4話 四
読み方を変える
矢野は東京の空気のなんとなく荒けていて、病身な自分には、すこぶる気味悪く思われてならなく、十日二十日といるうちには、必ずからだに異状を起こすだろうと恐れておったところ、もう一カ月の余たっても、少しも身に変化を感じない。それにようやく下宿にもなずみ、学校にもなれて、すべてのうえに安静を得て来た。捕えようと望んでいる物がどうにか、捕え得らるるような気分になった。
東京の学生生活にも、いちじるしく趣味を感じてきた。下宿屋の状態から、諸商人のようす表通りの商店の風などにも、目がとまり、自分の周囲がすべて明るくなって、ようやく身外の事物に目をそそぐ余裕ができてきた。ここへ始めて来た時の、三日おっても毎日来る下女の顔を知らなかったのに比べると、人が違ったごとく思われる。このごろ矢野は自然に元気が出て、よく中島や木島が室へ話にゆく。隣室の法学生ともいく度か話をした。とにかく人の話をおもしろく聞かれるようになった。給仕の下女に愛想の一言もいうようになった。同級生に知り合いができて訪ねてくる。国から手紙がくる、友人から手紙がくる。母と妹とからくる手紙はいつでも長い。み篶子も絵はがきを送ってきた。心の匂いは少しも現われてはいないけれど、らちもなく嬉しい。み篶子がただういういしく少しもあだめいたふうがなく、無心に咲いてる花のようなおもむきが、矢野には嬉しくてならないのである。それで、自分からも毛の先ほども、いやらしい事はいうてやらない。みなぎるような心の思いを、じっとこらえていわないところに矢野はひとり深き興味を感じている。それでもみ篶子に送る絵はがきの選択には銭も時間も惜しくなかった。
こういう調子でこのごろ矢野の下宿生活は寂しいものではない。大木から軸物など借りてきて、秋草の花を瓶にさし、静かにひとりを楽しむ事もあった。
ようやく本業の学問にも興味を持ち、金井博士の教授振りが大いに気にいって学校へ出るのもおもしろくなった。その間には歌もたくさんできて、某々雑誌へ掲げたうちには恋の歌が多い。
まがつみの世にあることも知らぬげに匂える君を思いつつぞ寝る
天つ日のめぐみに動き含みたる君が面わしいめに見えつも
いかにも可憐な歌で非常におもしろい。矢野の清らかな人品がよく現われている。ただなんとなくひ弱くはかなげなるは、どうしても病を持てる人のものと思われて哀れが深い。大木はこの歌を読んでこれは空想の歌ではない、矢野は恋人があるなと気づいて、独り目をうるおした。矢野が病の外に恋を持っているとなれば、悲しむべき運命に会うた時に、いっそうその悲惨を深くすべきを思うたからである。
九月十月の二た月は矢野もすこぶる元気よく経過し、体力のやや回復したにつれて、内心の不安もいつとなし薄らぎ、血色などもよほどよくなった。このぶんで今年の冬を無事に経過し得ればたしかなものだと、人もそう思い自分もそう思うた。けれどもこれは空頼みであった。
十一月天長節日曜と続いたを幸いに矢野は、中島木島らと、日光の紅葉狩りに行った。つぎの日曜に矢野は歌をたくさん作って大木を訪ねる。歌は恋の歌より振わなかった。大木は「日光へ行くなどと少し無法じゃないか。」と小言をいう。矢野は元気よく「なにだいじょうぶです。」と答えたものの、じつは帰った翌日あたりから、寝汗をかくようになった。二日ばかり休んで歌など作ってるうちに、よくなったからこの日さっそく大木を訪問したのである。大木は時候の変化する際であるから、じゅうぶんに気をつけないといけないと注意した。
それから、五六日過ぎて矢野は、自分のほうの講義がすんでから、二三の同級生がさそうままに、解剖室を見に行った。矢野は医学生ながら解剖というものを始めて見るので、なんとなく気味が悪い。あれが解剖室かと思うと、遠くから形容のできないたまらなくいやな臭気がする。
教師は教授がすんだのか、今解剖室を出かけるところだ。解剖の教師は恐ろしい顔でもしているかと思って見ると、温厚な君子然とした人であった。矢野は気味悪く一番あとになって室へはいった。
消毒衣を着た学生四五人ずつ、二組に別れておのおの今解剖したあとを注視して話をしている。ひとりの学生はなお剖いて見る気か、しきりに刀を研いでる。死体は二つであった。
一つは三十ぐらいの男で、「頭に手をつくべからず。」と札が下げてあった。頭ばかり手をつけずに、全部分解がすんだあとであった。一つは女で今頭を分解したところで、頭をメチャメチャに切り剖けられては男も女もない。矢野にはまだなにがなにやら一向わからぬ。臭いの汚ないのというところは通り越している。すべての光景が文学的頭の矢野には、その刺激にたえられない思いがする、寒気がする。
なれてくると、刀で間に合わなく指で臭肉を引き裂いたり、そうしてその手をちこちこ洗って、そこで平気で弁当もやるそうだが、しかしいくら医者でも始まりはずいぶんいやなものだそうだ。矢野は人一倍閉口したのである。
矢野はつくづくそう思った。人間の生命をあずかるという天職から、こういうことをするならば、医師はじつに尊い職業であるが、自己の生活的職業のためにこんな事をするのは考え物だと思った。ずいぶんいやしい職業のようにも思われる。しかし人が平気でやることを自分にばかりできないわけはない。いやだと思うのは自分の幼稚なのだ。どうしたって自分は医者にならねばならぬのだ。
矢野はこんな事を考えつつ帰って来た。いつにもなく疲れて飯がうまく食えなかった。
机の上にみ篶子からの絵はがきと妹からの封書がきてる。「紅葉の絵はがき有難く候一月休みのお帰り待上候。」とあるはみ篶子の消息だ。物足らないようでかえってゆかしい。恋しさが胸にしみ入るように悲しい。妹のは例によって長い。「日光よりのお便りは家中驚きそれほどじょうぶになったかと父も母も一通りならぬ喜び、自分も神様へ礼参りを致し候。」とある。矢野はすぐに気が沈んできた。物悲しく寂しくてたまらなくなった、二三日寝汗をかいたことを思い出し、人々の希望にそむくようになりゃしないかという懸念が、むらむらと胸先へ激りきて涙がぼろぼろと落ちた。「こうおれも気が弱くてはしかたがない。」と強く思い返して見ても、なんの踏みこたえもなく悲しくなってしまった。矢野はたえられない思いで、立って窓の外を眺める。窓の先は隣家のやねで町は少しも見えない。青く深く澄んだ空に星の光りがいかにも遠く遙けく見える。都会のどよみはただ一つの音にどやどやと鳴っている。矢野は自分はこの青空とも関係なく、この都会のどよみにも関係なく、ただ独りでここにいるような気がする。あすにも学校をやめて帰りたいような気もする。どうもおかしいと気がついてみれば、たしかに少し発熱している。矢野は立ってる力もなくなって、夜具を投げ出し着の身きのままに寝てしまった。