お律と子等と

4話 お律と子等と(4)

8,470字 約17分 1998年12月19日 公開

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 戸沢(とざわ)やお(きぬ)の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎(しんたろう)は、浅川(あさかわ)叔母(おば)洋一(よういち)と一しょに、茶の()の長火鉢を囲んでいた。(ふすま)の向うからは不相変(あいかわらず)、お(りつ)(うな)り声が聞えて来た。彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。

「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」

 叔母は火箸(ひばし)を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。

「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」

 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを(くわ)えている兄の方へ言葉をかけた。

「二三日は間違いあるまいって云った。」

「怪しいな。戸沢さんの云う事じゃ――」

 今度は慎太郎が返事せずに、煙草(たばこ)の灰を火鉢へ落していた。

「慎ちゃん。さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」

「何とも云いませんでした。」

「でも笑ったね。」

 洋一は横から(のぞ)くように、静な兄の顔を眺めた。

「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦(ばか)に好い《におい》がするじゃありませんか?」

 叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。

「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水(こうすい)()いたんだよ。洋ちゃん。何とか云ったね? あの香水は。」

「何ですか、――多分床撒(とこま)き香水とか何んとか云うんでしょう。」

 そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。

「お父さんはいなくって?」

「店に御出でだよ。何か用かえ?」

「ええ、お母さんが、ちょいと、――」

 洋一はお絹がそう云うと同時に、早速(さっそく)長火鉢の前から立ち上った。

「僕がそう云って来る。」

 彼が茶の間から出て行くと、米噛(こめか)みに即効紙(そっこうし)を貼ったお絹は、両袖に胸を()いたまま、忍び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。

「どうだえ?」

「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」

「熱は?」

 慎太郎は口を(はさ)みながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。

「今(はか)ったら七度二分――」

 お絹は襟に(あご)(うず)めたなり、考え深そうに慎太郎を見た。

「戸沢さんがいた時より、また一分(いちぶ)下ったんだわね。」

 三人はしばらく黙っていた。するとそのひっそりした中に、板の()を踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。

「今お前の(うち)から電話がかかったよ。のちほどどうかお(かみ)さんに御電話を願いますって。」

 賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。

「しょうがないわね。(うち)じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」

 お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。

「この節の女中はね。――私の所なんぞも女中はいるだけ、(かえ)って世話が焼けるくらいなんだよ。」

 二人がこんな話をしている(あいだ)に、慎太郎は金口(きんぐち)(くわ)えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。

「受験準備はしているかい?」

「している。――だけど今年(ことし)は投げているんだ。」

「また歌ばかり作っているんだろう。」

 洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草(まきたばこ)へ火を移した。

「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学は大嫌いだし、――」

「嫌いだってやらなけりゃ、――」

 慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際(ふすまぎわ)へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、

「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。

 彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。

「こっちへ御出で。何かお母さんが用があるって云うから。」

 枕もとに独り坐っていた父は(あご)で彼に差図(さしず)をした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。

「何か用?」

 母は(くく)り枕の上へ、櫛巻(くしま)きの頭を横にしていた。その顔が(きれ)をかけた電燈の光に、さっきよりも一層(やつ)れて見えた。

「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう云ってね、――お前の云う事は聞く子だから、――」

「ええ、よく云って置きます。実は今もその話をしていたんです。」

 慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。

「そうかい。じゃ忘れないでね、――私も昨日(きのう)あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」

 母は腹痛をこらえながら、歯齦(はぐき)の見える微笑をした。

帝釈様(たいしゃくさま)御符(ごふ)を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば(なお)りそうだから、――美津(みつ)叔父(おじ)さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍(かいよう)だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」

 慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間(あさま)しい気がしてならなかった。

「癒りますとも。大丈夫癒りますからね、よく薬を飲むんですよ。」

 母はかすかに(うなず)いた。

「じゃただ今一つ召し上って御覧なさいまし。」

 枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の(くちびる)水薬(みずぐすり)硝子管(ガラスくだ)を当てがった。母は眼をつぶったなり、二吸(ふたすい)ほど(くだ)の薬を飲んだ。それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。

()塩梅(あんばい)ですね。」

「今度はおさまったようでございます。」

 看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。

「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床上(とこあ)げの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤飯(せきはん)の代りに、氷あずきでも(くば)る事にするか。」

 賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引き(さが)ろうとした。すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、

演説(えんぜつ)? どこに今夜演説があるの?」と云った。

 彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。

「演説なんぞありゃしないよ。どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」

 賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。慎太郎は早速膝を(もた)げて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。

 茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息(しょうそく)を尋ねるような表情をした。が、慎太郎は口を(つぐ)んだなり、不相変(あいかわらず)冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団(ざぶとん)の上にあぐらをかいた。

