二つの絵 芥川竜之介の回想

24話 二つの繪 養家

5,710字 約11分 2017年7月24日 公開

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 芥川が芥川家にあづけられ、その父親がさて返して欲しいと引きとりにきた時には、養父は、たつてこの子を連れ戻すと言ふのならば、自分は腹を切つてしまふと言つて芥川を貰つたものだといふ。養父の道章は東京市の土木局長まで勤めた人、芥川が機關學校の職を抛うつて作家としてたつ、そのことには誰の反對もなく、就中伯母富貴のごときはまつさきに喜んで賛成し、(この伯母、紫田是眞に畫を學んだといふやうに聞いた。)作家としてたつ、そこにあらう不安な收入に對しての考へも、うやむやにすぎてゐたといふのが芥川の話である。

 岩波の新書判の芥川龍之介全集は二十卷の豫定であつたのが、奇怪にも葛卷義敏のために十九卷で終つてゐる。僕は葛卷退治の烽火をあげて、芥川の未發表のものの提出を求めてゐるが、現在葛卷が提出する意志を多少示しての證據としてであらうか、時を稼ぐために送つてきてゐるものの中に、昭和十八年八月四日、病歿大伯母富貴の形見タンス中より種々の古文書と共に發見されたものと誌して、ロール半紙に毛筆で書いた作文、(一枚で前後の連絡が無い、)半紙を横にして書いてゐる明治四十年九月十六日第三學年乙組芥川龍之介稽習の、新年之御慶謹申納候云々のもの、(赤インキで美とついてゐる、)どうさ半紙に畫手本で畫いた毛筆畫のたうもろこし(朱で甲下とついてゐる、この畫の署名は龍之助、龍之助の上に芥川と鉛筆で書加へてある、)があり、この伯母が芥川に持つてゐた愛情といふものをいまさらに偲ばされた。

 芥川の養母については、その特色とか話とかいつたものをたえて聞いてはゐないので、僕にはなんとも言へないが、ただ誰とでも融和できる人であつたらうことだけは、生涯嫁にゆかなかつた良人の妹と同居をつづけられてゐたことでも察せられる。

 僕は昔、月に百何十圓かの金を、自分と妻子の食扶持として養父にいれてゐると芥川から聞いて、腹を切ると、まあ命に賭けて貰つたその芥川から、食扶持をとるといふ養父のことがちよつとのみこめずに、父に話すと、「いちがいに惡くは言へない。年寄といふものは、自分のものを一錢でも餘計に子に殘したい、それで食扶持をとらなければおぢいさんのものが、その儘そつくり子に傳へることができないといふわけで、おぢいさんは食扶持をとつてゐるのではないかね、まあ、年寄といふものはさういつたものだ。」と微笑して言はれたので赤面したが、芥川の死後、芥川の養父が、芥川が使ひ殘りと言つて都度に預けてゐた金が六千圓ぢかくなつてゐた事、深川にあつた土地の價格などを谷口に言つてゐるのを聞いて、またなるほどと思つたものである。芥川には、てんしんやうしん流の按摩で毎晩三十分伯母の肩を揉むと言つてゐた時代がある。芥川は年寄の皆からも、比呂志君からも、龍ちやん龍ちやんと言はれてゐたので、芥川家ははたからみれば誰の目にも羨しいものにみえてゐた。しかし、僕は芥川が死ぬ話をするやうになつてから聞かせてゐた話で、芥川家が芥川にとつて幸福であつたかといふ疑ひをもつた。芥川の伯母は僕には片目とはみえず、少し眇目だとばかり思つてゐたのだが、芥川の話だと、伯母は兄(道章)に鉛筆と言つたか? なんであつたか、片目をつぶされて嫁にゆかないでゐるうちに、をぢと間違ひを起し、それを恥ぢて生涯よそにゆかずに芥川家に留まつてゐるのだといふことであつた。その話をしてゐたときの芥川には少しも伯母を賤しめてゐる樣子はなかつた。僕は、それではじめて芥川が、「藤村はいやな奴だ、」と言つてゐたその言葉が身にしみた。僕は僕も芥川のやうに芥川の伯母に對しての敬意は持つてゐるが、不幸な生涯を持つた伯母が主になつてゐた芥川家といふものは、(兄である養父より妹の伯母のはうの存在が目だつた芥川家である。)芥川にあつては僕らの想像以上のものであつたらう。芥川はこの伯母に「龍ちやん、おまへは何をしてもいいが、人樣のものに手をだす泥棒猫の眞似だけは決してしておくれでないよ、」と言はれてゐる、つらいことである。芥川の「養父に先きに死なれては、自分にはもう自殺ができなくなる、」と言ふ言葉にも考へさせられる。伯母は芥川の死後に發表された芥川の伯母に對する不滿のものに、口惜し涙をこぼしたであらうが、芥川がこぼしてゐる涙にもこれまた共に泣くよりほかはない。芥川は死ぬとき二度もこの伯母の枕もとにいつてゐる。

