即興詩人

28話 即興詩人(28)

8,010字 約16分 2005年9月18日 公開

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 僧堂を辭し去る(あした)、大空は灰色の(うすぎぬ)を被せたる如くなりき。岸には腕たしかなる漕手(こぎて)幾人か待ち受け居て、一行を舟に上らしめたり。(ともづな)を解きてカプリに向ふ程に、天を覆ひたりし紗は次第に(ちぎ)れて輕雲となり、大氣は見渡す限澄み透りて、水面には一波の起るをだに認めず。美しきアマルフイイは巖のあなたに隱れぬ。ジエンナロは(しりへ)を指ざして、かしこにてはわれ薔薇を摘み得たりと云ふ。われは(うなづ)きて、心の中にはこの男の強顏(きやうがん)なることよ、まことは(はり)に觸れて自ら傷けしものをとおもひぬ。

 舟のゆくては杳茫(えうばう)たる蒼海にして、その(いた)る所はシチリアの島なり、あらず、亞弗利加(アフリカ)の岸なり。ゆん手の方は巖石屹立したる伊太利の西岸にして、所々に大なる洞穴あり。洞前に小村落あるものは、其幾個の人家、わざと洞中より這ひ出でゝ、背を日に(さら)すものゝ如く、洞の直ちに水に臨めるものゝ前には漁人の火を焚き食を調へ又は小舟に(チヤン)を塗れるあり。

 舷下の水は(あを)くして油の如し。試みに手をもて探れば、手も亦水と共に碧し。舟の影の水に落ちたるは極て濃き青色にして、()の影は濃淡の紋理ある青蛇を畫けり。われは聲を放ちて叫びぬ。げに美しきは海なる哉。若し彼蒼(ひさう)の大いなるを除かば、何物か能く之と美を《くら》ぶべき。我は幼かりし時、地に仰臥して天を觀つるを思ひ出でぬ。今見る所の海は即ち當時見し所の天にして、譬へば夢の一變して(うつゝ)となれるが如し。

 舟はイ、ガルリといふ巖より成れる三小嶼(せうしよ)の傍を過ぎぬ。そのさま海底より石塔を築き上げて、その上に更に石塔を(たふ)し掛けたる如し。青き波は緑なる石を洗へり。想ふに風雨一たび到らば、このわたりは群狗(ぐんく)吠ゆてふ鳴門(なると)(スキルラ)の(くわい)(すみか)なるべし。

 不毛にして石多きミネルワの(みさき)は、眠るが如き(うしほ)これを(めぐ)れり。いにしへ妙音の女怪の住めりきといふはこゝなり。而してカプリの風流天地はこれと相對せり。いにしへチベリウス帝が(おごり)をきはめ情を(ほしいまゝ)にし、灣頭より眸を放ちて拿破里(ナポリ)の岸を望みきといふはこゝなり。

 舟人は帆を揚げたり。我等は風と波とに送られて、漸くカプリの島邊に近づきぬ。水のまことの清さ、まことの(あか)さを知らんと欲せば、この海を見ざるべからず。舷に倚りて水を望めば、一塊の石、一叢の藻、歴々として數ふべく、晴れたる日の空氣といへども、恐らくはこの玲瓏(れいろう)透徹なからんとぞおもはるゝ。

 カプリの島は唯だ一面の近づくべきあるのみ。その他は皆(けづ)り成せる斷崖にして、その地勢拿破里に向ひて級を下るが如く、葡萄圃と橘柚(オレンジ)橄欖(オリワ)の林とは交る/″\これを覆へり。岸に沿へる處には、數軒の蜑戸(たんこ)一棟(むね)哨舍(ばんごや)とを見る。(やゝ)高き林木の間に、屋瓦の(そう)を成せるはアンナア、カプリイの小都會なり。一橋一門ありてこれに通ず。一行は棕櫚(しゆろ)の木立てるパガアニイが酒店の前に歩を留めつ。

 我等はこゝに朝餐(あさげ)して、公子夫婦は午時(ひるどき)まで休憩し、それより(うさぎうま)(やと)ひてチベリウス帝の別墅(べつしよ)(あと)を訪はんとす。われは憩はんこゝろなければ、ジエンナロと共に此島を一周し、南に突き出でたる大石門をも見ばやとて、漕手二人を呼び、岸なる舟に乘り(うつ)りぬ。

