『団栗』のことなど

1話 『団栗』のことなど(1)

5,849字 約12分 2017年11月28日 公開

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 今度岩波文庫に『寺田寅彦随筆集』の第一巻が出た。小宮さんの編輯によるもので、全部で五巻のうちの第一巻が出たのである。

 その巻頭に『団栗』が載っている。全集第一巻とくらべてみると、執筆年代順からかぞえて、初めの十一篇が略され、十二番目の『団栗』が最初にとりあげられている。もちろん文芸的の価値からいっても、この『団栗』と次の『竜舌蘭』とは、先生の作品の中でも、特に高く評価さるべきものである。しかしそのことの外に、この『団栗』は深い意味のある作品であって、これが今度の集の巻頭に載ったことについては、小宮さんの寅彦に対する心持がしのばれるように、私たちには思われる。

『団栗』は、明治三十八年、漱石の『猫』が初めて『ホトトギス』に連載され始めた年の四月、同じく『ホトトギス』に発表された短篇である。早く亡くなられた先生の最初の奥さんのことを書かれたものである。

「暮もおし詰つた二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出掛けた。十時過に帰つて来て、袂からおみやげの金鍔と焼栗を出して余のノートを読んで居る机の隅へそつとのせて、便所へはいつたがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ坐ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない。其時余の顔に全く血の気が無くなつたのを見て、一層気を落したと此れはあとで話した。」

 これは明治三十三年の暮のことである。この時先生は二十三歳で、まだ理科大学物理学科の二年生であった。土佐高知の旧家の一人息子として育った先生は、当時の習慣もあり、また父君の特別な意向もあって、非常に早く結婚されていた。熊本の第五高等学校へ入学された翌年、二十歳の時に、この夏子夫人と結婚されたのである。奥さんは多分十五歳くらいであった。

 先生はこの奥さんを深く愛して居られたので、心配も一通りではなかった。それに女中は、肺病ときくと暇をとってしまった。『不如帰』の時代であるから、珍しいことではない。しかし幸いにして、美代という心掛のよい女中が来てくれた。

「仕合せと此れが気立のやさしい正直もので、尤も少しぼんやりして居て、狸は人に化けるものだといふやうな事を信じて居たが、兎に角忠実に病人の看護もし、叱られても腹も立てず、そして時にしくじりもやつた。手水鉢を座敷の真中で取落して洪水を起したり、火燵のお下りを入れて寝て蒲団から畳まで径一尺程の焼穴をこしらへた事もあつた。それにもかゝはらず余は今に到る迄此美代に対する感謝の念は薄らがぬ。」

 この美代というのは、本名のようである。明治三十四年二月一日の日記に「美代帰る。手水鉢の水をはこぶとて台所にて取落し一面の水となる」とある。その美代のことであろう。この美代はその後間もなく二月の末に、夏子夫人が郷里高知へ療養のために帰った時も、高知まで付き添って行った娘である。

 夏子夫人の病気は、正月になって少しずつ快方に向って行った。しかし五月に初産をひかえての喀血であるから、安心は出来ない。三十四年一月初旬の日記には、連日病人のことが書き添えてある。

 一月一日「病人も起床して雑煮を祝ふ」

 二日「病人よし」

 三日「病人よし」

 四日「病人、頭痛。足の関節も痛む」

 五日「病人快からず。夜具の上に琴を横(よこた)へてかきならす。早く戸を閉ぢて病床近く膳具を運ぶ。戸外には風のあるゝ音。心細き夜なり。夢の話。狸の人をばかす話」

 六日「医師来診。最早肺部の呼吸音には毫も異状なきとの事なり。ミゼラブルの話などす」

 七日「帰りて又ミゼラブルの続きを話す。病人大によし」

 病状の起伏に、一喜一憂しながら、先生は細かく気を使って居られたのである。木枯の吹き荒れる宵などは「病床近くに膳具を運」び、「狸の人をばかす話」だの、「ミゼラブルの話など」をされた。「狸は人に化けるものだといふやうな事を信じて」いた美代も、かたわらでその話をきいていたのであろう。

「世間は目出度いお正月になつて、暖い天気が続く。病人も少しづゝよくなる。風の無い日は縁側の日向へ出て来て、紙の折鶴をいくつとなくこしらへて見たり、秘蔵の人形の着物を縫うてやつたり、曇つた寒い日は床の中で「黒髪」を弾く位になつた。そして時々心細い愚痴つぽい事を云つては余と美代を困らせる。妻は其頃もう身重になつて居たので、この五月には初産と云ふ女の大難をひかへて居る。おまけに十九の大厄だと云ふ。美代が宿入りの夜など、木枯の音にまじる隣室の淋しい寝息を聞きながら、机の前に坐つて、ラムプを見つめたまゝ長い息をすることもあつた。」

 病人は案外早く快方に向って、一月十三日にはもう「夏子も起き出でゝガラスを拭ひなど」するまでになった。晴れた寒い日である。「鳥影障子にさせ共人も来ず。梅のつくり花一輪こしらへて庭の枯枝に付けたり」「バイオリン取出て Harmonious Blacksmith と云ふを習ふ」という温和な生活が又戻って来るように見えた。それから暫くの間、日記には病人の記載が無い。多分順調に快復されていたのであろう。そして一月三十日には、「夏羽子板と羽根を買ふ」までになったのであった。