 芥川はまた實家の姉と弟、葛卷ひさと新原得二とは義絶をせよと妻子に書置してゐる。芥川は兄弟との間にもめぐまれてゐなかつた。姉はともかくとして新原のことは、「弟は上野の圖書館に道鏡のことが書いてある本がある、それで不敬罪だと言つて宮内大臣を訴へてゐる。僕の弟はさういふことばかりしてゐて困るのだ。」などとこぼしてゐる。芥川夫人の叔父である山本喜譽司さんの手紙によると、

〔小生と芥川とは中學、高等學校の頃の友達で芥川と私と、そしてもう一人平塚(これは“吾が舊友”と題した雜文中で出て來ます)が中學校で友達で、この三人が各々發狂した母を持つたと言つた奇縁で一つのグループを成しておりまして、この三人の間の話や手紙は鬼氣を帶びてをりました〕(岩波新書版十卷二〇七頁、學校友だち參照)といふ。芥川がどれだけ不幸な星の下に生まれた人間であるか、またそのために出來あがつた芥川の性格といふものがここにも考へられるといふものである。

 臍の緒の包であるかなにか、芥川夫人の手で棺にいれられたものには横尾龍之助と書いてあつた。幸か不幸かあれだけの大勢の人達が集つてゐたなかで、僕一人がそれをみた。僕は芥川龍之介が横尾龍之助でもなんでも、とにかく僕の知つてゐる、僕と言葉をまじへてゐたその人間が死んで腐りかけてゐるのは確かに見た。それで滿足してゐる。横尾そのといふ婦人の詮議は、東京新聞の田中君から聞いた。

 僕はここで一寸芥川の出生に關した種々の傳説に就いて、一應僕の腹の中にあることを正直に言つておきたい。(田中君は芥川の生母は横尾そのといふ説を持つてゐて、十月六日の東京新聞に我社の調べるところによればと書くべきところを、僕の名を利用し、僕の説として書いてゐる。東京のまん中にある新聞社の記者にあるまじき行爲である。田中君は、八月七日の芥川龍之介の遺書モメるの記事の取扱ひかたの失敗のあせりから、社には御奉公、僕には、「私が書けば先生の本の廣告にもなりませう、」と言ふをかしな考へで、十月六日に馬鹿げた記事を載せ、さうして、その記事によつてあちこちに迷論を書いてゐる諸先生の記事を、また丹念に大學ノートに貼りあつめて、それを僕のところに持つてきて、其後ニュースはありませんかと來てゐるといつた、未ださういふ若い記者である。田中説またこの同類の説に對する僕の意見はこの章の終りに述べる。)

 僕は青池がをぢと姪との間にできた子で、青池はその母親を姉さんと言つてゐるといふことを芥川から聞いてゐたが、(「手帖にあつたメモ」參照)畫を畫いてゐて僕のところに出入りしてゐたその青池とは、一度もさういふことの話をしたことはなかつた。この青池は芥川が死んだ時に芥川のところで、弔問にきてゐたその母を「姉です、」と言つて一度僕に紹介した。

 僕は芥川から、伯母がをぢとの間でをかしたその過失を聞かされたときに、青池のこともあり、あちこちの話に全くしゆんとなつてしまつた。

 僕は棺の蓋に釘をうつ眞際に、芥川夫人がさしいれたものの上書にあつた横尾龍之助といふ文字をみて、芥川が〔僕等人間は一事の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。〕〔僕はこの養父母に對する、「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。〕と言つてゐたそれにはなんの誇張もなかつたのだといふことをはじめて知つた。僕が芥川に芥川の伯母の祕密をうちあけられた時の狼狽、また、芥川の棺の中にはいつた紙包の上書に、横尾龍之助といふ文字を突然に見た、この重なる驚きといふものを誰れが知らう。

 僕には芥川が健在の時から、なぜ芥川は長男でありながら芥川家へ入籍してゐるか、といふ疑問があつた。僕は昭和八年に(「二つの繪」昭和七年十二月號、八年一月號、中央公論掲載)葛卷から「年寄に聞いたら横尾といふ、さういふ女中が昔ゐたことはあるにはあるといつてゐましたが、よくわからないさうです、」とただそれだけは聞かされてゐる。その後今日に至るまでには、世間の人達からの横尾説、松村説も耳にしてはゐるが、僕の目は耳は嗅覺は、捨子の形式をとつたとか、芥川は女中の子であるとかいふ話などは受けつけてはゐなかつた。僕は芥川の母は、新原敏三の妻となつた芥川フクか、その姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキか、この二人のうちのいづれかであらうとみこんでゐる。僕がみてゐるかぎり芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない。新原敏三がもし芥川家以外の女に生ませた子であるならば、芥川はあの芥川といふやうな人間とはちがつた人間であつたらうと思ふ。芥川の弟の得二は、判で押したやうに新原敏三に似てゐるが、芥川のはうは、これはまた、判で押したやうに芥川家の娘フク、フキに似てゐるのだ。同じく疑ふにせよ、僕の疑ひかたは全然人とは違つてゐるのである。