 風少し起りたれば、我等は行程の半ばばかり帆の力に頼ることを得べし。巖壁に近き處には、漁人の網を張りたるあれば、舟はこれを避けて沖の方に進みぬ。既にして奇景の人目を驚すに足るものあるを見る。灰色なる巨石の直立すること千丈なるあり。その頂は天を摩し、所々僅に一石塊を()るべき罅隙(かげき)を存じて、蘆薈(ろくわい)若くは紫羅欄(あらせいとう)これに生じたり。青き焔の如き波に洗はれたる低き岩根には、紅殼(べにがら)毛星族(まうせいぞく)(クリノイデア)いと(しげ)く着きたるが、その紅の色は水を(かぶ)りて愈紅に、岩石の波に觸れて血を流せるかと疑はる。

 既にして我等は海を右にし島を左にする處に至りぬ。水を呑吐する大小の(いはや)許多(あまた)ありて、中には波の返す毎に僅かに其天井を(あらは)すあり。こは彼妙音の女怪のすみかにして、草木繁茂せるカプリの島は唯だこれを(おほ)へる屋上(やね)たるに過ぎざるにやあらん。

 漕手の一人なる白髮の翁のいふやう。這裏(このうち)には惡しきもの住めり。人若し(あやま)ちて此門に入るときは、多くは再びこれを出づることを得ず。その或は又出づるものは、痴なるが如く狂せるが如く、()た尋常人間の事を解せずといふ。往手(ゆくて)のかたに稍大なる一窟あり。されど若し舟に(さを)さしてこれに入らんとせば、帆を(おろ)し頭を屈するも、猶或は難からんか。(かぢ)取りの年(わか)き男のいふやう。これ魔窟なり。黄金珠玉その内にみち/\たれど、これを探らんとするものは妖火のために身を()かる。げにいふだに恐ろしき事なり。尊きルチアよ、(サンタ、ルチア)我を護り給へといふ。ジエンナロ。彼妙音の女怪の一人此舟の中に來ぬこそ殘惜しけれ。その容色はいと好しとぞ聞く。さるものを待遇せんは、わが(ともがら)(かた)んぜざるところぞ。われ。おほよそ女といふ女のおん身の言に從はぬはあらざるべければ、()しやうのものなりとも、其數には洩れぬなるべし。ジエンナロ。接吻し囘抱するは波濤(はたう)の常態なれば、その上に(うか)べるものも之に(なら)ふべき筈ならずや。(せめ)ては彼アマルフイイの女房をなりとも、共に載せて來べかりしものを。げに得易からぬ女なり。(しか)おもひ給はずや。おん身も一たびは彼唇の味を試み給ひぬ。われはその人前にておとなしぶりたるを怪しとおもふなり。(うら)むらくはおん身はその夜のさまを見給はざりき。その迎ふる情の熱さは我が送る情の熱きに讓らざりき。ジエンナロが此詞は遂に我をして耐へ忍ぶこと能はざらしむるに至りぬ。我はいと冷かに、されどわが(かの)夕見しところは、いたくおん詞と(たが)へりといひぬ。ジエンナロは驚きたる面持(おももち)して、暫し我顏を打ち守りつゝ、何とかいふ、おん身の詞は()し難しと問ひ返しつ。われ重ねて、おん身の女子にもてはやされ給ふべきをば、われ露ばかりも疑はねど、彼夕はわれふと同じ處に落ち合ひてまことのさまを目撃したり、さればわれは始よりおん身の詞の戲言(ざれごと)なるべきを知りぬといふ。ジエンナロは猶(いぶか)しげに我顏を見て一語をも出さゞりき。われ微笑(ほゝゑ)みつゝジエンナロが前夜の口吻を眞似(まね)て、おん身のけふ我に惜みて彼馬鹿者に與へ給ひし接吻を取返さでは歸らずといひたり。ジエンナロの面は血色全く失せて、さてはおん身は立聞せしか、おん身は我を(はづかし)めたり、我と決鬪せよといふ。其聲(きはめ)(ひやゝか)に、極てあらゝかなりき。わが實を述べたる一語の、此の如く(かれ)を激せんことは、わが預期せざる所なりき。われは(しづ)かに、ジエンナロよ、そはよも眞面目なる詞にはあらじといひて、其手を握りしに、ジエンナロは手を引き面を(そむ)け、舟人に(くが)に着けよと命ぜり。老いたる方の漕手答へて、舟を停むべきところは、さきに漕ぎ出でしところの外(たえ)て無ければ、是非とも島を一周せでは叶はずといひつゝ、《ろ》を(うごか)す手を急にしたり。舟は深碧の水もて(めぐら)されたる高き岩窟(いはや)に近づきぬ。ジエンナロは杖を(ふる)ひて舷側の水を打てり。われは且怒り且悲みて、傍より其面を打ち目守(まも)りぬ。爾時(そのとき)(わか)き漕手いと(あわた)だしく、龍卷(ウナ、トロムバ)と叫べり。その瞠視(みつめ)たる方を見れば、ミネルワの岬より起りて、斜に空に向ひて竪立(じゆりつ)せる一道の黒雲あり。形は圓柱の如く、色は濃墨の如し。その四邊(あたり)の水、恰も鍋中の湯の滾沸(こんふつ)せるが如くなり。ジエンナロはいづかたに避くるかと問へり。少年は後々(あと/\)といへり。われ。されば又全島を巡らんとするか。少年。風なき方の岩に沿うて漕がん。龍卷は島を離れて走る如し。翁。此小舟の若し岩に觸れて碎けずば幸なり。語未だ畢らず、龍卷の(むき)は一轉せり。一轉して吾舟の方に進めり。その()きこと(へうふう)の如し。舟若し高く岩頭に吹き上げられずば、必ず岩根に()ひて千尋(ちひろ)の底に()し沈めらるべし。われは翁と共に《ろ》を握りつ。ジエンナロも亦少年を(たす)けて働けり。されど風聲は早く我等の頭上に鳴りて、狂瀾は既に我等の脚下に(ひるがへ)れり。二人の漕手は異口同音に、尊きルチア、助け給へと叫びつゝ、を捨てゝ跪拜せり。ジエンナロ聲を(はげま)して、などを捨つると叱すれども、二人は喪心せるものゝ如く、天を仰いで凝坐(ぎようざ)す。われは忽ち乘る所の舟の、木葉の旋風に(もてあそ)ばるる如きを覺え、暗黒なる物の左舷に迫るを視、舟は高く高く登り行けり。飛瀑の如き水は我頭上に(そゝ)ぎ、身は非常なる氣壓の加はるところとなりて、眼中血を(ほとばし)らしめんと欲するものゝ如く、五官の能既に廢して、わが絶えざること(いと)の如き意識は唯だ死々と念ずるのみ。われは終に昏絶(こんぜつ)せり。