「何の用だって?」

 まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に(あご)を埋めた、顔色(かおいろ)の好くないお絹だった。

「何でもなかった。」

「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」

 慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。

「洋ちゃん。お前今夜夜伽(よとぎ)をおしかえ?」

 しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸(あくび)まじりに、こう洋一へ声をかけた。

「ええ、――姉さんも今夜はするって云うから、――」

「慎ちゃんは?」

 お絹は薄い《まぶた》を挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。

「僕はどうでも好い。」

不相変(あいかわらず)慎ちゃんは()え切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」

「この人はお前、疲れているじゃないか?」

 叔母ば半ばたしなめるように、癇高(かんだか)いお絹の言葉を制した。

「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」

「じゃ一番さきに寝るかな。」

 慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死(すいし)の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………

        六

 それでも店の二階の蒲団(ふとん)に、慎太郎(しんたろう)が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反(ねがえ)りを繰り返しても、容易に睡気(ねむけ)を催さなかった。

 彼の隣には父の賢造(けんぞう)が、静かな寝息(ねいき)を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は(いび)きをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を()かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。

 しかし彼の《まぶた》の裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ(いま)わしい記憶もあった。が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。「みんなもう過ぎ去った事だ。善くっても悪くっても仕方がない。」――慎太郎はそう思いながら、(のり)の《におい》のする(くく)り枕に、ぼんやり五分刈(ごぶがり)の頭を落着けていた。

 ――まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子(ぼうし)を買って来た事があった。それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、(ひさし)の長い大黒帽(だいこくぼう)だった。するとそれを見た姉のお(きぬ)が、来月は長唄のお(さら)いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、(こしら)えてくれろと云い出した。父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。姉はすぐに怒り出した。そうして父に背を向けたまま、口惜しそうに毒口(どくぐち)()いた。

「たんと慎ちゃんばかり御可愛(おかわい)がりなさいよ。」

 父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを()めなかった。

「着物と帽子とが一つになるものかな。」

「じゃお母さんはどうしたんです? お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありませんか?」

 姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。

「あの時はお前も(かんざし)だの(くし)だの買って貰ったじゃないか?」

「ええ、買って貰いました。買って貰っちゃいけないんですか?」

 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪(はなかんざし)をいきなり畳の上へ(ほう)り出した。

「何だ、こんな簪ぐらい。」

 父もさすがに苦い顔をした。

莫迦(ばか)な事をするな。」

「どうせ私は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利口じゃありません。私のお母さんは莫迦だったんですから、――」

 慎太郎は(あお)い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を(つか)むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。

「何をするのよ。慎ちゃん。」

 姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。

「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか? 入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? 何だい、女の癖に、――喧嘩ならいつでも向って来い。――」

 いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい(あざやか)(うつ)っているような気がしながら。――

 慎太郎はふと耳を(すま)せた。誰かが音のしないように、暗い梯子(はしご)(あが)って来る。――と思うと美津(みつ)が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。

旦那様(だんなさま)

 眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を(もた)げた。

「何だい?」

「お(かみ)さんが何か御用でございます。」

 美津の声は震えていた。

「よし、今行く。」

 父が二階を下りて行った(のち)、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中(いえじゅう)の物音にでも聞き入るように、じっと体を(こわ)ばらせていた。すると何故(なぜ)かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。

 ――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中(やなか)の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣(いけがき)の中には、辛夷(こぶし)の花が白らんでいる、天気の()い日曜の(ひる)過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜(おじぎ)をしただけだった。

「それでもう好いの?」

 母は水を手向(たむ)けながら、彼の方へ微笑を送った。

「うん。」

 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この(あわれ)な石塔には、何の感情も起らないのだった。

 母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。生垣(いけがき)を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か()の芽の煙った(こずえ)残惜(のこりお)しそうに見上げていた。――

 その時また彼の耳には、誰かの梯子(はしご)を上って来る音がみしりみしり聞え出した。急に不安になった彼は半ば(とこ)から身を起すと、

「誰?」と上り口へ声をかけた。

「起きていたのか?」

 声の持ち主は賢造だった。

「どうかしたんですか?」

「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」

 父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団(ふとん)の上へ横になった。

「用って、悪いんじゃないんですか?」

「何、用って云った所が、ただ明日(あした)工場(こうば)へ行くんなら、箪笥(たんす)の上の抽斗(ひきだし)単衣物(ひとえもの)があるって云うだけなんだ。」

 慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。

「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」

「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」

「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」

 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。

「お前のお母さんなんぞは後生(ごしょう)も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」

 二人はしばらく黙っていた。

「みんなまだ起きていますか?」

 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。

「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」

 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を(もた)げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。