 芥川は「新生」を書いてゐる藤村を輕蔑してゐた。さうして「暗夜行路」を書いた時任謙作の志賀直哉には頭を垂れてゐる。麻素子さんと帝國ホテルで死ぬはずであつた芥川が、驅けつけた僕に聞かせてゐた志賀禮讃の長時間にわたる壯烈で血を吐くやうな言葉の數かずは、僅かに、「或阿呆の一生」のなかの「家」に、

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

としか書けなかつた芥川の言葉とあはせて考へると、芥川の志賀跪拜は單に文學上のことだけと解してゐるわけにはゆかない。芥川は小説家としてすごすには義理人情に脆すぎた。芥川は志賀に對して天衣無縫といふ言葉を使つてゐた。しかし、その天衣無縫といふことばを言つてゐる芥川の悲しさを僕は思ふのだ。

〔今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。〕はまこと哀れな芥川のレジスタンスである。

 僕は、芥川が死んでから三十年にならうとする今日まで、芥川といふものを一人で噛みしめてゐるが、歸するところは、僕には、芥川といふああいふ人間を産める女は、芥川が伯母と言つてゐたその人以外とは到底考へられないのだ。

 山本喜譽司さんの手紙の績きは、

(平塚は高等學校の時死去しました)その間で私と芥川とは又性生活の點でお互に祕密を知り合つていたと言ふ特殊事情がありました。こんな具合でしたから芥川の手紙を特に保存してあつた事も芥川の文名に影響された譯では無く、自分と言ふものがいとしい爲にいつとは無し、破り去る可きものを破らずに來たものです。今はとうに灰に致す可きものでしよう。氣がおちついている時にその擧に出る積りでおります、御承知の樣に當時私と一緒に住まつていた未亡人文子が現存している事も發表えの一つの障碍であります。一つ飛び越えれば何でも無い事でしようが氣の弱い私には堪え難い事です。(以下略、原文のまま。)

となつてゐる。山本さんは、若き日の芥川から、出生についての話を聞いてゐるのかも知れない。僕は僕の意見をもつと具體的に述べてみるべきかも知れないが、畢竟これはどこまでも僕一個の意見であるにすぎない。さうして、この僕の考へもまた多くの人の考へかたと同樣に正しくないのかも知れない。芥川は死んでゐる。が、芥川の書いたものは今日なほ多くの人に讀まれてゐる。芥川を輕蔑する人もあらうが、愛着を感じてゐる人もあらう、僕にはただそれでよいのだ。ただ僕が芥川のために涙をそそぐのは、芥川が西歐の文明に目ざめながら、多分にもつてゐた古い東洋の人間の殼を尻からとれずに、吹ききれる壁が吹ききれなかつた點である。「河童」などといつたものは屁のかつぱでゆけなかつた事である。

 東京新聞の田中君には家ダニ(奇怪な家ダニ參照、)を扱ひかねた。それで話を中途から横道に持つてゆき、横道義郎となつて、はじめ持つてゐたその女中説を僕の名を利用して、十月六日の記事にする馬鹿な眞似をした。田中君はそれまでに十囘も僕のところに來てて、僕の考へを充分に知つてゐながらさういふ眞似をした。さういふ眞似をせざるを得なくなつたのであらう。僕は新聞記者としての若い田中君の立場には同情するが、田中君が種本に使つた福田恒存の「作家論」、田中君が眞新しい本を持つてきて、手にとらうともしない僕に頁を繰つて、ここを讀んで下さいと勢こみ指でちよんちよんとさしてゐた「作家論」を手を觸れずに持つてゐる。僕には中途から田中君のたくらみがわかつてゐたので、頑強に手にとらず、田中君が充分面白い指紋のつけかたをしてくれてゐるのを見てゐたのである。田中君には僕のその腹がわからなかつたのであらう。田中君が「作家論」を僕に呉れていつたことの證人は、僕の女房のほかにもあることは田中君が知つてゐる。僕はなほこれ以上の面白いことを書いて、田中君及び東京新聞の名譽を傷けようとも思はない。田中君は田中君の記事によつてあちこちの人に儲けさせた人である。但し、僕はさういふただ儲けさせて貰つた人達の記事について何か書けといはれても、田中君は根が正直な人だから、田中君に頼むがよからうと返事をしてゐるのである。

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