   夢幻境

 わが再び眼を開きし時の光景は、今猶目に在ること、彼壯大なる火山の活畫の如く、又彼沈痛なるアヌンチヤタの別離の記念の如し。我身を(めぐ)れるものは、八面皆碧色なる(かうき)にして、俯仰(ふぎやう)の間(もの)として此色を帶びざるはなかりき。試みに(ひぢ)を擧ぐれば、忽ち無數の流星の身邊に飛ぶを見る。われは身の既に死して無際空間の氣海に漂へるを覺えたり。我身は(まさ)に昇りて天に()せる父の(もと)に往かんとす。然るに一物の重く我頭上を壓するあり。是れ我罪障なるべし。此物はわが昇天を妨げ、我身を引いて地に向へり。而して冷なること海水の如き(かうき)は我顱頂(ろちやう)の上に注げり。

 われは心ともなく手を伸べて身邊を()し、何物とも知られぬながら、竪き物の手に觸るゝを覺えて、しかとこれに取り付きたり。我疲勞は甚だしく、我身には()た血なく、我骨には復た(ずゐ)なきに似たり。我魂は天上の法廷に招かれ、我骸(わがかばね)は海底に(よこたは)れるにやあらん。われは(わづか)にアヌンチヤタと呼びて、又我眼を閉ぢたり。

