいたものだつた。彼女が静かにその手帳を操つてゐるうちに、二号では年老つた母親がその息子に会つてゐた。話し声は筒ぬけに龍子の耳に聞こえた。息子は頻りに母親に詫びて、留守中のことをいろ/\指図してゐた。やがてその話が終るか終らないうちに、隔ての戸のしめられる音がした。しかし息子はなを云ひ残した事を大声に母親に通じさせようとして云ふ。母親も二言三言返事を与へてゐる。と荒々しい看守の声がその話をさへぎつた。耳の遠い老母はしほ/\しながらその戸を押して出て来た。
入れ違ひに龍子が呼び込まれた。其処は三尺四方のうすぐらい箱だつた。その正面のしきりの向ふに網を張つた郵便局の窓口のやうなものがあつて戸が閉めてあつた。その窓口と龍子のはいつてゐる箱の間の狭い通路に部長が一人立つてゐた。
『何番?』
『七十二番』
『名前は? あ、何んだE? へえEさんが、珍らしいな何時から来てる?』
部長は意外だと云ふ顔をしながら心持親しみを見せながら聞いた。
『一昨日からでせう? 多分』
『何んで来たんです?』
『よく知りません。公務執行妨害とか云ふ話ですけれど。』
『え、一人? 他には誰? U、W、知らないな、へえEさんが来てるとは知らなかつた。』
部長はしきりに首をかしげてゐた。
『まだ来ないな、一寸出て下さい、今直ぐですから』
龍子はまた外へ出た。しかし直ぐ向ふの方に足音がしてEの咳をする声がした。
『よろしい』
と云ふ許しが出て再び這入つて行くと部長は直ぐその窓口をあけた。Eの眼がギロリと暗い中で光つたと思ふと笑ひ顔がぬつと前に突き出された。
『寒くはありませんか?』
龍子は何から話していゝか分らずにつかぬ口のきゝ方をした。
『いや寒くはない。どうしたい、うちには誰かゐるかい?』
『えゝ』
『早く用事を話さないと時間がありませんよ』
部長はペンを握りしめながら催促した。龍子は二三日間の事をすつかり、それから相談すべき事をすつかり、何も彼も果さうとして急いで手帳の覚書を見ながら話した。Eは腕組みをして黙つて頷きながら聞いてゐた。用事を話して了ふと、龍子は急にこれから何を話さうかと云ふやうなポカンとした気持になつた。いろ/\話したい事がある。けれど何う云ふ事を話したらいゝか? 時間がないんぢやないか? さう思ふと忽ちヂリ/\して来るのだつた。
やがて、一寸どうでもいゝ話が続いたのを見てとると部長は直ぐ、窓の傍のハンドルに手をかけた。
『もう別に話す事はありませんか、なければもうしめますよ』
『ぢやまたね』
『あゝ』
Eの笑顔は直ぐかくされた。
『未決のうちは毎日会へますよ、また明日ゐらつしやい』
部長は役目をすますと一層くつろいだ調子で龍子に云つた。しかし龍子はその言葉を後ろに戸の外に出た。あの冷たい寒い室に半日待つての面会としてはあんまり馬鹿々々しかつた。それに、何処へ行つても誰の前ででも、思ふまゝに寧ろ傲慢すぎると見える程に自分を振舞ふEが、窮屈らしく拘束されてゐるのを見ては、龍子は何んとなく情ないやうな憤ろしいやうな気持がしてならなかつた。しかし、看守にどなられて無理に引きはなされて悄々と出て行つた老母を思ひ出すと、まだ手加減をして扱つて貰つた丈けいゝとしなければならなかつた。控所まで来ると龍子は急いで石階を降りた。室の中にはまだ五六人の人々が寒さうに肩をすぼめて話してゐた。外は小暗くなつてゐた。龍子は同志の男達の手にお守りをされながら待つてゐる乳呑の子供の事が焼きつくやうに思ひ出されるのだつた。
『ああ、遅くなつた――』
門を出て小走りに歩き出した龍子の頭の中には子供の姿と一緒に宅までの長い長い道順が焦れつたく繰りひろげられるのだつた。それと同時に、待たされた半日の時間が忌々しく惜まれるのであつた。
[『改造』第一巻第六号・一九一九年九月号]