太平洋魔城

2話 太平洋魔城(2)

9,620字 約19分 2006年7月26日 公開

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 太刀川は、飛行艇にぶじ乗りうつることができた。

 飛行艇サウス・クリパー号は、六つの発動機をもっている巨人艇である。見るからに、浮城といった感じがする。

 金モールのいかめしい帽子を、銀色の頭髪のうえにいただいているのが、艇長ダン大佐だった。彼は欧州大戦のときの空の勇士の一人として有名な人物だった。

 太刀川が入った客室には、二十四人の座席があった。彼が座席番号によって、自分の席をさがしていると、ダン艇長がつかつかとやって来て、

「おお太刀川さん。あなたの座席はここですよ」

 といって、自ら案内してくれた。それは室の一番隅の席であった。

「やあ、すみません」

「いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます」

 そういってダン艇長は、大きな手で、太刀川の手を握った。知人のない太刀川は、思いがけない艇長の言葉に、たいへん嬉しさを感じた。

 室内へ入ってくる乗客をじっと見ていると、ずっと遅れて、例の酔っぱらいリキーとケント老夫人とが入ってきたのには、ちょっと不愉快になった。

「さあ、どけ。こんなところで何をしてやがる」

 たちまち室内にひびきわたるリキーの怒号の声!

 間違ってリキーの座席にすわっていた若いインド人夫妻が、締め殺されるような悲鳴をあげて、太刀川のいる方へ逃げてきた。

「どうしました。あなたがたの座席番号は?」

 と、太刀川がきいてやると、二人はよろこんで、まだぶるぶる慄える手に二枚の切符をもって、さしだした。

「四十七号と四十八号。それなら、私の前です。私は五十号ですから」

 インド人夫妻は、うれしそうに、いくども礼をいって、太刀川の前に座をとった。

 眼をあげて、リキーの方をみると、かの二人はようやく落ちついたようであった。すなわち、太刀川のいるところと真反対の一番隅に、老夫人がふかく腰をおろし、通路に近い方に酔っぱらいのリキーがすわっている。

 そのうちに、出発の時刻がだんだん迫ってきた。

 はげしく、賑やかに銅鑼(どら)が鳴りだした。乗客たちは、飛行艇の窓から外をのぞきながら、小蒸気の甲板にいる見送人と手をふり、ハンケチをふって、別れの挨拶をする。

「出航用意!」

 艇長ダンの声が聞えた。

 太刀川の席のすぐ向こうに、艇長室があるらしく、彼の命令する声がひびいてくる。しかしこれはよく調べてみると、艇長室と彼の席のすぐうしろの壁との間に空気ぬきのパイプが通じていて、それがあたかも伝声管のような役目をして、向こうの声がこっちへ伝わってくるものだとわかった。

 発動機は、轟々(ごうごう)と音をたてて廻りだした。いよいよ太平洋を西から東へ、一万四千キロの横断飛行が始るのである。

「出航!」

 号令とともに、飛行艇は海上をすべりだした。

 スピードは、ぐんぐんあがる。

 艇のあとにひいた(おびただ)しい泡が、はたとたち切れると、艇はすーっと浮きあがった。空中の旅が始ったのである。見下す海面は、ガラス板のように滑らかであった。

 どこかで、無電をうっているらしい音が、しきりにする。

 ふりかえると、いつの間にやら、香港一帯が箱庭の飛石のように小さくなった。発動機の振動が、微かに座席にひびいてくるぐらいで、全く快い空の旅であった。

 酔っぱらいのリキーは、大きな(いびき)をかいて寝こんでしまった。老夫人もその隣で、じっと(ねむ)っているらしい。室内では、乗客たちがだいぶん落ちついて、あっちでもこっちでも、しずかな談話をはじめたり、チョコレートの函をひらいたりしている。しかし艇員が出入に防音扉をあけるごとに、轟々たる発動機の音が、あらゆる話声をふきとばしてしまう。だが、なんという穏やかな空の旅であろう。

 それから一時間たった。

 艇は、針路を南東にとって、一路マニラにむけて飛行中であった。すでに陸地はとおくに消えてしまって、真青な大海原(おおうなばら)と、空中にのびあがっている入道雲との世界であった。その中を、飛行艇サウス・クリパー機は翼をひろげ悠々と飛んでゆく。