 われはこの人事不省の境にあること久しかりしならん。既にしてわれは己れの又呼吸するを覺え、我疲勞の稍恢復すると共に、我意識は稍鬯明(ちやうめい)なりき。我身は冷にして堅き物の上に在り。こは一の巨巖の頭なるべし。而して此巖は高く天半に聳えたるものゝ如く、彼の光ある碧色の(かうき)のこれを(めぐ)れる(さま)は、(さき)に見しと殊なることなし。天は碧穹窿をなして我を覆ひ、怪しき圓錐形の雲ありてこれに浮べり。雲の色は天と同じく(あを)かりき。四邊(せき)として音響なく、天地皆墓穴の靜けさを現ず。われは寒氣の骨に徹するを覺えたり。われは(しづ)かに頭を(もた)げたり。我衣は青き火の如く、我手は磨ける(しろかね)の如し。されどこの怪しき身の(むなし)き影にあらずして、(じつ)なる形なるは(あきらか)なりき。我は疲れたる腦髓に鞭うちて、強ひて思議せしめんとしたり。われは眞に既に死したるか、又或は猶生けるか。われは手を()べて身下の碧氣を探りしに、こは冷なる波なりき。されどその我手に觸れて火花を散らす(さま)は、酒精(アルコール)の火に殊ならず。我側には怪しき大圓柱あり。その形は小なれども、()(さき)に見つる龍卷に似て、碧き光眼を射たり。こはわが未だ(のぞ)かざる驚怖の幻出する所なるか、將た未だ()えざる記念の化現(けげん)する所なるか。暫しありて、われは手をもてこれを摸することを敢てしたるに、その堅くして冷なること石の如くなりき。摸して後邊に至れば、手は堅く滑なる大壁に觸る。その色は暗碧なること夜の天色の如し。

 そも/\われは何處にか在る。前に身下に積氣(せきき)ありとおもひしは、燃ゆれども熱からざる水なりき。我四圍を照すものは、彼燃ゆる水なるか、さらずば彼穹窿と巖壁と皆自ら光を放つものなるか。こは幽冥の境なるか、わが不死の靈魂の宅なるか。われは現世に此の如き境ありとおもふこと能はず。凡そ身邊の物、一として深淺種々の碧光を放たざることなく、我身も亦内より碧火を發して、その光明は十方を照すものの如し。

 身に近き處に大石級あり。(らうかん)もて(けづ)り成せるが如し。これに登らんと欲すれば、巖扉(みつ)に鎖して進むべからず。(すゐ)するに、こは天堂に到る階級(きざはし)にして、其門扉は我が爲めに開かざるならん。我は一人の怒を(もたら)して地下に入りぬ。ジエンナロはいかにしたるぞ、又二人の舟人はいかにしたるぞ。

 われは獨り此境に在り。我母を(おも)ひ、ドメニカをおもひ、フランチエスカの君をおもひ、我記憶の常に異ならざるを知りぬ。さればわが見る所のものは、必ず幻影に非ざるならん。我は(もと)の我なり。只だ在るところの境の幽明いづれに屬するかを辨ずること能はざるのみ。

 彼邊の壁に罅隙(かげき)ありて、一の大なる物を安んず。手もて摸すれば銅の(はち)なり。その内には金銀貨を盛りて溢れんと欲す。われは此異境の異の愈益甚しきを覺えたり。

 地平線に接する處に、我身を距ること甚だ遠からず、青光まばゆき一星ありて、その清淨なる影は波面(なみのも)に長き尾を曳けり。われは俄に彼星の、譬へば日月の(しよく)の如く、其光を失ふを見たり。既にして黒き物の其前に現るゝあり。諦視(ていし)すれば、一葉の舟の、海底より湧き出でもしたらん如く、燃ゆる水の上を走り來るにぞありける。

 その漸く近づくを(うかゞ)へば、靜かに《ろ》を(うごか)すものは一人の老翁なり。の一たび水を打つごとに、波は薔薇花紅(ばらいろべに)を染め出せり。舟の(へさき)に一人の(うづくま)れるあり。その形女子(をみなご)に似たり。舟は漸く近づけども、二人は口に一語を發せず、その動かざること石人の如く、動くものは唯だ翁が手中ののみ。忽ち聲ありて、一の長大息の如く、我耳に入り來りぬ。その聲は(かつ)て一たび聞けるものゝ如くなりき。

 舟は岸に近づきて()(ゑが)き、我が()ちて望める(ほとり)に漕ぎ寄せられたり。翁が手はを放てり。女子はこの時もろ手高くさし上げて、(あはれ)に悲しげなる聲を揚げ、神の母よ、我を見棄て給ふな、我は仰を畏みてこゝに來たりと云へり。われは此聲を聞きて一聲ララと叫べり。舟中の女子は彼ペスツム古祠の畔なる瞽女(ごぜ)なりしなり。

