3話 太平洋魔城(3)
読み方を変える
パーン!
ピストルの音が、びりっと無電室の壁をゆすぶった。
「あ!」
ダン艇長は、身をかわしつつ、うしろの扉をふりかえった。
扉がすこしばかり開いている。その間から、ぬっとピストルの銃口がでている。
――と、たてつづけに、パーン、パーン。
カーンと金属的な音がした。
と思ったら、いままでジイジイと鳴っていた写真電送の器械が、ぷつんと、とまってしまった。
(あ、やられた)
艇長が叫んだとき、
「うーむ!」
と、くるしそうな、うめきごえをあげて、今まで器械の前に、両肘をついていた通信士の体が、横にすーっとすべりだした。
「おお、撃たれたか!」
艇長が、おもわずその方へ走りよろうとしたとき、通信士の体はぐにゃりとなって、椅子もろとも、はげしい音をたてて、床にころがった。
つづいてパン、パン――
ぴゅーんと、艇長の頬をかすめて、弾は窓をつらぬき、外へとびだした。
「うー」
艇長は、うめいて、ぴたりと床にはらばった。何やつだと思った時、
「動くな。動けば、命がないぞ!」
聞きなれない太いこえが、ダン艇長の頭のうえからひびいた。
艇長は、勇気をふるって、首をうしろにねじむけた。と、その時、
「ああ、――」
艇長の目はレンズのように丸くなった。
彼は一たいそこに何を見たか。
一挺のピストルを握った膏薬ばりの手!
その手は、まぎれもなくあの老夫人、乗客ケント老夫人の手だった。
いや、姿は老夫人であったけれど、その鼻の下には、赤ぐろい髭がはえていた。大きな膏薬がはがれて、その下からあらわれたのである。
変装だった。
「一たい、き、貴様は何者だ!」
ダン艇長は、さすがに勇気があった。
「なんだ。おれの名前を聞きたいというのか。ふふん頭のわるいやつだ」
と老夫人にばけていた男は、にくいほど落ちつきはらって、無電室にはいり後の扉をしめた。そしてピストルを、ぐっとダン艇長の鼻さきにつきつけ、
「写真電送をうけるのが、も少し早かったら、君は、おれのりっぱな肖像を、手に入れたことだろう。いや、そうなっては、こっちが都合が悪かったんだ。いや、きわどいところだったよ。あっはっはっ」
「なに! じゃ貴様は、例の二人組の共産党員の片われ?」
「ほほう、いまになって、やっと気がついたのか。名のりばえもしないが、君がしきりに探していた共産党太平洋委員長のケレンコというのは、おれのことだ。忘れないように、よく顔をおぼえておくがいい」
彼は、頭からすぽりと、かぶっていた頭巾をかなぐりすてた。
「あ、ケレンコ! うーん、貴様がそうだったのか!」
ダン艇長は、ぶるぶると身ぶるいしながらも、ケレンコ委員長のむきだしの面構を見た。
大きな高い鼻、太い口髭、とびだした眉、その下にぎろりと光る狼のような目!
勝ちほこるケレンコ委員長のにくにくしいうす笑!
仮面をぬいだ悪魔
「おい、立て!」
ケレンコはどなった。
「聞えないのか。立てというのに」
ケレンコは、ピストルを握りなおして艇長につきつけた。
艇長は、いわれるままに、するほかはなかった。
「こんどは、両手をあげるんだ」
ケレンコがつづけざまにいうので、
「貴様は、この艇長の自由をしばって、どうしようというのか」
「どうしようと、おれの勝手だ。文句をいわずに手をあげろ、四の五のいうと命がないぞ」
「なに、命がない? 馬鹿をいうな。艇長を殺すことは、貴様も一しょに死ぬことだぞ。艇長がいなくなって、このサウス・クリパー号が安全に飛行できると思うか。それに――」
「それにどうした」
「わが艇員は、貴様のような無法者をそのままにしておかないだろう。無電監視所が変事をききつけて、いまに救援隊がかけつけて来る」
「うふふふ。何をほざく。貴様のうしろを見ろ、無電装置が、ピストルの弾で、こわされているのに気がつかないのか。そんなことに、手ぬかりのあるケレンコ様か」
「え――」
艇長がふりかえってみた。はたして無電装置の真空管が、むざんにも撃ちぬかれて、こわれていた。
(ああ、艇員たちは、一たい何をしているのだ。艇内が、エンジンの音でやかましいといっても、あのピストルの音が聞えないはずがない)