「艇長、本社から無電です」

「なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか」

 艇長は、しばらく黙っていた。暗号を自分で解いているらしかった。

「事務長をよべ」艇長の声は、甲高い。

「艇長、お呼びでしたか」

「うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ」

「はい」事務長は電文を読みだした。

「貴艇内に、共産党員太平洋委員長ケレンコおよび潜水将校リーロフの両人が乗りこんだ。監視を怠るな。マニラにて両人の下艇をもとめよ。あとの太平洋飛行は危険につき、当方より命令するまで中止せよ」

 事務長の顔は、真青になった。

 艇長ダン大佐の眉に心配の(しわ)がよった。

「どういたしましょう」

「飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った」

「しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません」

「いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ」

 さっきから、この会話を聞いていた太刀川の眼が、きらりと光って、向こうの隅に睡っている酔っぱらいリキーと老夫人ケントのうえに落ちて、じっとうごかなくなった。

 太平洋横断の、しずかなる空の旅とおもっていたが、いまやこのサウス・クリパー機上の百人近い命は、最大危険にさらされていることがわかったのである。

 ニューヨーク本社が慄えあがった共産党員太平洋委員長ケレンコとは、一体何者であろうか。彼は何を画策しているのであろうか。

 帝国の国防のため重大使命をおびている武侠の青年太刀川時夫は、はからずもたいへんな飛行艇の中に乗りこんだものである。

 さあ、どうなる? 太平洋横断の飛行艇サウス・クリパー機の運命は!

   大捜査

 おそろしい二人の共産党員が、このサウス・クリパー艇の乗客のなかに、名を変えてまぎれこんでいるというのである。

 一体だれが共産党太平洋委員長ケレンコであり、まただれが潜水将校リーロフなのであろうか。

 太刀川時夫は、空気ぬきのパイプから洩れてくる艇長室の声に、じっと耳をかたむけている。

「おい、事務長」

 ダン艇長の声だ。それはなにごとか決心したらしい強い声だった。

「はい、艇長」

 別の声だ。

「とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう」

「はい、かしこまりました。では早速……」

「うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ」

「よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう」

「うん、うまくやってくれ」

 その後は、声が急に低くなって、聞きとれなかった。

 それから十五分ほどすると、捜索隊の顔ぶれがきまったのか、事務長が艇内の方々へ電話をかけはじめた。

 秘密のうちに共産党員にたいし、戦いの火蓋が切られたのである。

 当のケレンコとリーロフが、知っているかどうか知る由もないが、艇内はにわかに、重苦しい空気につつまれて行った。

 太刀川時夫は、座席にふかく体をうずめたまま、じっとこらえていた。

(怪しい奴といえば、あの向こうの隅に睡りこけているケント老夫人と、酔っぱらいのリキーの二人組だが……)

 太刀川は、どういうものか、二人組が気になって仕方がなかった。

(しかし待てよ。共産党員のケレンコとリーロフというのは、どっちも男だ。ところがあの二人は、一人は荒くれ男だけれども、もう一人の方はお婆さんではないか。するとこれは、別人かな)

 と思ったが、それでもなお、彼はこの二人組から、目を放す気持にはなれなかった。

 その時であった。

 とつぜん防音扉が、ばたんとあいてどやどやと捜索隊がはいってきた。

(すわこそ!)

 と、太刀川時夫は席から立ちあがろうとしたが、いやまてと、はやる心をおさえつけて、そのまま席に体をうずめた。

「ひどい奴だ。さあ、こっちへ来い」

 隊長らしい艇員の一人が、声をあららげて、誰かを叱りとばした。

(さあ、始ったぞ。リキーの奴がひきたてられるのか!)

 太刀川は、印度人夫妻の肩ごしに、その方に目を光らせたが、リキーは今目をさましたらしく、両腕を高く上にのばして、大あくびをしているところだった。

(あれ、リキーじゃないとすると、一体誰が叱られているんだろう?)

 そのとき、隊長らしい艇員が後をふりむきざま、

「さあ、早くこっちへくるんだ」

 といって、顔をまっ赤にして、一人の少年の首すじをつかんで、ひきずりだした。見ると、それは色のあせた浅黄(あさぎ)いろのズボンに、上半身はすっ裸という恰好の、中国人少年だった。

