2話 白峰の麓(2)
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二、三十戸の村を出ると、右に芦倉の峠がある。峠へ上って一里あまりもゆかなければ山は見えぬという。それよりもこの川上を左の渓へ入れば、白河内の山が見える。そのほうがよかろうと人に教えられて、早川に沿いて進む。四、五丁にして釣橋があるが、今は損じているので渡れない。河原へ下り危うき板橋を過ぎて対岸に移る。
農夫が山奥の焼畑へ通うための、一筋の道を暫くゆくと、西岸の山が急に折曲って、日を背にしたため、深い深い紫色に見える、その前を往手にあたって、数株の落葉松の若木が、真に燃え立つような、強い明るいオレンジ色をして矗々と立っている。ハッと思って魅せられたように無意識に、私の手は写生箱にかかった。
狭い道の一方は崖一方は山、三脚を据えるところがない。人通りもあるまいと、道の真中に腰を下した。落葉松の新緑の美しいことは、かつて軽井沢のほとりで見て知っている。秋の色としては、富士の裾野に、または今度の旅でも鰍沢の近くで、その淋しげな黄葉を床しいと思った。しかし私が、今眼前に見るような、こんな鮮かな色があろうとは思い及ばなかった。植物として私の最も好む山百合、豌豆の花、白樺、石楠花のほかに、私は落葉松という一つの喬木を、この時より加えることにした。
一時間ほど筆を走らせて更に上流へと歩を進めた。五、六丁にして道は左の沢に入る。ここで早川の本流と別れて、この沢に沿うてなお深く入り込む、岸が尽きて危うき梯子を懸けたところもある。渓の上にただ一本の木を橋に渡したところもある。かかる山懐ろにも焼畑はあって、憐れげな豆や粟が作られている。そのまた奥には下駄を造る小屋もある。山人の生活は労多きものである。
往けども往けども白河内の山は見えない。あの高きところへ上ればと、汗ぬぐいつつ辿りつけば、更に木立深き前山が、押冠さるように近々と横たわっている。道も漸く覚束なく、終には草ばかりになってしまう、帰りの時間も気遣われる、足も痛み出した、山の見えぬのは残念だが終に引返すことにした。二十丁も戻って初めの沢近く来た時、ふと前面を見ると、例の落葉松の深林が背後から午後の日をうけてパッと輝いている。根元の方にも日の光は漏れて、幹は黒々と、葉は淡きバアントシーナを塗ったように、琥珀色に透明して、極めて美しい。画きたい画きたいと、一度は三脚の紐を解いたが、帰り道の崖崩れを思うと、何となく急き立てられるようで、終に筆を採らずにしまった。
危うい崖道も、来た時よりはらくに過ぎて、湯川近くに二日前の写生を続けた。二日前は曇った日で、今日は晴れている。調子は異うが、日が傾いて谷は暗く、水色も同じに見えるので少し無理だが仕上げることにした。
この日はかなり長い道を歩いた、膝の関節が痛い。
十一
下湯島の猟師に、大村晃平、中村宗平というのがある。烏水氏らの案内をして、幾度となく白峰の奥へ往った人たちだ。晃平は中風病で寝ている。宗平は山仕事が忙しい。宗平の弟に宗忠というのはこの夏山岳会の人たちの赤石縦走を試みた時、人夫として同行したという。その男は職業は大工でいま新潟の仕事に来ている。いろいろ山の話をきくと、下湯島の対岸を上ること一里半ほどで、六万平というところからは、井川の山々(白峰連嶺)、またその先の赤石の方までもよく見えるという。朝早く出れば夕方には帰れようというので、七日の朝、私は宗平を連れてそこにゆくことにした。
晴れた日であった。写生箱画板など、いささかな荷物を宗平の背に托して、早川に沿うて下流へと歩を運んだ。道もせに咲き残っている紅の竹石花、純白の野菊、うす紫の松虫草などとりどりに美しい。上湯島の少し手前から河原に下りる、山崩れの跡が幾カ所かあった。道は平ではない。早川の水が堰かれて淵を成すところ、激して飛瀑を成すところ、いずれもよき画題である。長い釣橋を右に見てそれを渡らずに七、八丁もゆくと、黒い黒い杉の森が見える農家の屋根、桑の畑、水車、小流、そこが下湯島の村で、石垣に沿える小道を通って、私どもは宗忠の家に立よった。