そのとき、とつぜん扉の向こうにはげしい銃声がきこえた。
「あ、あれは――」
艇長がおもわずさけんだ。
「ほう、やっているぞ。艇長さん。あれが耳にはいったかね」
ケレンコ委員長は、にやりと笑って、艇長の方を見た。
「なんです。あの銃声?」
「うふ、そんなに知りたいのかね、まあお待ち。いいものを見せてあげよう」
委員長ケレンコは落ちついたもので、ピストルをゆだんなく艇長の胸につきつけながら、左手で扉をどんどんとたたいておしあけた。
と同時に、扉のかなたで「あっ」というおどろきのこえがした。大勢の艇員を向こうにまわして、にらみあっている一人の大男! その男が顔をくるっとダン艇長の方へまわしたのを見ると、おお、酔っぱらいの暴漢リキーであったではないか。
「あ、リキー」
「そうだ。リキーだよ。艇長さんは、よくおぼえていたね」
「あの酔っぱらいを忘れるやつがあるか」
「そうだ。誰も知っているよ。しかしリキーというのは、およそ彼に似あわしからぬ名だ。おい、ダン艇長さんとやら。あの手におえない男の本名を教えてやろうかね」
「え、なんだって」
「そうおどろかないでもよい。おれの片腕として有名な男。潜水将校リーロフという名を、きいたことがありはしないかね」
「うーむ、リーロフがあの男か!」
さすがのダン艇長も、そのばけかたのうまさに、どぎもをぬかれたようだった。
おそろしいおたずね者二人が、いよいよ仮面をぬいで、おもいがけないところからとびだしたのだ。潜水将校リーロフは、ソビエト連邦にその人ありと、外国にまで名のきこえた大技術者だ。ケレンコの方は、いまは太平洋委員長という役にはなっているが、彼は、現代の世界を根こそぎひっくりかえして共産主義の世界にし、あわよくばソ連の独裁官スターリンの地位をうばって、全世界を自分の手ににぎろうとしている、とさえいわれている人物だった。
悪魔の虜
「さあ、お客さんたちも、艇員どもも、これで様子は万事のみこめたろう。うわっはっはっ」
酔っぱらいのリキー――ではない潜水将校リーロフは、ピストル両手に、すっかり勝ちほこって、仁王さまのような顔をほころばせてあざ笑った。
「いいかね。これから、ケレンコとおれとが、ダン艇長にかわってこのサウス・クリパー号の指揮権を握ったんだぞ。不服のある奴は、遠慮なくおれの前へ出てこい」
大男のリーロフは、両手のピストルを、これ見よがしにふりまわしながら、人々をにらみつけた。
この恐しいけんまくの前に、誰一人あらわれる者もなかった。
それにしても、気がかりなのは、日東の熱血児太刀川時夫のことではないか。どうしたのか、彼は先ほどからちっとも姿を見せないのだ。一たい何をしているのだ。彼もまた、ケレンコとリーロフの勢いにのまれてしまったのであろうか。
いまや大飛行艇サウス・クリパー号は、おそるべき共産党員のため、すっかり占領されてしまったようである。
「おい、ダン先生」
ケレンコはいった。
「これで写真電送の器械も役にたたなくなったし、無電装置もこわれて、外との無電連絡は一さいだめになった。そこでこんどは、この艇の操縦室へ行く番となった。さあ案内しろ」
「私がか」
「そうだ。君は人質なんだ」
ダン艇長はいわれる通りにするほかはなかった。
艇内にある武器は、潜水将校リーロフがすっかりおさえてしまった。艇員たちが、ひそかにポケットにかくしもったピストルも、みなリーロフにまきあげられてしまったうえ、頤がはずれそうなほどつよく頬をぶんなぐられた。乗客たちも、一応しらべられたが、この方は、ほとんど武器を持っていなかった。
「おや、四十九番と五十番との席があいているじゃないか。ここの二人の客はどこへいった」
とつぜん大男のリーロフが、眼をむいた。
「さあ。存じませんねえ」
リーロフのお伴をしている艇員が、首をふった。
「じゃ、乗客名簿を出せ。四十九番と五十番とは誰と誰か」
リーロフは艇員の手から名簿をひったくり、太い指さきで番号をたどった。
