『団栗』のことなど

2話 『団栗』のことなど(2)

6,294字 約13分 2017年11月28日 公開

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 間崎氏は、その頃の先生の姿を、「雨や雪の降る天気の悪い日にぐちよぐちよにぬれて現れる寺田の姿を今でも時々思ひ出します」といわれる。今でもというのは、先生の歿後、即ち『団栗』の時代から三十五年後のことである。

 この「ぐちよぐちよにぬれて」友人の下宿へ現われるような生活は、夏休みになって、やっと終りをつげた。六月二十八日、青木堂で干葡萄若干を求め、それを土産として高知へ帰られたのであるが、夏休中の記録は全然残っていない。そして休暇が終って明日帰京という日になって、初めて日記がつけられている。九月三日「明日は出発せんと云ふに頭重く心地悪敷ければ片山医師の診察を乞ふに肺尖加答児(カタル)なりとの事なり。」

 この病気のために、先生は大学を一年休学して、須崎の浜へ転地療養をされることになった。奥さんは種崎、先生は須崎と、離ればなれの療養生活が始まったわけである。そして僅かに手紙の往復によって、互に慰め合うことだけしか許されなかった。先生は時々は高知の家へ帰られた。しかし父も母も知らぬみどり児貞子は、先生の思いを深めるだけであった。十月二十日「貞子熱あり、泣き止まず」「たまぎりなく児、西東を分かず。我れを父と知るや否。母はいづこ浜の松風。」先生の奥へ奥へとはいり込む後年の性格は、天性ばかりではなく、その境遇も預って力あったものであろう。

 種崎における奥さんの病状は、さほど悪いようではなかった。「夜夏より手紙来る 来月二日は浜の秋祭にて縫物あまた頼まれたりなど云ひこしぬ」「浜の竹崎の主婦来る。夏は今日は松露掘に行きたる由」という程度であった。起居はまず普通と見てよかったらしい。

 先生の肺尖加答児も、とり立てて病気というほどでもなかったらしく、須崎と高知との間を何回も往き来して、気ままな保養をするという程度であった。両人とも床に就ききりというのならばまだ諦めもつくが、この程度の症状であったのに、「肺病」という文字だけのために、引き離されて暮さねばならなかったのであった。十一月二十六日、須崎を立って船で高知へ帰って来られる途上、種崎の方に心を惹かれる先生の姿が、日記の中に残っている。「船浦戸に入りて雑喉場(ざこば)の前を過る時種崎の方の岸に見とるらしき女夏に似たり。」

 先生が高知へ帰られると、奥さんも種崎から時々出て来られたようである。十一月九日「夏来る 鰯を持来る。早く帰り去りぬ。」十一月二十九日「夏来る。正木さんの写真持ち来る。亡き人のはいづれ哀なり。夕方帰る。」大抵は泊らずにすぐ辞去されたようである。もっとも正月には、流石に「夏浜より来りて一泊」し、また貞子の初節句の時には、珍しく二泊して「雛の衣桁にかくべき衣縫ふ」というようなはかない喜びの日もあった。

 こういう境遇にあっては、おたがいに手紙が唯一の慰めであったのは当然である。先生の日記には、ほとんど連日のように、「夏へ手紙書く」「夏へ長き長き手紙送る」「夏の日記添刪してホトトギスへ送る」というような文字が見られる。奥さんからは、「自分の今の境遇は波打際の落葉の様なものだと云つて」来たり、同じ病で亡くなった友人の正木さんの余りにも哀れな話を知らせて来たりする。「死ぬる前日出産ありしも元より月足らずにて育たず。亡骸は一つの棺に収めて葬りし余りの哀れさ目もあてられずと。墓は虫なく台場の少し手前と云へば、月の夜さりは磯馴松影新敷標木に落ちて。人の涙は砂を潤さんとそぞろに悲しかり。過ぎし日夏子と袖ふりはえて波止場の夕日に釣垂れし人。父も見ず世を蓑虫の母も見ぬ子の亡骸を擁して松濤寒き影に眠るぞうたて世や。」