下湯島の村は、数年前全戸殆ど火の禍をうけたため、家は皆新しい。上湯島には萱葺の屋根多きにここは板屋に石を載せて置く。家は小さいが木は多いから、さすがに柱は太い。村というても平地は殆どないが、やや緩やかな傾斜地に麦が作ってある。畑の中には大きな石がゴロゴロしている。家の廻りには鍬の把、天秤棒、下駄など、山で荒削りにされたまま軒下に積まれてある。
宗忠は身仕度をして来た、なにか獲物もあろうというので一挺の銃も持っている。
早川を渡ると、すぐ急傾斜の小さな坂で、その上は畑が作られて、麦の緑は浅い。石道をゆき、草の中をゆき、いよいよ雑木茂れる山にかかる。道は落葉に埋められ、今朝おりた霜の白きもあり、融けて濡れたのもある。とかく辷り勝ちで足の運びは鈍い。
山の傾斜がいかにも急であるために、道は右に左に細かく縫うてつけられてある。小さな沢を渡って十四、五丁ゆくと、樹は漸く太く、針葉樹も変っている。人の踏むこと少きためと、寒さの早いために、落葉は道を埋めて、二、三尺も積もっている。カサカサと徒に音のみ高くて、泳ぐような足つきでは一歩を運ぶにも困難である。剰え、二日以来足の痛みは、今朝宿を出た時から常ではないので、この急峻な山道では一方ならぬ苦痛を覚えた。途中の用意にもと、宿から持って来た「サイダー」を一口二口飲みながら上る。「サイダー」は甘味があり粘りがあって極めて不味だ、かかる時は冷き清水に越すものはない、自然は山人に「サイダー」にもまさる清水を、惜気もなく与えているのである。漸くにして樹木のまばらなところへ来た。沢を隔てて遥かの木立に、カラカラと石の崩れ落ちる音がする。宗忠は木の切株に上って見つめている。羚羊か猿だろうという。カラカラという音は四辺の寂寥を破って高くきこえる。羚羊の姿が見えるという、仔を連れているという、しかしここからはあまりに遠くて、弾丸は届くまいと残念そうである。沢川の根というところは少しく平になっている、数年前会社で木を伐り出した時に、六尺幅ほどの林道を作ったその跡だという。道は今甚しく崩れて、人も通れぬが、この辺にはそれらしい様子は見える。
西山連峰の上を、富士が高く現われている。北には地蔵薬師等の山々が、重なり合うて、前岳の大崩れは、残雪のように白く輝く、やや西へ寄って白河内の山が鮮かに姿を出している。ここで昼食をすませ、スケッチを試み、暫時休息した。
目的地の六万平はなお半里の西で、これから往ったのではただちょっと見て来るだけで、絵など描いていては、温泉へ帰るのは夜になると宗忠は心配気にいう。足下の悪い道を夜になって帰るのは好ましくない。この辺に小屋があらば今夜は泊って、明朝早く六万平へ往こうと決心した。幸い半道ほど下に宗平の家の小屋があるというので、疲脚を鞭うって下山した。
落葉の道は、上りよりも下りはいっそう歩み悪い、ともすれば辷りそうで、胸を轟かしたことも幾度かある、来た道を右に折れてトンボの小屋へ着いたのは三時頃であったろう。
十二
トンボの小屋は、下湯島村から一里の、切立ったような山の半腹にあるので、根深き岩の裾を切込み、僅かに半坪ほど食い込ましてあとの半坪は虚空に突出してある。極めて小さな、そして極めて危険なものだ。僅か一坪の平地すらないこの辺の地勢から考えても、その勾配の急なことが知れよう。
ここは村から一番奥の焼畑で、あまりに離れているので、畑仕事の最中の俄雨に逃げ込むため、また日の短い時分、泊りがけに農事をするためにこしらえた粗末な建物にすぎない。焼畑というのは、秋に雑木林を伐り倒し、春に火をかけて焼く。そして燃残りの太い幹で、一間置きまたは二間置き位いに柵を造って土留として、六、七十度の傾斜地を、五十度なり四十度なりに僅かずつ平にして、蕎麦、粟、稗、豆の類を作るので、麦などはとても出来ぬ。もしこの焼木の柵を離れたなら、足溜りがなくて、直立していることは出来ない。山なき国の人は畑は平なものと思っていよう。私もかつてはそう思った一人であった。この辺の人々は、畠は坂になっているものと思っていよう。田もない池もない、早川や湯川や、滝のように流るる姿を見ては、水も恐らく平のものとは考えていないかも知れない。