「うむ、四十九番は石福海。五十番は太刀川時夫。ははあ、そうか。あいつは日本人だったのか。ふふん、うまく逃げたつもりらしいが、なあに今にみろ。素裸にひきむいて、あらしの大海原へおっぽりだしてやるから」
リーロフは、ゴリラのように歯をむいてつぶやいた。
一方、ケレンコ委員長は、ダン艇長をひったてて、操縦室へのりこんだ。
操縦室は、一面に計器がならんでいた。そしていろいろな操縦桿やハンドルがとりつけてあった。そこには五人の艇員が座席について、熱心に計器のうえを見ながら、操縦をしたりエンジンの運転状態を見たり、航路を記録したり、いそがしそうにたち働いていた。
だが、ケレンコがはいっていったとき、五人の操縦員の顔は、いずれも紙のように白かった。彼等はすでに、艇内におこった大事件を知っていたのである。
「おい、皆。わがはいが、ただ今からダン艇長にかわって、この飛行艇の指揮をとることになった。わがはいの、いうことをきかない者は、たちどころに射殺する。いいかね、命のおしい奴は、命令にしたがえ」
それを聞くと、五人の操縦員は、いいあわせたように、ぶるぶると体をふるわせた。
無茶な命令
「そこでわがはいは、本艇の航路をしめす。地図を出せ」
ケレンコはいった。
「地図は、ここにある」
ダン艇長が、壁を指さした。航空用の世界地図が、はりつけてあった。そのうえには、赤や青やの鉛筆で、これまで通ってきた航路やなにかがしるされていた。
「ふん、これか。なるほど本艇はいま、ここにいるのだな。しめた。マニラからよほど北にそれているのだな」
「外はひどい暴風雨です。だから北へ避けているのです」
操縦長スミスが、ひきつったような声でこたえた。
「本艇の針路を、もうすこし北へまげろ。もう二十度北へ」
「え、もう二十度も北へですって」
操縦長スミスはおどろきの声をはなち、
「それじゃあんまりです。マニラへはいよいよ遠ざかり、太平洋のまん中へとびこんでゆくことになります」
「わかっている。いいから、わがはいの、いうようにするんだ。君は命令にそむく気じゃあるまいな」
「でも、そっちへ行けば、マニラへひきかえすだけの燃料がありません。海の中におちてしまっていいのですか」
「だまって、わがはいの、いうとおりにしろ。それから、スピードをあげるんだ。いまは毎時二百キロしかでていないようだが、それを三百五十キロにあげろ」
ケレンコは、どうするつもりか、途方もないことをいい出した。
「え、三百五十キロ? この暴風雨の中に、三百五十キロ出せとおっしゃるのですか。そ、そんなことはできません。そんなことをすると、飛行艇のスピードと暴風の力とがかみあって、艇がこわれてしまいます」
スミス操縦長は、きっぱりとケレンコの命令をことわった。
「なに、できないって」
ケレンコの眼が、ぎらぎら光った。
「よし、できないというのなら、貴様に用はない。覚悟しろ」
パーン!
「あ!」
スミス操縦長の頬をかすめて、銃弾はとんだ。その銃弾は銀色をした壁をうちぬき、艇外にとび出した。とたんに、その穴から、しゅうしゅうと、はげしい風がながれこんできた。
スミス操縦長の頬からは、鮮血がぽたぽたとながれおちる。かれは決心したもののごとく、また計器をにらみながら一心に操縦桿をひく。彼もアメリカ魂をもつ勇士の一人だったのである。
「もう一度いう。針路を北へもう二十度。そしてスピードを三百五十に!」
ケレンコは、スミス操縦長に噛みつきそうな形相でさけんだ。
「わ、わかりました。そのとおりやります!」
スミスは、唇をぶるぶるとふるわせながら、きっぱりこたえた。
「ああ!」
ダン艇長は、その横で、絶望のため息をついた。
(これでは陸地へは、だんだん遠ざかる。そしてもしこの飛行艇がこわれたら)
艇員の身の上を、そしてまたあずかっている乗客たちのことを心配して、艇長の胸のうちは煮えくりかえるようであった。
助けをもとめたいにも、無電はこわれてしまった。それに他の飛行機か汽船でも通っていればいいが、こんな暴風雨地帯を誰がこのんで通っているものか。たとえ通りかかっていたにしろ、暴風雨警報をきいて、すばやく安全地帯へにげてしまったろう。
(神よ、われ等に救いをたれたまえ!)