「貴様みたいな小僧に、この太平洋をむざむざ密航されてたまるものか。この野郎めが」

 艇員は拳をあげて、少年の小さい頭をなぐった。

「ひーい」

 少年は、悲鳴をあげた。

「なんだ、密航者か」

「ふとい奴だ」

「いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ」

 乗客たちは、てんでに勝手なことをいって、さわぎだした。

「さあ、早く歩け」

   密航少年

 と、隊長の艇員は叱りつける。と突然、

「やかましいやい」

 とリキーが座席から立ち上って、どなった。

「密航少年の一人ぐらいで、なんというさわぎをやってるんだ。俺がかわって片づけてやらあ。さあ、その小僧をこっちへよこせ」

 リキーは、松の木のような太い腕をのばして、少年をぐいとつかんだ。

「ああ、ちょっとお待ちください。この少年の処分は、ダン艇長がいたしますから、どうかおかまいなく」

 艇員の隊長は、腕節のつよそうなリキーに遠慮がちに、それでもいうだけのことをいった。

「おれはさっきから、頭がいたくてたまらないんだ。貴様がこの小僧をぴいぴい泣かせるものだから、頭痛がいよいよはげしくなってきたじゃないか。なあに、こいつを片づけるくらい、訳のないことだ。窓から外へおっぽりだせば、それですむじゃないか」

 リキーは、たいへんなことを、平気でいった。そしてそれをすぐにもやりそうであった。

 乗合わせている婦人たちは、さっと顔色をまっ青にした。

「まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから」

「艇長なんかに用はない。そこを放せ」

 ケント老夫人が、リキーをとめるだろうと思っていたのに、どうしたわけか、老夫人は知らぬ顔をしてそっぽを向いている。

 このさわぎを、太刀川時夫はさっきからじっと眺めていた。はじめは冗談のおどかしかとおもっていたが、リキーが本当に、中国少年を飛行艇からなげだしそうなので、これは困ったことになったと思った。

 密航するのは悪いにきまっている。しかしその罰に、命をとるというのは、無茶な話だ。可哀そうに、少年は、リキーの腕の中で手足をばたばたさせながら泣き出した。

(もう見ていられない。誰もたすけだす者がいなければ、一つ僕がリキーをとっちめてやろうか)

 と、太刀川は考えた。リキーは、相当腕節が強そうだが、強い者が弱い者をいじめているのを日本人の血はどうしてもだまって見ていられないのだ。

 彼は、拳をかためて、すくっと立ちあがった。その時、足もとでがたんと音がした。何かとおもって下をむくと、東京を出発するとき原大佐から贈られた例の太いステッキであった。

“待て太刀川!”

 洋杖が、なにか囁いたようであった。

“お前の使命は、重大だぞ”

 大佐が別れにのぞんで彼にいった言葉が思いだされた。

(そうだった。軽々しいことはできない)

 太刀川は、一歩手前で、気がついた。彼の双肩には、祖国日本の運命がかかっているのだ。リキーと闘って勝てばいいが、もし負けて、中国少年同様、南シナ海になげこまれてしまえば、祖国への御奉公も、それまでではないか。

(といって、あの中国少年は見殺しには出来ない)

 太刀川は、わが胸に問い、わが胸に答えながら、考えこんでいたが、何事を思いついたのか、

「そうだ」といって席をたった。

   おそろしい制裁

 ダン艇長は、隣室の騒ぎを、まだ知らなかった。太刀川が扉をひらいたので、はじめて気がついたようであったが、太刀川は立ちあがろうとするダン艇長を、すぐさま手まねで押しとどめて、そして扉をぴたりと閉じた。

 どんな話が、艇長室のなかでとりかわされたかわからない。

 だが、それから、一、二分のち、ダン艇長は間の扉をひらいて、さりげない風で、たけり立つリキーの前にやって来た。

「おさわがせして、あいすみませんでした。どうぞリキーさん、その少年をこっちへお渡しください」

 艇長は、おそれ気もなく、リキーによびかけた。

「な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ」

「ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?」

「なんだと!」リキーは、眉をぴくりとうごかした。

「密航者はどこにいるかって? この野郎、貴様の目は節穴か。よく見ろ、こいつを」

 リキーは、熟柿のような顔をしながら、片腕にひっかかえた中国少年の頭を、こつんと殴った。

「あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません」

「何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ」

「いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです」

「馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ」

「いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません」

「そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ」

「だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです」

「なにを。こいつが!」

 叫びざま、リキーが艇長におどりかかろうとした時、

「リキー、その子供をお放しよ」

 それまで隅っこに風呂敷のような布をかぶって、だまっていたケント老夫人が、かすれ声でたしなめた。

「ううん。ちぇっ」

 リキーは舌うちしながら、にわかに見世物の象のようにおとなしくなった。それでも、なにかぶつぶついいながら、小脇にかかえこんでいた中国少年を、床のうえにどすんと放りだした。