焼畑は、その焼灰が肥料となって、三、四年は作物も出来る。それから後はそのまま捨ておいて、十七、八年目に更に同じことを繰返すのだという。
宗忠は、暮れぬ間に湯島へ往って、今夜の食料を持って来るという。湯島へゆくなら何か駄菓子でも買って来よといえば、そんなものは村にはないという。砂糖でもよいといえば、正月か祭の時ででもなければ誰の家でも持たぬという、なるたけ早く帰りますと言捨てて、猿の如く麓を目がけて走り去った。
秋の西山一帯は、午後三時の日光をうけてギラギラと眩しいように輝いている、常磐木の緑もあろう、黒き岩もあろう、黄なる粟畑もあろうが、それらは烈しき夕陽に、ただ赤々と一色の感じに見える。その明るい中を、トンボの小屋はちょうど山蔭にあるので、クッキリと暗く、あたかも切り抜いて貼つけたように、その面白き輪廓を画いている。私は兎の係蹄の仕掛けてあるほとり、大きな石の上に三脚を立てて、片足は折敷いて、危うき姿勢に釣合をとりながら、ここの写生を試みた。
十三
輝き渡っていた西山も、しだいに影が殖えて、肌寒くなって来たので写生をやめ、細い道を伝わって小屋に来た、小屋には宗忠の父なる人がいて、火を燃して私を待っていた。遥かの谷底から一樽の水も汲んで来てくれた。
小屋は屋根を板で葺いて、その上に木を横たえてある。周囲は薄や粟からで囲ってある。中は入口近くに三尺四方ほどの囲炉裡があって、古莚を敷いたところは曲の手の一畳半ほどもない。奥の方には岩を穿って棚を作り、鍋やら茶碗やら、小さな手ランプなどの道具が少しばかり置かれてある。部屋の隅には脂に汚れた蒲団が置いてある。老人はやや醜からぬ茣蓙を一枚敷いてくれた。私は草鞋を解いて初めて快よく足を伸した。
日のくれぐれに一袋の米と味噌を背負って宗忠は帰って来た。ここは狭いから老人は下の小屋へ泊るというて、何やら入った袋をさげて下りてゆく。宗忠は鍋の中で米を磨ぐ、火にかける、飯が出来たらそれを深い水桶にあけて、その跡へは味噌をとき、皮もむかぬ馬鈴薯を入れて味噌汁をつくる。私の好奇心は、宗忠の為事に少からぬ興味を覚えた。
戸外に足音がする、明けて見ると、闇の中を宗忠の兄の宗平が帰って来た。六万平近く山仕事をしていたが、夕方に出た雲が気になるので帰って来たのだという。雲とは何、せっかく山中に泊って雨では困るが、これも詮方がない。
三人で食事にかかる、手ランプには少し油があったので、それをともす。写生箱は膳の代りとなり、筆は箸になる。二つの縁の壊けた茶碗、一つには飯が盛られ、一つには汁がつがれた。宗平兄弟は「メンパ」とよぶ弁当箱を出して、汁を上から掛けては箸を運ぶ。
土もついているらしい薯の汁も、空腹には珍味である。山盛三杯の飯を平げて、湯も飲まずに食事を終った。彼らの手にせる「メンパ」というのは、美濃方面で出来る漆で塗った小判形の弁当箱で、二合五勺入りと三合入りとある。山へ出る時は、二つもしくは三つを持ってゆくという。彼らの常食は、一日七、八合、仕事に出た時は一升が普通だときいては、如何に粟や稗の飯でも、よく食べられたものだと感心する。
十四
山小屋の秋の一夜。私はツルゲネフの『猟人日記』を思いうかべつつ、再び遭うことの難かるべきこの詩的の一夜を、楽しく過さん手段を考えた。
窓近くに鹿が鳴いたら嬉しかろう。係蹄で捕れた兎の肉を、串にさして榾火で焼きながら、物語をしたら楽しかろうと思った。囲炉裡の火は快よく燃える。銘々長く双脚を伸して、山の話村の話、さては都の話に時の移るをも知らない。
宗平は真鍮の煙管に莨をつめつつ語る、さして興味ある物語でもないが、こうした時こうした場所では、それも趣きふかくきかれたのであった。
猟の話から始まる。
昔は、羚羊も、鹿も、猪も、熊も、猿も、狼も、里近くまで来た、その数も多かったが、近頃は殆ど姿も見せぬという。猿は山畠に豆をとりに来るが、その数も少くなったという。数年前、信濃の猟師が、この山で大熊を捕えたが、格闘のとき頬の肉を喰い取られた。熊は百金に代えられたものの、頬の治療に八十五円を費やし、結局三、四ヶ月遊んだだけの損であったという。