 ララは我に(むか)ひて起ち、聲振り絞りて、我に光明を授け給へ、我に神の造り給ひし世界の美しさを見ることを得させたまへと祈願したり。その聲音(こわね)尋常(よのつね)ならず、譬へば泉下の人の假に形を現して物言ふが如くなりき。我即興詩は(みだ)りに混沌の(あな)穿(うが)ちて、少女に宇宙の美を教へき。今や少女は()せずして我前に來り、我に眼を開かんことを()へり。われは少女の聲の我心魂に徹するを覺えて、口一語を出すこと能はず、只だ手を少女の方にさし伸べたるのみ。少女は再び身を起して、我に光明を授け給へと唱へかけしが、張り詰めし氣や(ゆる)みけん、小舟の中にはたと伏し、舷側(ふなばた)なる水ははら/\と火花を飛しつ。

 翁は暫く身を屈して、少女のさまを(うかゞ)ひ居たるが、やをら岸に登りて、きと眼を我姿に注ぎ、空中に十字を書し、彼大銅鉢(だいどうはつ)を抱いて舟中に移し、己も續いて乘りうつれり。われは思慮するに(いとま)あらずして、同じく舟に上りしに、翁は我を迎へんともせず、さればとて又我を(こば)まんともせず、只だ目を《みは》りて我を視るのみ。翁は又|《ろ》を握りて、彼青き星に向ひて漕ぎ行けり。冷なる風は舟に向ひて吹き來れり。舟は巖窟の中に進み入りて、我等の頭は巖に觸んとす。われは身をララの上に俯したり。(たちまち)にして舟は杳茫(えうばう)として(かぎり)なき大海の上に出でぬ。(かうべ)(めぐら)せば、斷崖千尺、斧もて削り成せる如くにして、乘る所の舟は崖下の小洞穴より(くゞ)り出でしなり。

 新月の光は怪しきまでに清澄なりき。斷崖の一隅に(がん)の形をなしたる低き岸あり。灌木(まばら)に生じて、深紅の花を開ける草之に(まじ)れり。岸邊には一隻の帆船を繋げるを見る。翁は小舟を其側に留めしに、少女は期する所ある如く、身を起して我に向へり。われはその手に觸るゝことをだに敢てせずして、心の(うち)に我が遇ふ所の夢に非ず幻に非ず、さればとて又(うつゝ)にも非ず、人も我も遊魂の陰界に相見るものなるべきを思ひぬ。少女は、いざ藥草を采りて給へと云ひて、右手(めて)を我にさし着けたり。われは鬼に(えき)せらるるものゝ如く、岸に登りて彼(かぐは)しき花を摘み、束ねて少女に遞與(わた)しつ。この時われは堪へ難き疲を覺えて、そのまゝ地上に(たふ)れ臥したり。われは猶首を(もた)げて、翁が手快(てばや)くララを彼帆船に抱き上げ、わが摘みし花束をも移し載せて、自らこれに乘りうつり、小舟を(とも)に結び付けて、帆を揚げて去るを見たり。されど我は身を起すこと能はず、又聲を出すこと能はずして、徒らに身を悶え手を振るのみ。我は死の我心(わがむね)に迫りて、心の裂けんと欲するを覺えたり。

   蘇生

 かくては性命の(おそれ)はあらじとは、始て我耳に入りし詞なりき。われは眼を開いてフアビアニ公子と夫人フランチエスカとを見たり。されど彼語を出しゝは、我手を握りて、眞面目なる思慮ありげなる目を我面に注ぎたる未知の男なりき。我は廣闊にして敞明(しやうめい)なる一室に臥せり。時は白晝(まひる)なりき。われは身の(いづく)の處にあるを知らずして、只だ熱の脈絡の内に(おこ)りたるを覺えき。わがいかにして救はれ、いかにしてこゝに來しを(つまびらか)にすることを得しは、時を經ての後なりき。