ダン艇長は、心の中に、神の名をよんだ。
艇内は、にわかにエンジンの音が高くなった。それはまるで金鎚で空缶をたたくようなやかましい音だった。今にも艇が、どかんと爆破するのではないか、とおもわれるようなものすごい音であった。――スミス操縦長は、ついにケレンコの命令どおりに、暴風雨中に三百五十キロの高スピードを出したのだった。
「ああ、これでいい。こりゃ、愉快だ!」
どういうつもりか、計器の針をながめて、ひとりよろこんでいるのは、おそるべき委員長ケレンコであった。
他の者は、誰の顔も血の気がなかった。
しゅうしゅうと風が穴から、はげしくふきこむ。ごうごう、がんがんとエンジンはなりつづける。これでは、まるで地獄ゆきの釜のなかのようなものだ。艇員たちは、それぞれ神の名をよびつづけていた。
そのときだった。入口から、おもいがけなく、一人の青年の姿があらわれた。
「やあ皆さん、ちょっと失礼しますよ」
「おお、あなたは――」
ダン艇長は目をみはった。
その青年は、ほかならぬ太刀川時夫であった。今まで彼はどこにいたのであろうか。右手にはあの太いステッキが握られている。だが、ふしぎなことには、彼の顔は、どうながめても、このさわぎを少しも感ぜざるものの如く落ちつきはらっていた。
「やあ皆さん。乗客の一人として、ちょっと御注意いたしますが、この飛行艇はついに運転不能となりましたよ」
命の方向舵
今まで見えなかった太刀川青年が、とつぜんあらわれて、こんなことをいったものだから、操縦員も艇長も、そしてケレンコも、めんくらって目をぱちくりとした。
「え、どうしてそんなことが――」
「いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ」
太刀川時夫は、平気な口調でいった。
「あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ」
「このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう」
そういっているとき、どうしたわけか、操縦室の電灯が一時にぱっと消えてしまった。外は、夜のように暗い黒雲の渦だ。室内はくらくなった。ただその中に、蛍光色の計器の表だけがぴかりぴかりと光る。
「あ、たいへんなときに停電だ」
「こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ」
委員長ケレンコも、あわて気味に一同をおどかした。
「電灯をつけなきゃいかんですが、困りましたね」
太刀川青年の、おちつきはらったこえが、くらがりの中からした。
そのさわぎのうちに入口から、小さい猿のような動物が、するすると室内に入ってきたのに、気づいた者はほとんどなかったようである。
「電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ」
「はい。では発電室へいってみます」
しめたと思ったダン艇長が、くらがりの中に体をうごかしたとたん、
「こら、この室を出ていっちゃならん。この室に、艇内電話機があるはずじゃないか」
とケレンコのわれ鐘のような声。
「電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……」
「なんでもいいから、かけてみろ」
「はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば」
「大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる」
ケレンコは、ピストルをポケットにおしこみ、他のポケットをさぐって、懐中電灯をとりだした。
それはただちにケレンコの手から、ダン艇長の手にわたされた。釦をおす。まぶしい光がさっと室内に流れた。
「ああ、ここにあった」
艇長は、電灯を片手にもちながら、
「ああもしもし」
と、電話をかけはじめた。
「おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?――」
「こら、他の話をしちゃならん。早く電灯をつけろといえ」
ケレンコは、油断していなかった。
「はあ」艇長は電話をかけながら、ちょいと頭を下げて、
「おい、停電したが、どういうわけだ。なに暴風雨で発電機の中に水がはいった。……蓄電池だけで、電話とエンジンの点火とだけを辛うじて保たせてあるって。ええ、なんだ?――ふん、そうか、よしよし。わかったわかった」
「こら、なにをいう。他のことを話しちゃならぬといっているのがわからないか」
「いや、故障のところを説明させているんです」
艇長はいいわけをして、
「おい、それからどうするというのか。………うん、わかった。早くなんとかなおせ。そうか、こっちは大丈夫だ。じゃ、あと十分後を期して、一せいに、よし、わかった」
「なんだ、おい。十分後というのは」