湯島村の経済に話は移る。
貧しい村で、農産物は少しばかりの麦、粟、稗、豆のたぐいと、僅かの野菜にすぎぬが、それでも村で食うだけはある。いずれも山畠で、男の児は十二、三になれば、夏は一日一度は山畠に出る。砂糖もなく、菓子もなく、果物もない、この土地の子供は気の毒なものだ。夏の野に木苺をもとめ、秋の山に木通や葡萄の蔓をたずねて、淡い淡い甘味に満足しているのである。
家々の生活は簡単なもので、醤油なければ、麦の味噌はすべてのものの調味を掌っている。鰹節などは、世にあることも知るまい、梅干すらない。
早川はあっても魚は少い。このように村は貧しいが、また天恵もないではない。湯島の温泉から年々いくらかの税金も取れる、早川から冬は砂金が採れる。交通が不便のお蔭に物入りもなく、貧しいながらも困っているものは一人もないという。この兄弟も、銘々懐中時計を持っている。宗忠の家にも大きなボンボン時計があった。
このように、碌なものは食わないが、それでも皆丈夫で、医者は一人もいないが病人もない。奈良田でも湯島でも、徴兵検査に不合格は殆どないと誇っている。
牛を知らぬ、馬を知らぬ、人力車、馬車、自動車、汽車、電車、そんなものは見たことがない、車というのは水車のことで、小舟さえないから、汽船も軍艦も画で想像するばかり、もちろん白峰の頂上へでもゆかなければ海も見えない。東京を西に距ること僅かに三十里、今もなお昔のままの里はあるのだ。
十五
話に実が入って夜は十一時になった。便所はときくと、この小屋の渓に向った方に板がある。その上からという。「蝋マッチ」をてらして辛うじて板の上へ出たが、絶壁にも比すべきところに、突き出された二本の丸太、その上に無造作に置かれた一枚の薄板、尾瀬沼のそれにも増した奇抜な便所に、私は二の足を踏まざるを得なかった。空はと見上げれば星一つない。雲の往来も分らぬ、真の闇でそよとの風も吹かぬ夜を、早川の渓音が幽かに、遠く淙々と耳に入る。
薪は太きものが夥しく加えられた、狭きところを押合うように銘々横になる。宗平と宗忠は、私に遠慮して、入口近く一団となって寝ている。枕は「メンパ」であろう。宗忠の持ってきた怪しげな縞毛布が、二人に一枚かけられてある。私は、彼らが手にとって見て、ゾッキ毛糸だと驚いた厚羅紗の外套を着たまま、有合せの蒲団を恐る恐るかけた。枕は写生箱の上に、新しい草鞋、頭が痛いので手袋を載せた、箱が辷って工合がわるい。
いずれも足は囲炉裡の中へ、縮めながらも踏込んだままだ。榾火が消えかかると、誰か起きては薪を加える、パチパチと音して、暫くは白い煙がたつ、パッと燃え上る、驚いて足を引っ込めるが、またいつか灰の中に入って、足袋の先を焦がすのであった。
小屋には牀はない、土の上に莚を敷いたばかりだが、その土は渓の方へ低くなっている。囲炉裡に足を入れていては、勢い頭は低い方に向く、頭の足より低いのは、一体心地のよいものではない。身体は崖の方にズリ下る、ズッてズッてそのまま早川渓へ堕ち込むような気がして、夢はいく度となく破れる。何やら虫がいて、襟から手元から、そこらあたりがむず痒い。右を下にした、左を下にした、仰向いても見た、時々は吾知らず足を伸ばして、薪木を蹴り火花を散し、驚いて飛起きたこともあった。
宗平兄弟も、鼾の声はするがよくは眠らぬらしい、絶えず起きては火を消すまいとする。おかげで少しも寒さを覚えなかった。サラサラと板屋をうつ雨の音がする。烈しくは降らぬが急に歇みそうにもない。井川の山々は、何故私に逢うのを嫌うのだろうと情なくもなる。
十六
無造作に押よせた入口の草の戸、その隙間から薄明りがさして、いつか夜は明けたらしい。起きて屋外へ出たが、一面の霧で何も見えない。西山東山、そんな遠くは言わずもがな、足許の水桶さえも定かではない。恐しい深い霧だ、天地はただ明るい鼠色に塗られてしまった。
顔を洗うことは出来ない、僅かに茶碗に一杯の水で口を漱いで小屋に入る。宗忠は飯を炊き始める。水桶に移すと、今度は宗平が飯を炊く、見ると湯の沸いた中へ、一升ばかりの粟を入れる。村では少しの麦を加えるそうだが、山上では粟ばかりだという。どんな味かと聞たら、温いうちはよいが、冷えたらとても東京の人には食べられまいという。