 きのふジエンナロとわれとの歸り來ざりしとき、人々はいたく心を苦め給ひぬ。我等を載せて出でし舟人を尋ぬるに、こも行方(ゆくへ)知れずとの事なりき。さて島の南岸に沿ひて、龍卷ありしを聞き給ひしより、人々は早や我等の生きて還らざるべきを思ひ給ひぬ。搜索の爲めに出し遣られし二艘の舟は、一はこなたより漕ぎ往き、一はかなたより漕ぎ戻りて、末遂に一つところに落ち合ふやうに(おき)てられしに、その舟皆歸り來て、舟も人もその踪跡(そうせき)を見ずといふ。フランチエスカの君は我がために涙を墮し給ひ、又ジエンナロと舟人との上をも惜み給ひぬと聞えぬ。

 その時公子の宣給(のたま)ふやう。かくて思ひ棄てんは、猶そのてだてを盡したりといふべからず。若し舟中の人にして、或は浪に打ち揚げられ、或は自ら(およ)ぎ着きて、巖のはざまなどにあらんには、人に知られで飢渇の苦艱(くげん)を受けもやせん。いでわれ(みづか)ら往いて求めんとて、朝まだきに力強き漕手(こぎて)四人を(やと)ひ、(みなと)舟出(ふなで)して、こゝかしこの洞窟より巖のはざまゝで、名殘(なごり)なく尋ね給ひぬ。されど彼魔窟といふところには、舟人(いな)みて行かじといふを、公子強ひて説き勸め、草木生ひたりと見ゆる岸邊をさして漕ぎ近づかせしに、程近くなるに從ひて、人の(たふ)れ臥したりと覺しきを認め、さてこそ我を救ひ取り給ひしなれ。われは緑なる灌木の間に横はり、我衣は濱風に吹かれて半ば乾きたりしなり。公子は舟人して我を舟に(たす)け載せしめ、おのれの外套もて被ひ、手の(さき)胸のあたりなど()り温めつゝ、早く我呼吸の未だ絶え果てぬを見給ひぬといふ。われはかくてこゝに伴はれ、醫師(くすし)の治療を受けつるなりけり。

 さればジエンナロと二人の舟人とは魚腹に(はうむ)られて、われのみ一人再び天日を見ることゝなりしなり。人々は我に當時の事を語らしめたり。われは光まばゆき洞窟の中に()めしを姶とし、目しひたる少女を載せ來し翁に遭へるに至るまで、そのおほよそを語りしに、人々笑ひて、そは熱ある人の寒き夜風に觸れ、半醒半夢の間にありて妄想せるならんといへり。げにわれさへ事の餘りに怪しければ、夢かと疑ふ心なきにしもあらねど、また(つく/″\)思へばしかはあらじと思ひ返さざることを得ず。かへす/″\も()しく怪しきは、彼洞天の光景と舟中の人物となり。

 我物語を傍聽(かたへぎゝ)せし醫師は公子に向ひ頭を傾けて、さては君の此人を搜し得給ひしは彼魔窟の(ほとり)なりけるよといひぬ。公子。さなり。さりとて君は世俗のいふ魔窟に、まことに魔ありとは、よも思ひ給はじ。醫師。そは(たやす)く答へまつるべうもあらぬ御尋なり。自然は謎語(なぞ)鉤鎖(くさり)にして吾人は今その幾節をか解き得たる。

 我心は次第に爽かになりぬ。(そも/\)わが見し洞窟はいかなる處なりしぞ。舟人の物語に、この石門の奧に光りかゞやくところありといひしは、わが(たゞよ)ひ着きし別天地を()して言へるにはあらざるか。かの怪しき翁の舟の、狹き穴より(くゞ)り出しをば、われ明かに記憶せり。夢まぼろしにてはよもあらじ。さらば彼洞窟は幽魂の往來(ゆきき)するところにして、我は一たび其境に陷り、聖母(マドンナ)の惠によりて又現世(うつしよ)に歸りしにや。われはかく思ひ(まど)ひつゝも、わが(たなぞこ)を組み合せて彼舟中の少女の上を懷ひぬ。まことに彼少女は我を救へる天使なりき。

 年經て我夢の夢に非ざることは明かになりぬ。彼洞窟は今カプリ島の第一勝、否伊太利國の第一勝たる琅洞(らうかんどう)(グロツタ、アツウラ)にして、舟中の少女も亦實にかのペスツムの瞽女(ごぜ)ララなりしなり。

   歸途

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