3話 三
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界隈の景色がそんなに沈鬱で、湿々として居るに従うて、住む者もまた高声ではものをいわない。歩行にも内端で、俯向き勝で、豆腐屋も、八百屋も黙って通る。風俗も派手でない、女の好も濃厚ではない、髪の飾も赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであろう。
元来岸の柳の根は、家々の根太よりも高いのであるから、破風の上で、切々に、蛙が鳴くのも、欄干の壊れた、板のはなればなれな、杭の抜けた三角形の橋の上に蘆が茂って、虫がすだくのも、船虫が群がって往来を駆けまわるのも、工場の煙突の烟が遥かに見えるのも、洲崎へ通う車の音がかたまって響くのも、二日おき三日置きに思出したように巡査が入るのも、けたたましく郵便脚夫が走込むのも、烏が鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の兆であるらしい。
けれども、滅びるといって、敢てこの部落が無くなるという意味ではない、衰えるという意味ではない、人と家とは栄えるので、進歩するので、繁昌するので、やがてその電柱は真直になり、鋼線は張を持ち、橋がペンキ塗になって、黒塀が煉瓦に換ると、蛙、船虫、そんなものは、不残石灰で殺されよう。即ち人と家とは、栄えるので、恁る景色の俤がなくなろうとする、その末路を示して、滅亡の兆を表わすので、詮ずるに、蛇は進んで衣を脱ぎ、蝉は栄えて殻を棄てる、人と家とが、皆他の光栄あり、便利あり、利益ある方面に向って脱出した跡には、この地のかかる俤が、空蝉になり脱殻になって了うのである。
敢て未来のことはいわず、現在既にその姿になって居るのではないか、脱け出した或者は、鳴き、且つ飛び、或者は、走り、且つ食う、けれども衣を脱いで出た蛇は、残した殻より、必ずしも美しいものとはいわれない。
ああ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかような風土は、却ってうつくしいものを産するのか、柳屋に艶麗な姿が見える。
与吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に上ると、思うともなしに豆腐屋に目を注いだ。
柳屋は浅間な住居、上框を背後にして、見通の四畳半の片端に、隣家で帳合をする番頭と同一あたりの、柱に凭れ、袖をば胸のあたりで引き合わせて、浴衣の袂を折返して、寝床の上に坐った膝に掻巻を懸けて居る。背には綿の厚い、ふっくりした、竪縞のちゃんちゃんを着た、鬱金木綿の裏が見えて襟脚が雪のよう、艶気のない、赤熊のような、ばさばさした、余るほどあるのを天神に結って、浅黄の角絞の手絡を弛う大きくかけたが、病気であろう、弱々とした後姿。
見透の裏は小庭もなく、すぐ隣屋の物置で、此処にも犇々と材木が建重ねてあるから、薄暗い中に、鮮麗なその浅黄の手絡と片頬の白いのとが、拭込んだ柱に映って、ト見ると露草が咲いたようで、果敢なくも綺麗である。
与吉はよくも見ず、通りがかりに、
「今日は、」と、声を掛けたが、フト引戻さるるようにして覗いて見た、心着くと、自分が挨拶したつもりの婦人はこの人ではない。