4話 太平洋魔城(4)
読み方を変える
このままほうっておけば、艇は墜落するよりほかないのだが、それにしても、諸君、太刀川青年はすこし、やりすぎたのではないだろうか。この暴風雨中に、艇外へ出て、方向舵をなおすなんて、人間わざでできることではない。日本をはなれるとき、原大佐から重大使命をさずけられた身として、かるはずみのしわざではあるまいか。
いや諸君、太刀川青年は、けっしてその重大使命をわすれるような男ではない。いや、これを思えばこそ、ケレンコ事件がおこってからこっち、ひそかに計画をすすめていたのだ。
その重大使命をはたすために、彼は、にくむべきケレンコとリーロフの国際魔二人を、死なせてはならないと思っていたのだ。
なぜ? その答は、太刀川青年の胸のなかにある。今はただ謎として、これだけを承知しておけばよいのだ。
それはともかく、太刀川のたてた計画は、順序正しく、はこびつつあった。
操縦室の停電も、それであった。
そして停電のすぐ後に、猿のようなものが、しのびこみ、ケレンコにちかづき、何事かしてまた出ていってしまったことも、その一つだった。
艇長が電話の受話器を通じて、何を聞いたか。「あと十分ののちに!」とは、なんのことであったか。それもまた、やはり太刀川の計画の一つだった。今や、その十分間の時間も、あと四、五分となった。それにしても太刀川が、リーロフの手から、たすけてやった中国人少年石福海は、今どこに何をしているのだろう。このさわぎがはじまってから、一度も姿を見せないのには、何かわけがありそうである。
「さあゆこうぜ、リーロフ」
太刀川は、顔色もかえず、大男のリーロフをかえりみていった。
「うん、ゆけ。貴様がさきへ」
リーロフは、注意ぶかい目つきで、太刀川の方にあごをふった。
「僕は鋼条とペンチを持つ、リーロフ、君は手斧だ」
「おれが手斧を持つのか。うふふふ。それはたいへんいいことだ」
リーロフは、意味ありげに笑った。斧の刃は、するどくとがれていて、切味がよさそうなのが、何だか不気味である。
「リーロフ、さあ、僕につづいて、すぐその天井の窓から、胴体の上へはいだすんだ」
翼のうしろに開く窓があった。そこから艇の胴体の外へ出られるのだった。太刀川は、ロープのはしを座席の足にしばりつけた。そして自分で窓をひらいた。艇員たちが、はっと顔色をかえるのをしり目に、さっさと艇外へはいだした。とたんに横から、張板のようにかたいはげしい風が、彼の体をぶんなぐった。飛行眼鏡さえ、もぎとられそうで、しばらくは目が見えなかった。風にあおられ、ぐーっと、体がもちあがるのを、一生けんめいにこらえて、胴体の上にうえつけられている力綱の輪をにぎる。
この力綱の輪は、胴体のくぼみに、はめこまれて、一列にならんでいるので、太刀川は、腹ばったまま、少しずつ前進しては、くぼみから、この力綱の輪をおこさなければならなかった。そして両手ばかりではなく、両方の足首も、この輪のなかにしっかり、かけておく必要があった。
「ひゃあ――」
というようなさけび声が、太刀川のうしろからきこえた。ふりかえってみると、大男のリーロフが胴体にしがみついて、はげしい風にふりおとされまいとして、力一ぱいたたかっている。
「おい、はやくこーい。この弱虫めが!」
太刀川は、リーロフをどなりつけた。
「うう、いまゆくぞ。なにくそ!」
風は、大男のリーロフにたいして、すこぶる意地わるだった。風のあたる面積が太刀川青年の体にくらべて、倍くらいもひろいのだからやりきれない。海底にもぐっては、いささか自信のある潜水将校リーロフも、空中ではからきし、いくじがない。
そのうちに太刀川の頭が、まがった方向舵にこつんとつきあたった。
十分ののち
暴風雨中のこの大冒険を、艇員や乗客は、操縦室、そのほか方向舵の見える場所に、顔をおしつけあって、どうなることかと見まもっている。
太平洋委員長ケレンコも、ピストルをにぎりなおして、艇員を見はっていながらも、やはりリーロフの身の上が案じられて、ともするとその注意力は、艇外にゆきがちであった。
それを待っていた者があった。
艇の後部にいて、さっき電話機で艇長とうちあわせた艇員の一団であった。彼らは、ひそかに操縦室の入口にせまり、ケレンコの前に両手をあげて、つったっている仲間たちの肩ごしに、ケレンコの様子をじっとうかがっていたのだ。
うちあわせた十分間は、もうすぎていた。
その中の一人、貨物係主任のレイという男が、この時うしろにむかって片手をあげた。
(おい、用意はいいか)
という合図だった。
レイの片手が、さっとおりた。
(それ、とびかかれ!)