今朝は汁もない、辛い味噌漬二切で食事をすます。
暫く焚火を囲みながら、天気の模様を見る。
霧は晴れそうにもない。沢のほとり、林のあたりで、何やら冴えた声で鳥が啼く。うっとりとよい心持になる。歌舞伎座も八百膳も用はない。このまま一生ここにいても悪くはないと思う。が、そうもならない、この霧は昼過ぎにでもならねば晴れまいという。残念だが六万平を思い捨てて湯の宿へ帰ることにした。
霧の中を下へ下へと急ぐ、急に明るくなって、遠くの山が一角を現わすかと見ると、忽ち暗くなって、すぐ前の林をかくす、歩一歩、早川渓の水声が高くなって、吾らはいつか宗平の家の前に立った。
俄に雨が降り出したので、洋傘を借りて、霧繁き草道を、温泉へ帰ったのは十時頃であった。
昨夜帰らないので、宿では迎いを出そうとしたそうだ、しかし宗忠もついているから、たぶん湯島へ泊ったことと、終に見合せたといっていた。
生温くとも湯に入った心持はわるくはない。
十七
九日には曇っていたが、降りそうにもないので、前日見ておいた湯島河原の小流を写そうと思って、九時頃から出かけた。上湯島に渡る釣橋の手前で、河原を少し跡へ戻ると若杉の森があって、その下に細い流れが見える。流れに掩い冠さっている秋草の色が美しい。ここで縦画を描きはじめて四、五時間を送った。
十日には出発の予定であったが、朝起きて見れば、すさまじき大雨で終に見合わせた、昨夜は満天に星が輝いていたのに、秋の空は頼みがたいものだと思う。
清かりし湯川の水も濁り、早川は褐色に変って、水嵩も常に幾倍して凄い勢いであった。
湯島温泉の長所は、気候の温和なため、秋の紅葉が長く見られること、宿の気の置けぬことなどで、短所は、ちょっと出るにも武装をせねばならぬ不便、郵便のおそきこと、物価の安からぬことなどである。夜に入って大風吹きすさみ、梢を鳴らし枝を振う、紅葉黄葉、恐らくあとかたもなく早川の流に乱れて、遠く遠く南の方に去り、一夜にしてこの渓を冬に化せしめしことならんと思いつつ夢に入る。
十八
十一日は、霧の間に所々鮮かなコバルトの空も見えた。宿を出たのは八時半、峠の上までというので、宿の若い人に荷物をたのむ。来路を避けて七曲峠を、池の茶屋へ出で、鰍沢に向うのである。
天長節に上った峠、それと同じ道で、通例曲折の烈しきところを、よく九十九折などと形容するが、ここは実に二百余を数えた。あいにくの霧は南の空を掩うて、雪の峰は少しも見えない。
一里ほどで栂の林となる、ジメジメと土は濡れて心持がわるい。折々白い霧は麓から巻き上げてきて、幹と幹との間を数丁の隔たりに見せる。峠を越して少し下り道のところで若者に別れ、これからは独りでかなり重い道具を担いでゆく。何処も霧で、数間先もよく見えぬ、心細いこと夥しい。
雨後奇寒のために出来た現象であろう。道端の木々の枝は、珠と連なる雨水が、皆凍って、水晶で飾ったように、極めて美しい。木の葉には、霧は露となり、露は凍って、氷掛けの菓子のようになって、枝にしがみついている。時ならぬ人の気配に驚いてか、山鳥が近くの草叢から飛出す。ハタハタと彼方に音するのは、鳩であろう。山毛欅の大木に絡む藤蔓、それをあなたこなたと跳び走っているのは栗鼠である。
熊笹を分けて一筋道をゆくと、往手に新しい家が見える、飴の茶屋というのはこれであろう。戸は閉されてだれも人はおらぬ。青柳へ下って帰らぬので、冬は大かた里にいるという。
茶屋の前から道は三筋に分れる。池の茶屋へゆくもの、デッチョーの茶屋へ向うもの、他の一つは奈良田へゆくのである。私は左を取って池の茶屋へ向った。
空模様はだんだんよくなり、折々はパッと日が照らす。山腹の岨道を何処までもゆく、少しずつの下りで足の運びは早い。
湯島から三里も来たころ、枝振よき栂の枯木を見つけて写生する。すぐ近くの笹の中では、藪鶯が一羽二羽、ここに絵筆走らす旅人ありとも知らで、ささ啼きの声が忙しない。
池の茶屋に着いたのは一時半であった。
十九