「あっ」といって、中国少年は、その場に倒れた。

 太刀川時夫は、そうなるのを待っていたかのように、前へすすみ出て、中国少年をおこしてやった。

「もう泣かないでもいい、こっちへおいで」

「?」

 中国少年は、びっくりしたような顔をして、太刀川青年を見あげた。

「さあ、僕のとなりの四十九番の席にかけなさい」

 太刀川は、汚れきった中国少年に眉一つゆがめず、やさしくいたわって、座席へつかせてやった。

 太刀川は、ダン艇長にたのみ、料金を払って中国少年をたすけてやったのであった。

 これで密航者の問題は無事におさまったが、おさまらないのは、厄介な酔っぱらいリキーであった、よろよろと立ち上ると突然、

「やい」

 と叫んでどすんと腰を下した。

「やい、よくも貴様は、おれの邪魔をしやがったな。よーし、今にみていろ、吠面(ほえづら)をかかしてやるからな」

 いいながら又立ち上ろうとする。と、ケント老夫人が又たしなめた。リキーはしぶしぶ腰を下したが、いまいましそうにこちらを睨みながら、時々何事かつぶやいていた。

 太刀川は、たいへんなお客と乗り合わせたものだと思った。

 中国少年は、彼にたすけられて、すっかり安心したものか、すやすやと安らかな(いびき)をかきはじめた。

   怪しい透視力

 密航少年事件が、曲りなりにもおさまったので、ダン艇長は、艇員たちをつれて、自室にひきあげた。

「どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね」

「はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした」

「私の受持でも、駄目でした」

「そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね」

 ダン艇長の顔には、深い(うれい)(しわ)がうかんだ。その時、

「艇長」

 とよびかけたのは、事務長だった。

「何だ」

「あの本社からの秘密無電に、誤りがあるのではないでしょうか。もう一度、本社へたずねてみては、いかがでしょう」

「そうだね。いや、もっともだ」

 艇長はうなずいた。彼は通信長を電話によび出し、

「おい、すぐ本社へ無電連絡をたのむ。なに、天候状態がわるくなったって、それは困ったね。だが大事なことだから、なんとかして、至急本社と連絡をとってくれ」

 艇長は、電話機をかけた。

「天候が悪くなったそうだよ」

「そうですか」

 と事務長は、丸窓から外をのぞいてみて、

「ああ、あそこへ変な雲がでてきました。不連続線のせいですよ。一荒れ来るかもしれません」

 艇長も外に目をやった。なるほど、南の方から、まっ黒な雲がむくむくとのぼってくる。

「海の上の気象は、これだから困る。操縦室へ、注意をしてやれ、それから事務長、マニラへ無電をうって、すぐさま近海気象をたずねてくれたまえ」

「はあ、ではすぐ連絡方を、通信室へいって頼んできましょう」

 事務長は、腰をあげて、艇長室を出ていった。急に時化(しけ)模様となったので、他の艇員たちも、それぞれ自分の持場へ帰っていって、艇長室には、ダン艇長一人となった。

 彼は心配そうに、窓の外をながめている。

「こいつはなかなか手ごわい雲行だぞ。すぐに針路を変えなきや、危険だ」

 艇長は、操縦室と書いたボタンを押して、電話機をとりあげた。

「おお、操縦長か。あの雲を見たろう。針路をすぐに北へ四十度曲げてくれ」

「北へ四十度。するとマニラへはだんだん遠くなりますが――」

 操縦長の声であった。

「仕方がない。このままマニラへ近づくことは、あの黒雲の中の地獄へ近づくことだ」

「はい。ではすぐ」

「そうだ、そうしてくれ。そして当分全速力でぶっ飛ばすんだ、嵐より一足先にこっちが逃げちまわないと、たいへんなことになる」

 どこまでも不運なサウス・クリパー機であった。兇悪な共産党員に乗りこまれている上、いままた悪天候に追いかけられることとなった。艇長は、乗員の安全をはかるため、いままで目的地のマニラへ向けていた針路を、ぐっと北へ変えた。

 すると、マニラに到着するのは、何時になることやら。

「小父さん。外はひどい嵐になったよ」

 太刀川時夫は、だしぬけに中国語でよびかけられて、はっと目を覚ました。彼は(ねむ)ってはならないと思いつつ、いつの間にか、うとうととしたのだった。

 声のする方にふりむくと、すぐ鼻さきに、中国少年の汚れた顔があった。

「ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね」

「小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へ(むき)をかえたよ」

「はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね」

「おれの名かい」

「そうだ」

石福海(せきふくかい)というのだ。こういう字を書くんだよ」

 少年は、掌のうえに、指さきで文字をかいてみせた。

「なるほど石福海か。福海にしては、ちとみすぼらしい福海だね」

 その時であった。少年は太刀川の脇腹をぐっと突いた。

「小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ」

「えっ」

 彼は、顔をあげて、室の出入口を眺めた。出入口の扉を押して、ケント老夫人が出てゆくところだった。酔っぱらいのリキーを座席にのこしたまま!……

   電送写真

(変なことをいう少年だ)