 正月を送り、二月が過ぎ、三月に入って、先生の健康は順調に快復して行った。しかし奥さんの方は、依然として同じような状態であったらしい。ただ一人種崎の海岸で、「波打際の落葉の様な」境遇にあった奥さんの健康が、はかばかしく快復しなかったのも当然であろう。

 三月に入って、日記に初めて宗教という文字が見え始める。「午前夏へ手紙認め、宗教の事云ひやる」「夏に「基督信徒のなぐさめ」送る」「教会前にて新約全書一冊求む。夏に遣はす為なり。午後は亮来り又宗教談」「夜高知教会へ行く」というような節々がつぎつぎと見られる。それと同じ頃には又「現今家族制度の弊など論ず」「楠病院なる楠目氏を訪ふ 手術後経過よしとなり弟君も来れり。芦花生の不如帰の話より現今家族制の弊や宗教の話して帰る」という風に、温順な先生も遂に余りにも悲しい二人の生涯に、批判の眼を開かれたようである。

 四月に入って、先生の健康はほぼ快復したので、須崎を引きあげて高知へ帰られた。夏子夫人も一時は大分調子がよく、四月十日貞子の初節句に高知へ帰り、珍しく二泊して「雛の衣桁にかくべき衣」を縫った頃は「帰路片山にて診察受く。大に快しとの事なり」と前途に希望がもてるようであった。しかし五月二十六日の貞子誕生日には、「夏は風邪未だ退かぬ由にて来ず。」そのまま六月に入って病状は悪化の傾向にあったらしい。六月十日「安岡叔母様浜より帰る。夏の熱未ださめず。熱のある際は腹痛もある由。御両上明朝浜へ赴かるゝ由なり。」

 先生の日記の中に種崎の「浜」へ行かれた記事は一つもない。今病状悪化の報に心を痛めつつも、御両上がかわって見舞に行かれるだけで、先生が「肺病」の病人の枕頭に顔を出すことは許されなかった。その間の心の悩みは、ただ日記の欄外に「主の涕を賜へ」と一言洩されただけである。そして翌日「朝御両上種崎へ赴く。夕方帰らる。夏の病気はさしたる事もなしとの事にて安心せり」と、はかない報告に安心して居るよりしかたなかったのである。

 こういう状況のところへ、七月に入って、この薄幸の病人を更に苦しめる事件が起った。それは七月二十五日「愈々(いよいよ)肺病患者は種崎へは住居させぬ由」という事件である。「父上は種崎より長浜へ家の詮議に行く」「種崎と仁井田の境に売家ある由」「又長浜の大工に新築の見積をなさしむる事としたる由なり」と、いろいろ苦慮を重ねられたようである。しかし先生はただ傍観しているより仕方なかった。家にいて「貞にまりをつけとねだられ、庭に出でゝ屋根に投げ上げては受け」て居られた。翌日夜「九時頃、夏、竹崎の主婦と帰り来る。竹崎には愈々置かぬとの事なり。夏はいたく痩せ衰へし様なり。それもさる事なるべし」。

 次の日「父上早朝種崎より浦戸に至り前に相談し置きたる家を借り受け於夏は午後より其方に赴く。」ところがやっと落著けるかと思うと、一日おいてすぐ「浜より竹崎の主婦来り一昨日引移りし家は元来が借家にて家主より苦情を申込みたる由」を報じて来た。こういう事件が精神的にも肉体的にも、この可憐な病人にひびかないはずはない。

 八月十一日「暴風雨。桂浜の茅屋を思ふ」

 八月十三日「朝夢に襲はれて泣く」「夏より端書来る。一昨日より嘔気を催し困難の由報じ来る」「片山医師へ夏の容体に就き意見を聞きに行く 衰弱すべしとの事なり。」事情はだんだん切迫して来る。父君はしばしば桂浜へ行かれる。そして「夜九時頃父上帰宅。夏は嘔気も止み経過良好との事」という報告をされる。

