5話 五 理科と迷信とは両立せず
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理科を発達せしめるには理科的精神を養成しなければならぬが、理科的精神とは前に述べたとおり書物に書いてあることでも、他人から聞いたことでも、ただちにそのままに信ずるごときことをなさず、できる限り実物について照らし合わせ、もし疑うべきことがあれば、さらにこれを研究するという精神で、語をかえて言えば何事もまず疑い、次に研究によってその解釈を求めるという精神である。すなわち信ずべき理由を見いだせば信じ、疑うべき理由のある間は疑い、いずれともにさらに研究を進めるのが理科的精神で、この精神をもって自然界に対し、研究を怠らなければ理科は必ず進歩し、その応用の途も必ず開ける。この精神と正反対に位するものは迷信である。迷信とはその時代相当の知識をもって考えて、とうてい信ずべき理由のないことをみだりに信ずるのを名づける。理科は疑いによって始まり、研究によって進歩するものであるから、話して聞かされたことを頭から信じてかかる迷信とは、性質上とうてい両立することはできぬ。理科に適する脳髄は迷信には適せず、迷信に適する脳髄は理科に適せず、同一の脳髄をもって理科と迷信とを兼ねつとめることはできぬから、理科を奨励することは、すなわち迷信を退けることにあたる。もっとも人間の知識は次第に進歩するものゆえ、今日真理と見なされることが、将来には迷信と名づけられる時がくるやもしれぬ。歴史を見れば、多くの「真理」なるものは初め異端の説として現われ、暫時もっぱら行なわれたるのち、ついには迷信として葬られるのが定例のごとくであるから、今日の真理もあるいは一時的の真理かもしれぬが、これはやむをえない。われらは時代相当の知識を標準として、迷信とみなすべきものを迷信として論ずるよりほかに途はないのである。さて今日わが国の状態を見ると、迷信とみなすべきものの行なわれていることはきわめて多い。これがすなわちわが国に理科的精神の普及せぬ証拠で、これを見ても理科教育をいっそう盛んにせねばならぬことが知れる。数日前のある新聞に、ある地方の寺で和尚と小僧とが喧嘩をして、小僧は鬱憤のあまり刀をもって寺の本尊なる木製の仏像を切ったところが、仏像の眼に涙が出たとの噂が広まって、そのため日々数千人の参詣者があって、寺は大繁昌であるとの記事があったが、かようなことを信ずるに適した脳髄を有する人がわが国にはまだなかなか多い。先年鶴見近在のお穴様の繁昌したときには、参詣人を相手にする永久的建築の店家が五百軒もできて、線香の煙りがはるかにへだたったところからもよく見えた。電車の中には占いの広告が並んであり、毎日の新聞紙上には九星運命の記事が掲げてある。どこの国でも全く迷信のないところはないが、二十世紀の一等国としては、わが国はあまりにはなはだしいように思う。かような頭を持った人間が大多数を占めているようでは、年々非常な速力で理科知識応用の進みつつある他の一等国にまけぬように競争してゆくことが果たしてできるであろうか。