23話 二つの繪 横尾龍之助
読み方を変える
〔夏の日四日も棺のなかにおかれた人の顏を、永遠に形を失ふ前の彼の顏を見たいといふのか。死體から立つ臭氣と撒かれた香水のにほひに、〕といふ描寫があるが、谷口(喜作)が「ことによると目玉が暑さで流れてゐるかも知れない、」と言つて家族がおわかれをするその前に、僕と竹内仙治郎(芥川家の親戚)が棺のなかを改めることになり、谷口が立つて頭のはうへまはり、南無妙法蓮華經と大聲で唱へながら蓋に手をかけて「あ! だめだ。」とわめいたときに茶間から廊下づたひに急ぎ足できた夫人が、「忘れもの、」といつてすうつとさしいれた(谷口は蓋の頭のはうを一尺ばかり持ちあげてゐた、その間にいれたのでさしこんだといふよりなげこんだといふかたちであつた。)臍緒の包に(躋緒の包であらう)一字一寸角もあらうかとみえた横尾龍之助といふ文字をみた。――僕は昭和十五年に『鯨のお詣り』を刊行してゐるが「二つの繪」のところは目にすることもいやであつた。さうして今日になつて、〔彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之助、〕と書いてあるその誤りに驚いてゐる。このまちがひは昭和七年に、中央公論に書いてゐた當時の、僕の精神の硬直からきてゐたもので、本のときにそのまま橋本(政徳)君まかせで訂正しておかなかつた。――
芥川夫人はさしいれたと言ふであらうが、なげこんだとしかみえなかつたとつさに、被せられた白い布がにじみだした人間の膏で赫土色に染まつて、ぐつしより濡れて顏にひつついてる、それだけになま暖く瞼の輪廓をみせて、生きたままに埋められてゆく恰好の芥川と、横尾龍之助となつて死んでゐる芥川をみて僕は唾をのんだ。
横尾龍之助が芥川龍之介となつて死んでゐる。芥川はその間の消息を僕に一度も言はずに死んでゐる。僕は僕の知つてゐる芥川が確に死んだことは僕の目でみた。しかし、横尾龍之助が芥川龍之介になつたその間の、正確な安心して聞ける事情といつたものは今日に至るも知つてゐない。
東京新聞社社會部の田中義郎君は岩波の新書判の全集二十卷が一卷減つて十九卷になつたその間の事情を知つて芥川の家のこと、葛卷のことを、足掛三ヶ月かかつて穿鑿してゐた。その彼が最近僕に報告してゐるところによると、東大の卒業者名簿にも芥川は龍之介でなく、龍之助となつてゐるといふ。
僕は芥川の年譜は、芥川自身の筆である年譜をしか信用してゐない。大正十四年四月新潮社發行、現代小説全集の芥川龍之介年譜である。
明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。新原敏三の長男なり。辰年辰月辰日辰刻の出生なるを以て龍之介と命名す。生後母の病の爲、又母方に子無かりし爲當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。養父道章は母の實兄なり。
三十一年本所區元町江東小學校に入學。成績善し。
三十五年實母を失ふ。――
しかし、僕はこの芥川が書いてゐる年譜にさへ芥川が何か書落してゐるといふ疑ひを持つてゐる。芥川の小學生時代の作文は芥川龍之助といふ署名である。
自己紹介によれば、田中義郎君もまた芥川の愛讀者だといふが、岩波が刊行中の全集の一册と、筑摩の文學全集にんであつたといふ月報、社名を書いた大學ノートを持つて僕の前に坐つたのは七月二十五日の朝であつた。田中君の調べでは、葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ、その西川氏ともまた死にわかれとなつてゐたので、僕は、葛卷氏とは離婚、その後西川氏にかたづいたが、その西川氏が自殺、つづいて芥川の自殺で、それで北海道に行つて、またもとの葛卷氏といつしよになつたので、今日、葛卷氏に死にわかれでもして、鵠沼にゐるのであるかどうかはそれは知らぬが、芥川の實家は、新宿に牧場を持つてゐたので、獸醫の葛卷氏と結婚した次第だが、その葛卷氏は牧場で牛を購ふその金をごまかしたといふので離婚になつた人と聞いてゐると、葛卷義敏が自分の系圖まで立派にしてゐるのを感心しながら説明しておいた。