 このままで済めば、或は何事も無かったかもしれなかった。ところがここで「寺田寅彦」の生涯とその性格とに、重大な影響を残すような事件の発端が起った。それは夏子夫人の病気を極端に恐れた父君が、夫人を先生から引き離して療養させる案を立てたことに始まる。一月三十一日に夫人の父君が来訪して、「於夏の病気保養の為帰国しては如何との」相談があった。そして二月二日には、「医師来る 夏の帰国は海上気遣なるべしとの事」という風に、どんどん話が進められた。

 この帰国は二月二十二日に決行された。それまでに二十日間の余裕があった。最愛の夫人を一人遠く高知にまで送られる先生の気持は、日記の中に「火鉢の上にて夏と指相撲」「昼より夏と浅草へ行く」というような文字となって残っている。そしてこの話の主題であるところの、植物園へ行って団栗を拾う話も、この間にあったことである。「昼より於夏を連れて植物園へ行く。戸崎町なる某寺の前にとぶらいの車並べり。温室には目なれぬ花卉咲きみだれて麗はし。池の水氷りたるに石投ぐる者案外に大人なるも可笑し。団栗数多拾ふて帰る」この日は二月三日の日曜で晴れた日であった。

『団栗』には、この時の情景が詳しく書かれている。

「それにも拘らず少しづゝよい。月の十何日、風のない暖い日、医師の許可を得たから植物園へ連れて行つてやると云ふと大変に喜んだ。出掛けるとなつて庭へ下りると、髪があんまりひどいから一寸撫で付ける迄待つて頂戴と云ふ。懐手をして縁へ腰掛けて淋しい小庭を見廻はす。去年の枯菊が引かれた儘で、あはれに朽ちて居る。それに千代紙の切れか何かゞ引掛つて風のないのに、寒さうに顫へて居る。手水鉢の向ひの梅の枝に二輪ばかり満開したのがある。近付いてよく見ると作り花がくつつけてあつた。大方病人のいたづららしい。」

 植物園の門をはいって、広いだらだら坂を上って行く。「穏かな日光が広い園に一杯になつて、花も緑もない地盤はさながら眠つたやう」に静かな景色である。温室の中へはいってみると、「活力の充ちた、しめつぽい熱帯の空気が」強く感ぜられ、「濃緑に朱の斑点の入つた草の薬」だの、「赤い花」だのが沢山並んでいた。

「池の小島の東屋に、三十位の眼鏡をかけた品の好い細君が、海軍服の男の児と小さい女の児を遊ばせて居る。海軍服は小石を拾つては氷の上をすべらせて快い音を立てゝ居る。ベンチの上には皺くちやの半紙が拡げられて、其上にカステラの大きな片がのつて居る。『あんな女の児が欲しいわねえ』と妻がいつにない事を云ふ。」

 このいつにない話が、その後実現されて、五月には郷里の療養先で、長女貞子『団栗』の「みつ坊」が生れた。そして『団栗』の主題は、若い奥さんがこの日、団栗を沢山拾う話と、五年後にその忘れ形見の「みつ坊」が、同じくこの植物園で団栗を拾う話とからなっている。

「出口の方へ崖の下をあるく。何の見るものもない。後で妻が『おや、団栗が』と不意に大きな声をして、道脇の落葉の中へはいつて行く。なる程、落葉に交つて無数の団栗が、凍てた崖下の土にころがつてゐる。妻は其処へしやがんで熱心に拾ひはじめる。見る間に左の掌に一杯になる。余も一つ二つ拾つて向ふの便所の屋根へ投げると、カラ/\と転がつて向側へ落ちる。妻は帯の間からハンカチを取出して膝の上へ拡げ、熱心に拾ひ集める。」

「『一体そんなに拾つて、どうしようと云ふのだ』と聞くと、面白さうに笑ひながら、『だつて拾ふのが面白いぢやありませんか』と云ふ。ハンカチに一杯拾つて包んで大事さうに縛つて居るから、もう止すかと思ふと、今度は『あなたのハンカチも貸して頂戴』と云ふ。とう/\余のハンカチにも何合かの団栗を充たして『もう止してよ、帰りませう』と何処迄もいゝ気な事を云ふ。」

 二月二十一日、いよいよ明日はこの家を畳んで、先生は下宿へ移り、奥さんと美代は親戚の家で一泊して、帰郷の途につくことにきまる。「下宿へ荷物を送る。医師、家主其他へ払ひ、此家も今宵限りなりと思へば流石になつかし」先生にはこの西片町の家が気に入っていたので、特にその感が深かったのであろう。

