18話 二つの繪 手帖にあつたメモ
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古い手帖のなかの芥川に關するものを拾つてみる、
大正十五年四月十一日、日
八百屋ノ店サキニモハヤ夏ミカンヲミル
――十八日、日、雨
夜、田端
蒔清ノ壺ノナホシヲ田端ニ渡ス
蒔清ヘノ禮ヲアヅカル
六月六日、日、朝 雨 午後ハフラズ
蒔清ト田端ニユク
――八日
春陽堂ノ番頭「芋粥」「戲作三昧」ノ裝幀ノ用デキタル
龍之介先生、義チヤン鵠沼行ハガキ
五月三日
「アグニノ神」ノサシヱ二枚渡ス。
改造社版「三つの寶」の進行遲々たるさまがわかる。
――十八日
東洋文庫ニきりしたん本ヲ調ベニユク。
きりしたん物を和本で出版するといふ話があり、石田幹之助を東洋文庫に訪ねて、慶長版のものを參考にみせてもらつた。
六月二十二日、火、曇
龍之介先生ヨリ手紙(鵠沼)
あづまやに一人で滯在してゐた芥川が、クソ蠅を何匹か呑下してゐた頃である。
七月二十六日、月、晴
改造高平キタル リンカク校正ワタシ
「三つの寶」の本文のメーク・アップのこと。
芥川僕ともに風雨樓に滿つるの趣があつて、金の必要を大いに感じてた。鵠沼へ移轉するために、僕にできるかぎりの前借貳百圓を改造高平に頼んでて受取つた。
十二月三十一日、日
鵠沼ヨリ上京東片町ニ來タル 三十日尚子死ス。年十三
昭和二年一月四日、火
告別式 火葬
田端泊
平松サンヲミル
芥川に平松麻素子さんを紹介された日。
――一月五日、骨アゲ
ヒル田端ニ寄リ ヨル鵠沼ニカヘル
――六日、夜藤澤ノ花屋ニ義チヤントユキバラ十五本三圓
芥川はずるずるに東京になつてしまつてゐた。僕はもう一と晩泊れといふ芥川に別れて鵠沼に歸つた。鵠沼の芥川の家には葛卷が一人で留守番をしてゐるといふやうになつてゐた。
――七日、金、雨
四號ばらニ着手
ヨツチヤン歸京
塚本サンノオツカサン
夜時事ノ記者、西川氏ノ件。
芥川の姉、葛卷の母の夫、西川辯護士の鐵道自殺で葛卷と新原とは朝のうちに上京、塚本のオツカサンは芥川夫人の母、多分、夕飯の菜を持つてきてくれたのであらう。
人力車に乘つた時事の記者は、芥川のところが女中一人の留守番であつたので立寄つた。
一月三十日、日
芥川サンノ原稿「なぜ?」ハ奧サンニオ渡シシタ
芥川夫人は鵠沼に置いてあつた荷の中から差當つて必要な品物、子供の着物かなにか、それを取りに田端から一寸見えた。
二月六日 雪ドケ
御大葬
寫生ハダメ、夕方雪モヤウ
二月十三日、日
田端、遠藤二人ヨリ手紙
月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク
――十七日、くもり 寫生休
田端、入谷ヨリ手紙
入谷といふは小澤碧童のこと。
――二十日 田端 二十一日、月、ユキ、田端泊 二十二日、火、田端泊
雪、雪 ホンブリ。二十三日 クゲヌマ。コノ四日間寫生休ミ。
五月二十一日
新聞ノ差畫ハハジメテナリ東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ「本所兩國」芥川龍之介十五日分 余ノ差畫、今日掲載ノブンニテ終ル 畫料百五十圓