 夏休みもいよいよ終りに近づき、先生の一年間の休学期間も切れて、復校の時期が迫って来た。八月二十一日、別れの言葉をかわすために、先生は初めて桂浜の病床を訪われた。父君も一緒である。「正午より父上と桂浜に行き夏を訪ふ。次第に快き由なり。」「夏は思ひし程衰弱し居らず。戯れに写生帖にハンケチ頸に巻きたる姿を写す。別れ際に我衣の懐のだらしなく膨れたるを見て」とここで日記はぼつんと切れている。その欄外に後から書き入れられた Last interview!!! という文字が悲しく残っている。

 この最後の会見を終えて、先生は東京へ出られる。しかし八月末にはまだ大学は開かれていない。「本郷なる学校へ赴く。扉閉ぢられて人の気なし」という状態である。それで先生は珍しく九月初めから一週間ばかり、江之島逗子に遊ばれた。随筆にある簑田先生の家を訪ね、留守番をされたのは、この時のことである。

 大学の三年生として、先生は研究実験に著手され、かなり忙しい生活が始まった。夏子夫人への手紙も以前よりは、少し間遠おになったようである。しかしいつも念頭からは去らなかったらしい。「今日は夏よりの手紙来らんなと思ひつゝ小石川芭蕉庵に田中子爵を訪ふ 在宅 新築中の邸宅を巡覧す。四時過帰る。夏よりの手紙来れり。返事認む」とか、「午前夏へ端書認め高等学校に行きてオルガン引く」とか、「夏より写真来れり。夜トムソンのダイナモを読む」とかいうような記事が、三四日おきに書き残されている。病状は徐々ながら次第に悪化して行くようである。

 九月から毎日ちゃんとつけられている日記が、十月十三日から三日間空白になっている。そして十六日になって、「夏の病気も又模様よく最早気遣なる事もなかるべしとの事なり。数日来非常に病状悪敷、毎日父上より通報ありしが最早危険はなき由」と書きつけてある。毎日の父上よりの通報に、心を痛められている先生の姿が、空白の日記帖の中にありありと見えるようである。日記は再び始まり、田丸節郎氏へ「約束のバイオリン曲譜を持」って行ったり、「高等学校へ寄りピアノ」を弾いたり、「三河島迄散策」したりして居られる。しかし三日ばかりして、又空白が九日ばかりつづく。そして十一月十五日の記事には「理科大学懇親会」という簡単な一行の次に、「夏夜十時死去」と鉛筆の追記がある。この日記帖は当用日記であって、上段に毎日格言が印刷されている。たまたまこの日の言葉は、「死後も尚貴きは徳行のみ」というのである。その言葉の下には、先生の手による波線が施されて残っている。

 翌十一月十六日「午前四時夏危篤の報あり。次で六時絶息の報あり 十二時新橋発急行。坂井両上送り来る。昨夜会より帰りて床に就かんとする頃、胸さわぎ一しきりしたるが恰も夏の臨終の刻なりしと思合はされたり。此朝第二の電報の未だ来ぬ前、暁の鴉夥しく屋根に鳴き騒ぎたり」。十九日埋葬をすませて、一週間で又東京へ帰って来られた。それからは『回想の寺田寅彦』にある間崎氏や竹崎氏への訪問がますますしげくなる。「夜竹崎を訪ひ、共に神楽坂の洋食屋に行き九時過迄亡き人の事物語りす。」「竹崎と間崎に到り例により、上野より万世に出で神楽坂の青陽楼にて食事。又和良店の隣なる間崎君の舎弟の下宿に到り、法律の話より霊魂不滅の議論となり十二時帰る。宿に着きしは一時過なりし」というような生活がかなりつづいたようである。