 先生は高等学校時代に結婚されたが、奥さんは家に残したまま熊本で学生生活を送り、東京の大学へ入っても、初めは一人で下宿をして居られた。軍人堅気一方の父君が、一人息子の身のことを案じられたためであろう。初めは親戚にあたる銀座の商店にあずけられ、後に谷中の古い汚い寺の一室に移られた。二年生になって、奥さんが出て来られてからも、逢初町の汚い小路の離れを借りたり、仲御徒町の金貸しのばあさんの離れに移ったりされた。先生自身「随分流浪の生活をしたものだ。それが漸く西片町の家があいて引越しをして、やっと山の手の生活に入ったと思った矢先、妻が病気をして死んでしまったのだ。何故あんな不衛生ないやな所ばかり流浪して歩いていたものか、今思うと腹が立つくらいだ」と述懐されたことがある。「随分永らくあの家の前を通るといやな気がしたが、この頃やつと平気になれるやうになつた」といわれたが、この頃というのは、『団栗』の時代から二十五年後の昭和の初め頃の話である。

 奥さんと美代を送って、先生は浜松まで行かれた。そこで父君に会い、両人を託して翌日朝六時発の汽車で帰京された。そして「飯田町より車にて本郷五丁目の下宿へ帰」り、この日から淋しい先生の下宿生活が始まった。「夏等今夜神戸出帆の電報来る」といっても、先生は唯一人冷い下宿の床で「わだつみも便なき此児を守らせ玉へ」と祈るより外に道がなかった。

 三月二日の晴れた土曜日の午後、梅は大分咲き揃ったが、先生は淋しかった。西片町の医師の処へ行く途中、「旧宅の裏を覗いて通る」と「垣破れたる儘なり」で、感慨深いものがあった。その日の夕方「夏へ少年世界送る。」

 翌日の日曜、「竹崎を訪はんとて出でしも時雨ふりて寒ければ上野広小路の方へ行く 下駄を切らして買換へたり」時雨の日に下駄を切らした先生が、「切通の箪笥屋」の前を通ると、「先日売り払ひし長持」が、まだ「鐶(わ)の外れし儘なり」の姿で店頭に置いてあった。思い出はつのるばかりである。先生の生涯の中で、この短い西片町の生活が、唯一の楽しい思い出であったのではないかと思われる。その後三十年、先生の名声は高くなるばかりであったが、「火鉢の上にて夏と指相撲」をする先生は、この時以後はもうなかったようである。

 高知へ帰った奥さんは、高知の家にも居らず、近くの海岸の種崎で、唯一人療養の生活をつづけた。それは東京との手紙の往復だけが、唯一の慰めであるような生活であった。それでも五月には無事長女の出産があった。二十六日その電報を受け取られた先生は、日記に左の一句を残された。

幸ありて桃の若葉と照り栄へよ

 この長女貞子は、生れて間もなく、母親の手から引き離されて、高知の先生の家で、乳母の乳で育てられることになった。生れて母の慈愛を知らない子であった。十九歳の若い奥さんは、夫に離れ、家人に離れ、みどり児からも引き離されて、ただ一人乳の張りに悩んでいた。その悩みも手紙に託するより外に道がなかった。六月九日「晴。郷里より書留来る。又夏よりも手紙来る。乳の張るたび此乳を呑ます様ならば如何に嬉しからんと思ふなど言ひ越せり。明星を読む。

二十年の汝が世の夢はつらかりし。笑ひて拗(す)ねて恋の歌読め」

 この頃の先生の日記に、夏子夫人と同程度にしばしば出て来る名前は、土佐一中時代からの友人の間崎純知氏と竹崎氏との名前である。小林勇氏の『回想の寺田寅彦』の中に、間崎氏の談話筆記がある。先生はもともと感情をあらわに出す性質ではなかったが、間崎氏等には、時とすると「間崎、おやじはこんなことを言ふんだ」と云って、苦しい胸を打ち明けられたこともあったそうである。

「奥さんには、わたしは会つた事がありませんが、大変美しい立派な人だつたと聞いて居ります。土佐の人で師団長をした坂井将軍の令嬢で、寺田の父が矢張り軍人だつたところから縁が出来たのでせう。

 奥さんが病気になると、その頃は胸の病気といふと大変恐れられてゐた時世で、ほととぎすの武男と浪子のやうな時代ですから、寺田の父親は、寺田の体はもともと丈夫ではないし、大切な一人息子ですから、一緒に置く事を承知しない。それで父親が迎へに来て奥さんは独り土佐へかへり種崎といふ海岸へ転地して療養する事になりました。」

「寺田は淋しくてたまらぬものですから天気が悪いと言つてはやつて来る。風が吹くと言つてはやつて来る。こんな日に何故やつて来るのだときくと、来たくなつたからやつて来たといふのです。」

「今でも思ひ出します。青木堂にゐて、暮れて行く雨の街路を眺め乍ら三人がゐると、何も憂ひを持たぬ竹崎とわたしでさへも何かしんみりした心持になつて行くのでした。まして病んでゐる最愛の妻を遠くへ一人でやつて、家族ともはなれて暮してゐる人のことを思ふ心はどんなだつたでせうか。寺田は奥さんに孤独の生活をさせて置くことはたへられない。傍で慰めてやり度い。心中でもしてしまひ度い位に思つてゐるのに離れて暮さなければならなかつたのです。」

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