僕は百五十圓を受取つたもののその金をなにに使ふかも考へないでゐた。といふのは、その金は僕としてはめづらしく、さしあたり金を考へないでゐてよかつたときにはいつてたらしいが、芥川は僕にその金で大阪に行つて、「ダンス場をみてこないか、ああいふものをみておかないと時勢に遲れるよ、」としきりにすすめた。芥川は大阪で谷崎(潤一郎)に案内されてみてきたと言ふのであるが、(東京にはまだダンス場はなく、僕が大阪で見物して歸つてくるとぢき大阪では禁止となり、東京ではじまるといつた時代であつた。書翰集をみると、三月一日大阪から芥川文宛のものに〔まだ二三日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎佐藤(春夫)兩先生と文樂座へ參る筈、〕」]といふのがあり、谷崎の「いたましき人」をみると、〔ちようど根津さんの奧さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと云ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを篏めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた。〕といふ一節がある。いま死なうといふ人が時勢に遲れるもないものだが、とにかく片足は義足で踊れもしない僕に、ウエストミンスター百本入りの鑵をくれて否應なしに大阪へ立たせた。僕は留守に死なれるのではないかと氣にかけながら、京都にゐた遠藤(清兵衞)を訪ねて一泊、翌日遠藤と大阪に出て(遠藤はペルーで踊りをおぼえてきた、)水上(茂)の兄に案内してもらつて、まあ、時勢に遲れぬための見學はすませた。關西は十年ぶりであつたので少しは肩のこりもほぐれて歸つてきたものだが、留守に死なれたら大變であつた。
「本所兩國」のさしゑでは、「富士見の渡し」のところであつたらう、「渡し場は何處にも見えない。」と書いてあるのに、わたし舟ありといふ畫を畫いてゐたので、東北・北海道・新潟から歸つた早々の芥川に、「君、困るよ、」と言はれたが、僕は、「いやあ、」と言つて笑つてすませてもらつた。僕は忠實に歩きまはつてゐるうちにわたし舟ありをみつけてうれしくなり、うつかり本文のはうを忘れてしまつてゐたのである。芥川はさういつたやうな一寸困るときの僕の笑ひを早春の笑ひと言つた。
六月九日
塚本サンヨリ菓子
――十七日
「三つの寳」サシヱ全部渡シズミ
――二十日
「湖南の扇」ノ裝幀仕事全部渡シズミ
――二十五日
春日ニテつる助、小かめヲミル
芥川方泊リ、
つる助は春日の女將、小唄の春日とよ、小かめは芥川の書いたものに出てくる親子三代の藝者、芥川はこの日僕を伴れて谷中の實家の墓に詣で、その足で小かめと別れを惜んでゐる。
――二十六日
三時ニ歸宿
夜、義チヤント散歩
三時ニ歸宿とあるのは芥川のところから下宿に戻つたことをいつてゐる。
七月十三日
芥川方泊リ
――十五日
夜、かめ井戸見物、我鬼先生、永見、沖本四人ヅレ、
芥川は廣津和郎に案内されて龜井戸をはじめて知つたと言つて、待合遊びとちがつたその面白さを言つてゐたが、この日の暮れどきに、永見と沖本を伴れて紙はないかと言つて僕の下宿にきて一筆畫いたものを永見に渡し、それから三人を伴れて龜井戸に案内した。それで僕ははじめて龜井戸の一廓なるものを知つた。故永見徳太郎は日向の「新らしき村」を見物に行き肉なしのカレーをだされたので、くそおもしろくもないと三皿平らげたといふ豪傑、沖本常吉は「本所兩國」擔當の記者、現在島根縣津和野に在住、芥川龍之介句集印譜付の印譜のはうを芥川に頼まれてゐた男である。
芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐるが、多分それは龜井戸土産のものであらう。
――十八日
我鬼先生來ル
本郷デ岡ニ會フ
岡とは岡榮一郎のこと。
――十九日
朝、芥川夫人
午後芥川方ニヨバレテユク
――二十日
夜、青池ト大塚 青池ニノマス
青池は芥川の親戚、をぢと姪との間に生れて、生母を姉さんと言つてゐた男、畫かき志望であつたが若くて死ぬ。
