6話 六 昔の迷信政治
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今日の立憲政治国には決してないことであるが、昔はずいぶん迷信によって民を治めようとしたところがある。主権者を神の代表者なりと信ぜしめ、主権者の意志はすなわち神の意志であるから絶対に服従すべきものであると教え、これにそむく者は神の代表者なる主権者によって厳罰に処せられるという仕組みにして民を治めようとしたが、これは治める側から見ればきわめて都合のよい仕組みで、もし完全に行なわれさえすれば、何の困難もなく長く治めてゆくことができる。また治められる側から見ても主権者があまり無法なことをせず、民を愛撫してくれさえすれば喜んで長く治められ、泰平を謳歌して子々孫々無事を楽しむことができるであろう。それゆえ、迷信によって民を治めるということは、その時だけのことを考えると、しいて非難すべきものではなく、暫時なりとも、それによって国が治まり、民が安楽に暮らせるならば、かえって賞讃すべき価があるかもしれぬが、世が進み隣国との交通も開け、人民の思想が広くなってくると、いつまでも昔のままに迷信を保たしておくことが困難になり、治める側に立つ者は、いきおいあるいは坊主を雇い入れたり、あるいは教員に命令を下したりして、迷信の保存に力をつくさなければならぬように立ちいたる。かくしてわざわざ力をつくして迷信の保存をつとめるようになれば、自然の結果として、何事に対しても疑いを起こすごとき傾向を防ぎ、人民の研究心をおさえることになるから、理科的知識の発達は是非ともそのために障害せられ、文明の進歩はきわめて遅くなるはやむをえない。世の中に国が一つよりない場合には単に国が治まり、民が幸福でありさえすればよいのであるから、もし迷信によってこの目的が達せられるならば、それでまことに結構であるが、地球上にはたくさんの国があって、これがおのおの力をきわめて互いにはげしい競争をしている以上は、単に国内の平穏無事のみを目的として安心してはおられぬ。必ず他にまけぬだけに進歩しなければならぬが、この方面から考えると、迷信をもって民を治めるということには大いなる害がある。