お律と子等と

3話 お律と子等と(3)

6,190字 約12分 1998年12月19日 公開

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 (ひる)過ぎになってから、洋一(よういち)何気(なにげ)なく茶の()へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造(けんぞう)が、長火鉢の前に坐っていた。そうしてその前には姉のお(きぬ)が、火鉢の(ふち)(ひじ)をやりながら、今日は湿布(しっぷ)を巻いていない、綺麗(きれい)丸髷(まるまげ)の襟足をこちらへまともに(あらわ)していた。

「そりゃおれだって忘れるもんかな。」

「じゃそうして頂戴よ。」

 お絹は昨日(きのう)よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶(あいさつ)に答えた。それから多少彼を(はばか)るような、薄笑いを含んだ調子で、()()ず話の(あと)を続けた。

「その(ほう)がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」

「よし、よし、万事呑みこんだよ。」

 父は浮かない顔をしながら、その癖冗談(じょうだん)のようにこんな事を云った。姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、(いまだ)に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そう云う消息(しょうそく)に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然(もくねん)と新聞をひろげたまま、さっき田村(たむら)に誘われた明治座の広告を眺めていた。

「それだからお父さんは嫌になってしまう。」

「お前よりおれの方が嫌になってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴(ぐち)ばかりこぼされるし、――」

 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず(ふすま)一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお(りつ)がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな(うな)り声を()らしているらしかった。

「お母さんも今日は楽じゃないな。」

 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切(とぎ)らせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を(にら)みながら、

「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。

「だからさ、だから今日は谷村博士(たにむらはかせ)に来て貰うと云っているんじゃないか?」

 賢造はとうとう(にが)い顔をして、(ほう)り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情(ごうじょう)なのが、さすがに少し面憎(つらにく)くもなった。

「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」

「三時頃来るって云っていた。さっき工場(こうば)の方からも電話をかけて置いたんだが、――」

「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな。」

 洋一は立て膝を()きながら、日暦(ひごよみ)の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。

「もう一度電話でもかけさせましょうか?」

「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」

「さっきって?」

戸沢(とざわ)さんが帰るとすぐだとさ。」

 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の()へはいって行った。

「やっと姉さんから御暇(おいとま)が出た。」

 賢造は苦笑(くしょう)を洩らしながら、始めて腰の煙草入(たばこい)れを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。

 病室からは相不変(あいかわらず)、お律の(うな)り声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだろう? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者(かんじゃ)ではなし、今頃はまだ便々(べんべん)と、回診(かいしん)か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――

「どうです?」

 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると(ふすま)の明いた所に、心配そうな浅川(あさかわ)叔母(おば)が、いつか顔だけ(のぞ)かせていた。

「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」

 賢造は口を開く前に、まずそうに(きざ)みの煙を吐いた。

「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」

「そうですね、一時(しの)ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」

「僕がかけて来ます。」

 洋一はすぐに立ち上った。

「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川(こいしかわ)の×××番だから、――」

 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の()から、台所の板の()へ飛び出していた。台所には(たすき)がけの松が鰹節(かつおぶし)(かんな)を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い(がしら)に向うからも、小走りに美津(みつ)が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を(かわ)した。

「御免下さいまし。」

 ()いたての髪を《にお》わせた美津は、(きま)り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。

 洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山(かみやま)が、(うしろ)から彼へ声をかけた。

「洋一さん。谷村病院ですか?」

「ああ、谷村病院。」

 彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金格子(かねごうし)(かこ)った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。

「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」

「何てかかって来たの?」

「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――ただ今だね? 良さん。」

 呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高い(たな)に積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。

「ただ今じゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」

「そうか。そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」

 洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不審(ふしん)そうにそこへ立ち止った。

「おや、この時計は二十分過ぎだ。」

「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」

 神山は体を《ねじ》りながら、帯の金時計を覗いて見た。

「そうです。ちょうど十分過ぎ。」

「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」

 洋一はちょいとためらった(のち)大股(おおまた)に店さきへ出かけて行くと、もう薄日(うすび)もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。

「来そうもないな。まさか(うち)がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」

 彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履(いたぞうり)の上へ飛び下りた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。

 大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこの(かど)にある店蔵(みせぐら)が、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋(とうぶつや)になっている。――その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽(むぎわらぼう)(とう)の杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手(はで)な海水着が人間のように突立っていた。

 洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓を(うしろ)(たたず)みながら、大通りを通る人や車に、苛立(いらだ)たしい視線を(くば)り始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋(とんや)ばかり並んだ横町(よこちょう)には、人力車(じんりきしゃ)一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車(あきぐるま)の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。

 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、

「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。

「何か用だったかい?」

 洋一はそう云う間でも、絶えず(にぎやか)な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。

「用は別にないんだそうで、――」

「お前はそれを云いに来たの?」

「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」

「お父さんが?」

 洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも(まばら)な往来には、ちょうど今一台の人力車(じんりきしゃ)が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒(かじぼう)の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。

「兄さん!」

 車夫は体を(うしろ)()らせて、(きわ)どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎(しんたろう)が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に(はさ)んだトランクを骨太な両手に抑えていた。

「やあ。」

 兄は(まゆ)一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。

「お母さんはどうした?」

 洋一は兄を見上ながら、体中(からだじゅう)の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。

「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍(かいよう)なんだそうだ。」

「そうか。そりゃ――」

 慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が(ひらめ)いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。

「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」

 車夫は慎太郎の合図(あいず)と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝(けさ)(のぼ)りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに(うつ)るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目(しにめ)に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い(ふけ)っている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……

「兄さん。試験はまだ始らなかった?」

 慎太郎は体を(ななめ)にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。

明日(あす)からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」

「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」

 洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を(いたわ)りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。

「よっぽど待ったかい?」

「十分も待ったかしら?」

「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」

 車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒(かじぼう)を店の前へ(おろ)した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸(ガラスど)の立った店の前へ。

        四

 一時間の(のち)店の二階には、谷村博士(たにむらはかせ)を中心に、賢造(けんぞう)慎太郎(しんたろう)、お(きぬ)の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお(りつ)の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格の(たくま)しい谷村博士は、すすめられた茶を(すす)った(のち)、しばらくは胴衣(チョッキ)金鎖(きんぐさり)を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、

戸沢(とざわ)さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。

「ただ今電話をかけさせました。――すぐに(あが)るとおっしゃったね。」

 賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈(きゅうくつ)そうな(ひざ)を重ねていた。

「ええ、すぐに見えるそうです。」

「じゃその(かた)が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」

 谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。

「当年は梅雨(つゆ)が長いようです。」

「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」

 お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋(ごふくや)の主人は、短い口髭(くちひげ)(ふち)無しの眼鏡(めがね)と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒(はがゆ)さを感じながら、剛情に一人黙っていた。

 しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に(まじ)ったのは、それから()もない(のち)の事だった。黒絽(くろろ)の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃(いんぎん)な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、

「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北(なまり)の声をかけた。

「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」

 谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。

「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」

 戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態(ようだい)可成(かなり)詳細に説明した。慎太郎には薄い博士の(まゆ)が、戸沢の処方(しょほう)を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。

 しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様(おおよう)に、二三度独り(うなず)いて見せた。

「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍(かいよう)です。が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。何しろこう下腹(したはら)が押し上げられるように痛いと云うんですから――」

「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」

 戸沢はセルの(はかま)の上に()かつい(ひじ)を張りながら、ちょいと首を傾けた。

 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。

「熱なぞはそれでも昨日(きのう)よりは、ずっと低いようですが、――」

 その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作(むぞうさ)にその言葉を(さえぎ)った。

「それがいかんですな。熱はずんずん(さが)りながら、脈搏は(かえ)ってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」

「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いて()い事ですな。」

 お絹の夫は腕組みをした手に、時々口髭(くちひげ)をひっぱっていた。慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。

「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候(ちょうこう)も見えないようでしたがな。――」

 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、()かさず愛想(あいそ)の好い返事をした。

「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった(あと)で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」

「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」

 慎太郎は(けわ)しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな《まぶた》の下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。

「今はとても動かせないです。まず差当(さしあた)りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」

 谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣(チョッキ)の時計を出して見ると、

「じゃ私はもう御暇(おいとま)します。」と、すぐに背広の腰を(もた)げた。

 慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診(らいしん)の礼を述べた。が、その(あいだ)も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。

「どうか博士もまた二三日(うち)に、もう一度御診察を願いたいもので、――」

 戸沢は挨拶(あいさつ)をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。

「ええ、(あが)る事はいつでも上りますが、――」

 これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子(はしご)()りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………

        五

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