三尺角

3話

1,219字 約2分 2016年7月1日 公開

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 界隈(かいわい)の景色がそんなに沈鬱(ちんうつ)で、湿々(じめじめ)として居るに(したご)うて、住む者もまた高声(たかごえ)ではものをいわない。歩行(あるく)にも内端(うちわ)で、俯向(うつむ)(がち)で、豆腐屋も、八百屋(やおや)も黙って通る。風俗も派手でない、女の(このみ)も濃厚ではない、髪の(かざり)も赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであろう。

 元来岸の柳の根は、家々の根太(ねだ)よりも高いのであるから、破風(はふ)の上で、切々(きれぎれ)に、(かわず)が鳴くのも、欄干(らんかん)(くず)れた、板のはなればなれな、(くい)の抜けた三角形の橋の上に(あし)が茂って、虫がすだくのも、船虫(ふなむし)(むら)がって往来を駆けまわるのも、工場の煙突(えんとつ)(けむり)(はる)かに見えるのも、洲崎(すさき)へ通う車の音がかたまって響くのも、二日おき三日置きに思出(おもいだ)したように巡査(じゅんさ)が入るのも、けたたましく郵便脚夫(きゃくふ)走込(はしりこ)むのも、(からす)が鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の(ちょう)であるらしい。

 けれども、滅びるといって、(あえ)てこの部落が無くなるという意味ではない、衰えるという意味ではない、人と家とは(さか)えるので、進歩するので、繁昌(はんじょう)するので、やがてその電柱は真直(まっすぐ)になり、鋼線(はりがね)(はり)を持ち、橋がペンキ(ぬり)になって、黒塀が煉瓦(れんが)(かわ)ると、(かわず)、船虫、そんなものは、不残(のこらず)石灰(いしばい)で殺されよう。(すなわ)ち人と家とは、栄えるので、(かか)る景色の(おもかげ)がなくなろうとする、その末路を示して、滅亡の兆を表わすので、(せん)ずるに、(へび)は進んで(ころも)を脱ぎ、(せみ)は栄えて(から)()てる、人と家とが、皆()の光栄あり、便利あり、利益ある方面に向って脱出(ぬけだ)した跡には、この地のかかる俤が、空蝉(うつせみ)になり脱殻(ぬけがら)になって(しま)うのである。

 敢て未来のことはいわず、現在(すで)にその姿になって居るのではないか、脱け出した或者(あるもの)は、鳴き、()つ飛び、或者は、走り、且つ(くら)う、けれども(きぬ)を脱いで出た蛇は、残した殻より、必ずしも美しいものとはいわれない。

 ああ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかような風土は、(かえ)ってうつくしいものを産するのか、柳屋に艶麗(あでやか)な姿が見える。

 与吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に(あが)ると、思うともなしに豆腐屋に目を注いだ。

 柳屋は浅間(あさま)住居(すまい)上框(あがりがまち)背後(うしろ)にして、見通(みとおし)の四畳半の片端(かたはし)に、隣家(となり)帳合(ちょうあい)をする番頭と同一(おなじ)あたりの、柱に(もた)れ、袖をば胸のあたりで引き合わせて、浴衣(ゆかた)(たもと)折返(おりかえ)して、寝床(ねどこ)の上に(すわ)った(ひざ)掻巻(かいまき)()けて居る。(うしろ)には綿(わた)の厚い、ふっくりした、竪縞(たてじま)のちゃんちゃんを着た、鬱金木綿(うこんもめん)の裏が見えて襟脚(えりあし)が雪のよう、艶気(つやけ)のない、赤熊(しゃぐま)のような、ばさばさした、余るほどあるのを天神(てんじん)()って、浅黄(あさぎ)角絞(つのしぼり)手絡(てがら)(ゆる)う大きくかけたが、病気であろう、弱々(よわよわ)とした後姿(うしろすがた)

 見透(みとおし)の裏は小庭(こにわ)もなく、すぐ隣屋(となり)物置(ものおき)で、此処(ここ)にも犇々(ひしひし)と材木が建重(たてかさ)ねてあるから、薄暗い中に、鮮麗(あざやか)なその浅黄の手絡と片頬(かたほ)の白いのとが、拭込(ふきこ)んだ柱に映って、ト見ると露草(つゆぐさ)が咲いたようで、果敢(はか)なくも綺麗(きれい)である。

 与吉はよくも見ず、通りがかりに、

今日(こんにち)は、」と、声を掛けたが、フト引戻(ひきもど)さるるようにして(のぞ)いて見た、心着(こころづ)くと、自分が挨拶(あいさつ)したつもりの婦人(おんな)はこの人ではない。

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