それに吉田精一といふ男は、葛卷の手さきででもあるのか、昔、空谷老人が何か雜誌で僕をやつつけてゐる、それに返事も書けなかつたのではないかと得意氣に僕を嘲けつてゐるが、芥川の遺言に(新書判十五卷百七十七頁參照)〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺とするも可。〕といふのがあつたから、先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて私はどちらにでもしますがといつたもので、それをそのままに僕が「二つの繪」に書いた。ところが、醫者であつた老人のはうの身になつてみれば、たまつたものではなかつたらう、たちまち事實無根と僕に吠えついてゐたので、吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりでと、あと四百二十字分を聞かせて、事情はよく調べてくれと田中君に言つたが、田中君はその後かなり丹念に調べてゐて、僕に言はせれば横道の話の横尾そのといふ女のことをいま問題としてゐる。僕は漫然と芥川の家の人の言ふことだからとか、芥川の甥の言ふことだからといつて、安心してものを書いてゐる解説家の頭といふものはをかしいと思ふ。(吉田精一は田中君のくはしい話でいろいろを知つて、それでは自分も考へなほさなくてはいけないと言つた由、無論さうあるべきだ。)僕には穿鑿は僕の目で見てゐた芥川、芥川に聞いたことだけでたくさんである。
史蹟
齋藤鶴磯の墓
司馬江漢の墓 慈眼寺
芥川龍之助の墓
昭和二十七年四月 建之
豐島區役所
芥川の墓のある慈眼寺の入口にかういふ札が建つてゐる。この立札には齋藤鶴磯名は政夫、司馬江漢名は峻、といつたやうに、芥川龍之助 東京の人、大正昭和の代表的小説家、新技巧派の作家としてその理智的作風は一世に風靡す、昭和二年七月自ら生命を斷つ、行年三十六歳、といふ小傳が誌してある。
戸籍面などのことはどうにでも都合のつけられることだが、ごまかせないのがその人の性根だ。芥川と僕ばかりではなく芥川と親しかつた人達は、既に今日までに、新原家のいやな血を芥川の死後の葛卷といふ見本で充分にみせられてゐるのだ。田中君は知れば知るほど世間の人がみてゐるのとは反對に、芥川家の人は皆(葛卷もふくむ)氣の毒な人達ばかりで、なにも書けなくなりますとしみじみとして言つてゐたので、それがほんたうだと僕は言つた。芥川は、母親が晩年しよんぼり二階に一人で暮してゐて、人が紙を渡しさへすれば、それにお稻荷樣ばかり畫いてたと言ひ、芥川も恐るおそる二階に首をだしてお稻荷樣を畫いて貰つたことがあると言つてゐたが、僕は晩年人が紙を渡しさへすれば河童を畫いてゐたその芥川の心中を思ふとひとりでに涙がわいてくる。
燒場の竈に寢棺が納められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つてはゐたが、今日芥川の墓のある染井の慈眼寺に區で建てた立札はこれまた芥川龍之助の墓となつてゐる。龍之介は戸籍面ではどこまでも龍之助であつたのかも知れない。
芥川の二階の書齋は、地袋の上にも本がのせてあつたが、小さい額縁に入つた五寸五分に七寸位の、ヰリアム・ブレークの受胎告知の複製があつたので、僕がそれをみてゐると、芥川は、「それは神田の地球堂で三圓で買つたのだが、歸りの電車賃がなくて新宿まで歩いて歸つた。」(當時、高等學校の生徒、實家の牧場のはうにゐた、)當時の三圓といふ値段は額縁付きの値段と思ふが、芥川はその受胎告知の畫を、晩年わざわざ繪具屋に卓上畫架を誂らへてこしらへさせ、その上にのせてゐた。部屋の隅で、暗いところにあつたから、ちよつと氣がつかなかつた人があるかもしれない。部屋にかける壁がなかつたからといへばそれまでであるが、わざわざその畫のために、卓上畫架を註文して造らせてその上にのせてゐた芥川の氣持を思ふと、芥川の淋しさといふものが何か考へさせられる。