「え」とダン艇長は、なぜかどぎまぎしたが、
「いやなに、十分後までになおすから安心してくれといっているのです」艇長は、電話を切ったあとまで、なんだかそわそわしていた。そして、かたわらに立っている太刀川青年の方をちらちらとぬすみ見ていた。
なんだか様子がへんである。ダン艇長は、はたして電話で停電した話ばかりをしていたのであろうか。
「さあ、艇長。用がすんだら、懐中電灯をかえしなさい。僕がわたしてあげます」
なにをおもったか太刀川時夫は、艇長をうながして、懐中電灯をうけとると、これをケレンコの顔にさしむけた。
ケレンコは、不意にまぶしい電灯をさしつけられて鬼瓦のような顔をしておこった。
「こら、何をする。無礼者めが」
なにか意味ありげに、にやにや笑っている太刀川青年の手から、ケレンコはあかりのついた懐中電灯をひったくった。
このとき、くらがりの室内を、何者ともしれず、こそこそと床上をはい、そして扉をぱたんといわせて、外へ走りでた。
それに気がついたダン艇長は、あっと叫ぼうとして、あわてて自分の口をおさえた。
停電事件と同時に、艇内に、なにかしらふしぎなことが起っているらしかった。
ところがそのとき、操縦長が、誰にもそれとわかる悲壮なこえで、艇長によびかけた。
「ああ艇長。本艇はもうだめです。ぐんぐん暴風雨におしながされだしました。方向舵が直らないのです。どうしてもだめです」
それは本当だった。羅針儀の針はぶるぶるふるえていた。
「それはそのはずだ」
太刀川青年がケレンコに聞えよがしにいった。
「あのとおり方向舵が曲ってうごかなくなってしまったんだ。あれを直さないかぎり、本艇は海上に墜落のほかない!」
「なにを!」
ケレンコは、ゴリラのように歯をむいて、太刀川青年の方へちかづいた。
荒肝をひしぐ
どこまでも、不運なクリパー号は、この暴風雨のために、方向舵までも、まげられてしまった。
艇にとっては、今や人も機械も何のやくにもたたない。ただ暴風雨のまにまに、どこまでも、ながされてゆく。
いつ突風がおこるかわからない。突風がおこって艇にたたきつけるようなことがあったら、おしまいである。下にはあれくるう波が、艇と人とをひとのみにしようと、白い牙をむいて待ちかまえているのだ。さすがのケレンコも、太刀川青年に、方向舵の曲ったことを知らされて、顔色をかえてしまった。
が、太刀川青年は、おちつきはらって言った。
「さあ、どうしますか、ケレンコさん。われわれはともかく、あなたがたは、ここで艇と一しょに、海中へおちて死ぬつもりですか」
ケレンコは、だまっていたが、その目は、あきらかにうろたえていた。
「どうしますか、ケレンコさん。われわれも死ぬが、あなたがたも一しょに死ぬのですよ」
太刀川青年は、ここぞとばかり言った。
「なに、死ぬ?」
ケレンコが、ひくい声でつぶやいた。さすがのケレンコもこれには、完全にまいったらしい。
「じゃ、太刀川君。どうすればよいのだね」
ついにケレンコは一歩ゆずった。太刀川青年の言葉は、敵の荒肝をひしいだ。
「それは考えるまでもないじゃありませんか。あの曲った方向舵をなおすことですよ!」
と太刀川は、こともなげに言った。
「な、なんだと、太刀川君」
ケレンコはおどろいた。
「あの方向舵の故障は艇内でなおすわけにはいかない。しかし、この暴風雨の艇外に出て、そんなはなれわざが、できるものじゃない」
「ケレンコさん、それをやるのです。やらなければ、われわれは死ぬよりほかないのですよ。二人でやればできないこともないと思います。僕とあなたで、早いところやろうではありませんか」
「え、君とわがはいとで……」
鬼のようなケレンコも、この一言には、まるで串ざしにされたかたちだった。
太刀川青年は、艇長の方をふりむいて、
「さあ、ダン艇長、早く麻綱をもってきてください」
ダン艇長は、さいぜんから太刀川青年の胸のすくような応対ぶりに見とれていたが、はっとわれにかえり、いいつけどおり、この操縦室の網棚から麻綱の束をかかえおろした。
「さあ、ケレンコさん。これで胴中をゆわえて、僕と一しょに早くきて下さい」
「ちょ、ちょっと待て。わ、わがはいはこまる。誰か外の艇員をつれてゆけ」
ケレンコは一歩後ずさりをした。
「何をいっているのだ、ケレンコ! ほんとに命が大事だと思う者がゆかなければ、この艇をすくうことはできやしないよ。艇長たちは、暴風雨相手に操縦することだけで一ぱいなんだ。これはどうしても、君と僕の二人がやるべき仕事のようだね」
「うーむ」とケレンコはうなった。そして後をふりむき、
「おいリーロフ。君はわがはいよりも、はるかに技術者で、力がある。君がゆけ」
すると、さっきから二人のおし問答に、耳をかたむけていた大男のリーロフは、何を思ったか、おおきくうなずくと、
「よし、じゃ、おれがゆこう。ケレンコ、こっちの艇員どもは、君にあずけたよ」
といって、彼はピストルをポケットにしまいこむと、太刀川青年に見ならって、麻綱を胴中にぐるぐるとまきつけた。
大冒険!