「お父さん。お母さんがちょいと、――」

 今度は梯子(はしご)の中段から、お(きぬ)が忍びやかに声をかけた。

「今行くよ。」

「僕も起きます。」

 慎太郎は掻巻(かいま)きを()ねのけた。

「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」

 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。

 慎太郎は(とこ)の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。それからまた坐ったまま、電燈の(まぶ)しい光の中に、茫然(ぼうぜん)とあたりを眺め廻した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に(とこ)の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――そんな事もふと思われるのだった。

 すると字を書いた罫紙(けいし)が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気(なにげ)なくそれを取り上げた。

「M子に献ず。……」

 (あと)は洋一の歌になっていた。

 慎太郎はその罫紙を(ほう)り出すと、両手を頭の(うしろ)に廻しながら、蒲団の上へ仰向(あおむ)けになった。そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………

        七

 慎太郎(しんたろう)がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお(きぬ)賢造(けんぞう)とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。

「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」

 賢造はお絹にこう云ったなり、(いそが)しそうに梯子(はしご)を下りて行った。

 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降(おおぶ)りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速(さっそく)寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。

「慎ちゃん。お早う。」

「お早う、お母さんは?」

昨夜(ゆうべ)はずっと苦しみ通し。――」

「寝られないの?」

「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――(わたし)夜中(よなか)に気味が悪くなってしまった。」

 もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に(たたず)んでいた。そこから見える台所のさきには、美津(みつ)が裾を端折(はしょ)ったまま、雑巾(ぞうきん)か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮(しんちゅう)の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが(はばか)られるような心もちがした。

「妙な事ってどんな事を?」

「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」

「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」

「今は戸沢(とざわ)さんが来ているわ。」

「早いな。」

 慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。

 五分の(のち)、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、(あと)の手当をして貰いながら、昨夜(ゆうべ)父が云った通り、絶えず白い(くく)り枕の上に、櫛巻(くしま)きの頭を動かしていた。

「慎太郎が来たよ。」

 戸沢の側に坐っていた父は声高(こわだか)に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。

 彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一(よういち)が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。

「手を握っておやり。」

 慎太郎は父の云いつけ通り、両手の(たなごころ)に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗(あぶらあせ)に、気味悪くじっとり(しめ)っていた。

 母は彼の顔を見ると、(うなず)くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、

「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。

「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒(しんぼう)です。」

 戸沢は手を洗っていた。

「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」

 母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神(うじがみ)御札(おふだ)が、柴又(しばまた)帝釈(たいしゃく)御影(みえい)なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――母は上眼(うわめ)にその盆を見ながら、(あえ)ぐように切れ切れな返事をした。

昨夜(ゆうべ)、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝(けさ)は、お(なか)の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」

 父は小声に看護婦へ云った。

「少し舌がつれるようですね。」

「口が御(ねば)りになるんでしょう。――これで水をさし上げて下さい。」

 慎太郎は看護婦の手から、水に(ひた)した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。母は筆に舌を(から)んで、乏しい水を吸うようにした。

「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」

 戸沢は(かばん)の始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、

「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。

 看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。

 慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の()には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀(ていねい)な叔母の挨拶に無造作(むぞうさ)な目礼を返しながら、(あと)に従った慎太郎へ、

「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。

「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」

 慎太郎も苦笑した。

「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の(せがれ)なんぞが受験準備をしているせいですな。――」

 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。

 医者が雨の中を帰った(のち)、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一(よういち)が巻煙草を(くわ)えていた。

「眠いだろう?」

 慎太郎はしゃがむように、長火鉢の(ふち)(ひざ)を当てた。

「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」

「うん、――昨夜(ゆうべ)夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」

 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ(ほう)りこんだ。

「でもお母さんが(うな)らなくなったから好いや。」

「ちっとは楽になったと見えるねえ。」

 叔母は母の懐炉(かいろ)に入れる懐炉灰を焼きつけていた。

「四時までは苦しかったようですがね。」

 そこへ松が台所から、銀杏返(いちょうがえ)しのほつれた顔を出した。

「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」

「はい、はい、今行きます。」

 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。

「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」

 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸(あくび)を噛み殺しながら、やっと重い腰を(もた)げた。

「僕も一寝入りして来るかな。」

 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。

 すると突然次の()から、(あわただ)しく看護婦が駆けこんで来た。

「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」

 慎太郎は咄嗟(とっさ)に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうして(たくま)しい両腕に、しっかりお(りつ)を抱き上げていた。

「お母さん。お母さん。」

 母は彼に抱かれたまま、二三度体を(ふる)わせた。それから青黒い液体を吐いた。

「お母さん。」

 誰もまだそこへ来ない何秒かの(あいだ)、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。

(大正九年十月二十三日)

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