――二十二日
宇野浩二ヲ訪ネタ由
田端ニ寄ル
――二十四日
龍之介先生ミゴト自殺
――二十六日
通夜
犬養健の「通夜の記」は(昭和二年九月號の改造掲載)よく當夜の模樣を傳へてゐる。
――二十七日
告別式
――二十九日
香奠帳二册一號ト二號うさぎやニ屆ケル事、菓子ノコトハツキリコトハリ
八月七日
大草實、小峰八郎來ル
芥川サンノ伯母來訪
夜伯母サンニツイテうさぎやニ禮ヲノベニユク
――十日
墓ヲ見ニユク
芥川の家の墓地の檢分のことである。
――十四日
カヘシノ校正
平松女史ヘ返書
カヘシノ校正といふのは、澄江堂句集印譜付の校正のこと、この句集は生前に芥川から頼まれてゐたので指圖に從つてつくつたが、香奠がへしに使つたのは僕の考へ。平松さんには「三つの寳」の表紙の女の子に困つて世話になつた。平松さんの話で、下宿に白蓮さんが姪をもでるに連れてきたことがあつたがそのことであらうと思ふ。
――十九日
岩波ノ主人ト芥川サンノ家ニテ會フ
岩波「全集」引受承諾
岩波ノ主人とは故茂雄氏のこと、芥川の遺書に全集は岩波で出して貰ひたいとあつたが、皆が岩波とは關係もなく、果して岩波が引受けてくれるものかどうかといふことが一寸氣になつてゐた。芥川と岩波とは僕の知る限りでは、岩波が西田幾多郎に頼まれて芥川に僕のことを聞きにきて一度會つてゐる、それがただ一度のことであらう。その岩波に、あなたを代理人として全集を引受けると言はれたときには、僕は内心てれくさかつたし、その後も岩波と會ふ度にてれくさかつた。
――二十日
岩波ノ小林來ル
○ 二十日マデニ石ノ大サキメルコト、
岩波ノ小林は小林勇のこと、二十日豫定の石ノ大サとは芥川の墓石の寸法のことである。
九月一日
永見ヨリ手紙「長崎條約書」ノ件、返書ヲ出ス
芥川龍之介全集編纂打合セノ集リ、
菊池、久保田、久米、佐藤、室生、堀、佐佐木、小島、葛卷、谷口、岩波植村、
永見は新書判の全集第十八卷に使つた河郎之圖と長崎條約書我鬼國提案の寫眞を、全集に使つてくれと送つてきてた。集りは芥川家。
――二日
石屋カラ電話、發クツ立會ノ件
阿呆ノ一生ノ原稿
全集事務所開キ出勤
發クツノ件、墓地が狹いのでそこに芥川の墓を建てるのには、先祖の墓を少々移動させなければならなかつた。全集事務所には當時小賣店の二階にあつた岩波の社長室を提供してくれた。疊敷きの質素な部屋であつたが、ロダンのほんものの素描着彩がかかつてゐた。
――三日
岩波ヨリ編輯費ノウチカラ三百圓受取、
出勤
岩波は編輯費として三千圓を提供してくれた。そのなかからまづ三百圓を受取つて、佐々木茂索、小島政二郎、堀辰雄、葛卷義敏。僕五人が分けた。
――四日
伊上、小峰
岩波へ出勤
遺言によつて岩波で全集を出版して貰ふについては、芥川が生前新潮社にいれてあつた契約書はまいて貰つた。新潮社は快よく承知してはくれたが、そのかはりに芥川龍之介集を出させてくれと言ひ、その本の表紙のことで伊上凡骨がきてゐるのである。小峰八郎は、春陽堂をやめて前の年から文藝春秋社出版部の人となつてゐた。
三七日 八月十三日
四七日 八月二十日
五七日 八月二十七日
六七日 九月三日
七七日 九月十日
百ヶ日 十月三十一日
これは當時谷口が僕に書いて渡しておいてくれた紙ぎれの寫しである。
香奠といへば、山本實彦が僕を廊下の隅に引張つて、「うちの香奠よそのより少くはないか、少ければまた持つてくる」と言ふので、香奠の追加はをかしいと思つたが、階下におりて香奠帳を一寸のぞかせて貰ふと、あまり關係のない社までが一列に五百圓であつた。當時の五百圓を時價に換算してみれば、人々の芥川に對する愛惜の情がどの程度のものであつたか推しはかることができよう。