8話 生きた手首
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西村正一君は小学校の六年生ですが、その晩、二階にある自分の勉強部屋で、宿題をやっていました。
窓のむこうに、おとなりの松波博士の新築の家の二階が見えます。十メートルぐらいしか、はなれていないのです。そこに見えるのは、広い洋室で、まだ、壁紙をはったばかり、なにも道具のおいてない、がらんとした部屋です。たった一つ部屋のまんなかに、小さい丸テーブルがおいてあるばかりです。しかし、電灯はりっぱなのが、ちゃんとついています。てんじょうからガラス玉のたくさんついたシャンデリヤがさがって、部屋の中をあかあかと照らしているのです。
窓には四枚の大きなガラス戸が、ピッタリしまっていますが、一枚のガラス戸なので、中は手にとるように見えます。
その部屋には、ずっと、だれもいず、電灯だけがついていたのですが、しばらくすると、むこうがわの壁の左のはしにあるドアがあいて、ひとりの上品な老人がはいってきました。正一君は知りませんでしたが、それは主人の松波博士なのです。いま、研究所から帰ってきたのかもしれません。
老博士は、小さな木の箱をだいじそうに、持っていましたが、それを、部屋のまんなかのテーブルの上において、ふたを開こうとしています。そのとき、ドアの外から、だれかが呼んだらしく、博士はそのほうをむいて、なにかいっているようすで、しきりに口を動かしていましたが、「うるさいなあ。」というような顔で、いそいで、ドアの外へ出て行きました。
木の箱はテーブルの上にのせたままです。すぐもどってくるつもりで、そのままにして出ていったのでしょう。
しかし、博士はなかなかもどってきません。道具のない部屋はガランとして静まりかえっています。壁紙が新しいので、電灯の光が、いやに明るく見えるのです。
正一君はこちらの勉強部屋の窓から、じっとそこを見ていました。
「きっと、いまに、なにか起こるぞ。」
というような、みょうな感じがしたからです。
すると、はたして、むこうの明るい部屋の中で、なんともいえない、ふしぎなことが起こりました。
小さなテーブルの上に、とつぜん、白っぽい物があらわれたのです。そして、そいつが、そこにおいてある木の箱のほうへ、スーッと、はいよっていくのです。
大きな虫でしょうか。いや、そうではありません。
あっ、手です。人間の手です。人間の手だけが、テーブルの上をはっているのです。
テーブルには三本のあしが、ついているのですが、そのあしのむこうには、壁紙が見えています。ですから、テーブルの下には、だれもかくれてなんかいないのです。人間のからだはなくて、ただ手首だけが動いているのです。
正一君は、おばけでも見たように、ゾーッとしました。からだから切り離された手首だけが、生きて動いているなんて、そんなことが考えられるでしょうか。
しかし、まさに、そいつは人間の手首でした。それが大きな虫のように、木の箱のほうへ、はいよっていくのです。
あっ、とうとう、箱をつかみました。そして、パッと、その手を上にあげたかと思うと、そのまま、箱も手首も、かき消すようになくなってしまいました。
手首だけが、箱を盗んだのです。そして、消えてしまったのです。
正一君は、おそろしい夢でも見たような気がしました。しかし、夢ではありません。
むこうの二階では、たしかに、おばけのようなふしぎが起こったのです。
正一君は、急いで部屋を出ると、階段をおりて、おとうさんの書斎へはいっていきました。そして、いまのできごとを話したのです。
おとうさんの西村さんは、それを聞くと笑いだして、
「そんなばかなことがあるもんか。おまえは、まぼろしでも見たんだろう。」
と、とりあってくれません。
「いいえ、まぼろしじゃありません。確かに見たのです。おとうさん、二十面相かもしれませんよ。」
「えっ、二十面相だって?」
さすがに西村さんも、びっくりしました。
「おとなりは松波博士のうちでしょう。松波博士の古代研究所へ、このあいだ二十面相がしのびこんでいたというじゃありませんか。ひょっとしたら、あの消えた木の箱の中には、エジプトの巻き物がはいっているのではないでしょうか。」
正一君は、かしこい少年でした。早くも、そこまで、察していたのです。
それをきくと、西村さんも、すてておくわけにはいきません。新聞で古代研究所の事件を読んでいたからです。
「それじゃ、これから、おとなりへおまえといっしょに行って、おまえの見たことを、お知らせしてあげようか。」
「ええ、それがいいと思います。」
そこで、西村さんと正一君とは、つれだって、松波博士の新しいすまいを、たずねることになりました。
いって見ると、博士のうちは、大さわぎでした。
松波博士の奥さんは、ずっと前になくなって、子どももなく、うちには書生と、ばあやと、女中さんがいるだけですが、その四人が、あっちへいったり、こっちへいったり、家の中をうろたえ回っているのです。
それでも、おとなりの西村さんが、たずねてきたとわかると、松波博士は西村さんたちふたりを、一階の応接間へ、通しました。この部屋は、二階と違って、いろいろな道具がりっぱにならんでいます。
「おまえが見たことを、お話してごらん。」
西村さんに言われて、正一君は、さっきのふしぎなできごとを、くわしく話しました。
すると、松波博士はうなずいて、
「ああ、そうでしたか。それでわかりました。じつは、わたしも、箱をつかんでいる手首を見たのです。けっして正一君はまぼろしを見たのではありません。」
「じゃ、先生も、あのとき、ドアの外から見ていたんですか。」
正一君がたずねました。
「いや、あの部屋で見たのではありません。階段です。階段を、箱をつかんだ手首だけが、宙に浮いて、フワフワと降りてきたのです。ばけものです。わたしは、驚いて、そのあとを追いました。
しかし、手首は、わたしの手をスーッとかわして、階段を降りると、廊下を玄関の方へ、飛んでいくのです。フワフワと、宙を浮きながら、恐ろしい早さで、飛んでいくのです。
玄関のドアが、ひとりでにスーッと開きました。そして、そこから、手首は、外へ出て行ってしまいました。むろん、箱をつかんだままです。
あの箱の中には、だいじなエジプトの巻き物がはいっているのです。
わたしは、夢中になって、追っかけました。しかし、わたしが外へ出たときには、手首も箱も、もう見えなくなっていました。
なんだか、スーッと空たかく、舞いあがってしまったような気がします。
それで、警察に電話をかけるやら、私立探偵の明智さんに電話をかけるやら、大さわぎをしていたところですよ。」
そう話し終わって、松波博士は、がっかりしたように、うなだれるのでした。
「先生っ。」
そのとき、正一君が、とんきょうな声をたてました。
「透明人間かもしれませんよ。二十面相は、ずっとまえに、透明人間にばけたことがあります。こんども、その手を使ったのじゃないでしょうか。」
正一君は、少年探偵団員の友だちがあるので、二十面相のことは、よく知っているのです。
ああ、透明人間。二十面相はほんとうに透明人間になる魔力を持っているのでしょうか。そうだとしたら、これから、どんなふしぎなことが起こるのでしょう?