 太刀川は、ふしぎに思った。

「お前は、何をいうんだ。今出ていったのは、お婆さんじゃないか。お前は目が見えないわけじゃなかろう」

「そうなんだよ、小父さん」

「何だって」

「おれは目がわるくて、目の前ほんの一、二(メートル)ぐらいしかはっきり見えないんだよ」

「ほほう。そうか。そんなに悪い目をしていて、出入口を通る人をあてるなんて、おかしいじゃないか。はははは」

 ところが、少年は至極まじめだった。

「ちがうよ。そんなことは、目でみなくたって、おれには、ちゃんと分かるんだよ」

「なに、目でみないでも分かるって、馬鹿なことをいうものでない。いいからもうだまっておいで」

 太刀川は、石少年が透視術みたいなことをいうので、ちょっと気味が悪かった。だが、ケント老夫人のことを男だなんて、そんな当りの悪い透視術は、もうたくさんだとおもった。

 だが、はたして彼の考えた如く、石少年の言葉はまちがっていたであろうか?

 無電室では、四人の係員たちが、器械の前にすわりこんで、耳にかけた受話器の中に相手無電局の電波を、しきりに探しもとめている。

 天候状態は、つづいて悪かった。

 そこへダン艇長が、顔をこわばらして入ってきた。

「どうだ。まだ入らないか」

「マニラはやっと入りました。しかしニューヨークの本社が、さっき入りかけて、また聞えなくなってしまいました」

 通信長が答えた。

「マニラの気象通報は、どうだった」

「あっちも、悪いそうです。北々西の風、風速二十メートルだといってました」

「そうか」

 艇長は、それだけいって唇をかんだ。

 その時、一番奥の器械の前についていた通信士が、両耳受話器に手をかけながら、こっちをふりむいた。

「通信長。ニューヨーク本社が出ました」

「なに、本社が出た。それはお手柄だ」

 通信長は、竹竿をつないだような細い体を曲げて、奥へとんでいった。そして別の受話器を耳にかけた。

「はあ、はあ、ダン艇長がいま出ます」

「おお、本社が出たか」

 ダン艇長の頬に血の色が出た。

「ああ本社ですか」

 艇長の声は、上ずっていた。

「なに、専務ですか。いや、しばらくでした。ところで、例の二人組の共産党員ですがね、こっちじゃ分からなくって困っています。これにのりこんだことは、たしかなのでしょうね」

 しばらく艇長の声がとぎれた。

「ははあ、そうですか。すると、たしかに乗っているわけですね。では、そっちにその二人の人相書かなんかありませんか。ええ、何ですって。写真、それは素敵です。では、すぐその写真を電送して下さい。こっちの用意をさせますから」

 艇長は、まっ赤に興奮している。

「おい、写真電送で、二人の顔を送ってくる。すぐ受ける用意をしたまえ」

「はい」

 通信士は、スイッチをひねって、写真電送のドラムを起動した。このドラムの中に、薬品をぬった紙が入っていて、向こうから送る電波によって、一枚の写真が焼きつけられるのだ。

「は、用意ができました」

「もしもし、本社ですか。用意ができました。写真をすぐに送ってください」

 まもなくジイジイジイと、写真を焼きつけるための信号が入ってきた。もうあと十分たてば、写真は出来あがるのである。ケレンコの顔もリーロフの顔も、すっかり分かってしまうのだ。

 なんというすばらしい文明の利器であろうか!

 艇長はじめ通信係の一同は、ジイジイジイと廻るドラムの上を、またたきもせず、見つめている。やがてドラムの中に焼きあがる写真は、そもどんな顔をしているであろう。

 一分、二分、三分――誰一人、声をだす者もない。

 その時だった。

 この無電室の入口の扉が、音もなくすーっと細目にあいた。室内の者は、誰も気がつかない。

 その扉の間から、ぬーっと現われたものがある。

 あ、ピストルの銃口だ!

 ピストルの銃口は、しずかに室内の誰かを狙うものの如くぴたりととまった。ピストルを握るのは、膏薬(こうやく)をはりつけた汚い手だった。指が引金にかかった。

 とたんに、ドン! 轟然たる銃声!

   おそわれた無電室

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