 十二月二十四日「今夜は夏の御魂移し十一時より執り行はるべき筈なり」欄外に

亡き魂と親しむや窓の小夜しぐれ

『団栗』の最後は次の一章で結んである。

「団栗を拾つて喜んだ妻も今はない。御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。山には団栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。今年の二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、此植物園へ遊びに来て、昔ながらの団栗を拾はせた。こんな些細な事に迄、遺伝と云ふやうなものがあるものだか、みつ坊は非常に面白がつた。五つ六つ拾ふ毎に、息をはずませて余の側へ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。段々得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くして嬉しさうな溶けさうな顔をする。争はれぬ母の面影が此無邪気な顔の何処かの隅からチラリとのぞいて、うすれかゝつた昔の記憶を呼び返す。『おとうさん、大きな団栗、こいも/\/\/\/\みんな大きな団栗』と小さい泥だらけの指先で帽子の中に累々とした団栗の頭を一つ一つ突つつく。『大きい団栗、ちいちやい団栗、みいんな利口な団栗ちやん』と出たらめの唱歌のやうなものを歌つて飛び/\しながら又拾ひ始める。余は其罪のない横顔をぢつと見入つて、亡妻のあらゆる短所と長所、団栗のすきな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支へはないが、始めと終りの悲惨であつた母の運命だけは、此児に繰返させ度くないものだと、しみ/″\さう思つたのである」。

 御霊移しがすんで、一日おいて先生は、興津から修善寺へ数日遊ばれた。Rayleigh の Sound の耽読がはじまったのは、この小旅行中のことである。

 明けて明治三十六年の元旦は、東京の下宿で迎えられた。「暖にて初日影も柔かに拝まれた」よい日であった。しかし「おとゞしの正月の事何くれと思出」された。いやな思いをしながら不衛生な下町の「流浪」の生活をつづけた末に、やっと西片町の気に入った家で、夏子夫人と初めて正月を迎えられた。しかしその時には既に、若い可憐な奥さんの身体には、不治の病がひそみ込んでいたのであった。「おとゞしの正月の事何くれと思出」されるのも無理のない話である。

 苦しいそして美しい思い出は、日の経つにつれて、柔かな暈光をおびて来る。四月五日の日曜日、晴れた春の陽を浴びて、「竹崎と植物園に行く 温室には珍しき草の花数知れず。桜も今を盛りなり。ヒアシンスの紅白紫に咲き乱れたるは更に美し。昔ながらの園生の錦、昔しの人をしのぶ種も沢(さわ)なり」。

 思い出に美しい紗のカーテンがかかって来た。それには漱石先生が、この年の一月に倫敦(ロンドン)から帰って来られ、その家への出入りが再び頻繁に始まったことも、あずかって力があったのであろう。それに卒業実験も忙しくなり、また本もよく読まれ、物理学へ没入して行かれた。

 この間に日露の関係は次第に険悪になり、ついに翌三十七年に戦争がはじまった。先生は大学院で実験物理学を専攻することになっていたが、初めは地球物理学方面の仕事が多かった。そして日露開戦の二月には、熱海の間歇泉の研究を本多光太郎先生と一緒にされていた。

 夏目先生も、戦争とは余り関係のない『猫』の生活をして居られた。三十八年の一月二日旅順陥落の報に国中湧き立っていた日、先生は溝淵氏方で屠蘇をよばれ、椎茸を噛んで前歯一枚を折った。『猫』はこの一月から『ホトトギス』に連載された。そして『団栗』はその四月に、同じ『ホトトギス』に出たのである。

『団栗』が書かれたことは、もう思い出の中から、苦(にが)いものが消えたことを示すものであろう。そしてこの年の八月に、先生は浜口真澄氏の令嬢寛子と結婚をされた。寛子夫人との生活で、先生は再び幸福をとり戻されたようである。先生が日記をつけられない日には、寛子夫人が時々代って書いて居られる。十一月十六日(寛子記)「今日は貞子母上の五年祭とて心ばかりの祭をなす。」十二月十九日「旦那様昨夜より風邪の御気味にて学校は御休み」と書かれるような奥さんであった。しかしこの奥さんも大正六年、先生四十歳の時に亡くなられた。

「みつ坊」はずっと郷里高知の家で育てられ、大正三年に高知の家が引き払われるまで、ずっと祖父母の手許にいた。女学校に入って初めて父の手に戻った「みつ坊」は、寛子母上の死を送り、先生の吐血から始まる二年間の療養生活を看とり、それから結婚をした。しかし数年にして夫に死別し、遺児を育てるために婚家に止った。それが「始めと終りの悲惨であつた母の運命だけは、此児に繰返させ度くないものだと」願って居られた先生には、かなりの傷手であったようである。晩年の先生は、「みつ坊」のことは滅多に話されなかった。稀れに話が出ても、一言か二言で話をそらされるのが常であった。(二二、一一、一五)

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