五、六人のものが、ぱっとケレンコにとびついた。
「あ、こいつら、何をする!」
ケレンコはさっと身を横にひらいて、ピストルの引金をひいた。
カチリと音がしただけだ。しまったと、また引金をひいたが、これもカチリといっただけであった。三度めに引金をひこうとしたとき、おどりかかった艇員のために、またたくまに、その場におさえつけられてしまった。悪魔のごとく、おそれられている共産党太平洋委員長としては、あまりにあっけない捕らわれ方だった。
「さあどうだ。じたばたすると、首をしめちまうぞ」
艇員たちは、急に鼻息があらくなった。
ダン艇長は、この時ケレンコにむかい、
「どうです。ケレンコさん。何かいうことがありますかね。あの停電のくらがりで、あなたが懐中電灯を出そうとして、ピストルをおかれたのはお気の毒でした。そのすきに、太刀川さんのいいつけで、中国人少年の石福海が、弾をすっかり抜きとってしまったのですからな」
ケレンコは、大ぜいの艇員におさえつけられながらも、胸をはって、
「そうだったか。よし、じゃ一たんは、おれの負としておこう。あの日本の青二才に、うまくひっかけられたかたちだ。しかし見ていろ。いまにお前たちは、おれの前に平つくばってお助け下さいと言うようになるぞ」
「何をぬかす、この強盗殺人めが!」
と、艇員のひとりが、ケレンコの横面を力一ぱいなぐりつけた。
こうして、ケレンコは、ともかくもかたづいた。だが艇外の大冒険はどうなったであろうか。
これをたくらんだ太刀川時夫は、大男のリーロフをたくみに艇外にさそいだして、ケレンコをおさえる機会をつくったのだ。
はたしてケレンコは、あっけなくつかまり、リーロフは、大きな体をふきとばされまいとして、力のかぎり、尾翼のつけねにとりついている。もちろん彼は、ケレンコがとりおさえられたことなど、知るよしもない。
空中の惨事
太刀川時夫は今、はげしい風雨とたたかいながら、方向舵の故障を必死になおしている。手はこごえる。呼吸はくるしい。
「さあ、リーロフ。方向舵のその折れまがったところを、君のもっている斧で切りはなしてくれ」
そういう太刀川の注文も、声では相手に通じないので、手まねで合図をするよりしかたがない。
「斧で切りはなしてくれだって……それより、貴様の方から先にやれよ。ほら、その切れた鋼条を、早くつなげばいいじゃないか」
リーロフは、頤でそれを言った。
太刀川は、それが順序ではなく、そのためによけいな手間をかけなければならないことを知っていたが、ここであらそうべきでないと思ったので、方向舵の切れた鋼条をつなぐことにした。
「はやくやれ。この小僧!」
とリーロフは、かみつくような顔をする。
だが、ペンチをにぎる手は冷えきって、鋼条をちょっとまげるのにも、たいへんだった。両足と左手を力綱の輪にかけてふんばり、右手と口とをつかって、それをやるのである。みるみる歯ぐきからは血がふきだして、方向舵を赤くそめた。ペンチはいまにも指さきからすべりおちそうだ。しかし彼は、ひるまず、作業をつづけて、やっとあたらしい鋼条で切れたところをつないだ。
この時、リーロフの眼が、ぎろりとうごいた。彼は太刀川が、鋼条をうまくつなぎおえたのをみると、斧をとりなおした。
太刀川は、つないだ鋼条をにぎって、ぐっとひいてみた。しかし方向舵は、びくともうごかなかった。折れまがったところが胴体にくいこんでいるからだ。
「リーロフ、斧でもって、方向舵の折れまがったところを切りはなしてくれ!」
リーロフは、ジリジリと彼の方へはいよってくる。
「おいリーロフ、そっちだよ。方向舵の胴体にくいこんでいるところを切りはなすのだよ」
リーロフは、太刀川の言っていることがわからない様子をして、なおも太刀川にちかづいてくるのだった。
「あ、リーロフ、何をする!」
何たることか! リーロフは、やにわに斧をふりかぶると太刀川の体をつないでいる命の綱をめがけて、さっとうちおろした。
「あ」
ぷつんと綱は切れて、太刀川の体は、ふわりとうきあがり、猫が背中をまるくしたようになった。次の瞬間、彼は、ふきとばされたかと思ったほどだったが、ふたたびうまく胴体にしがみつくことができた。
リーロフは、歯をむきだして、あざ笑った。それから彼は、方向舵の方へ、からだをうつしていった。
太刀川は頭を艇にすりつけ、死んだようになっている。
リーロフは、ふたたび斧をふりかぶった。そして方向舵のまがり目をめがけて、ガンとうちこんだ。
斧の刃がうまくはいった。ぶーんと音がして、方向舵は生きかえったように、つよくはねかえって、もとの位置にもどった。その時、
「ぎゃ!」という妙な声、
「おや!」と頭をもたげた時には、今の今まで前にいたリーロフの姿が見えない。
太刀川は、びっくりして下を見た。
「あ、あれは?」
艇の下方で、リーロフが綱のはしにつかまって、ブランコのように大きくゆれているのを見た。リーロフは、もとの位置にはねかえった方向舵にはじかれて、艇の胴体からすべり落ちたのだ。だがもう一つおどろいたことがあった。リーロフの胴をゆわえていたはずの綱がとけて、彼はわずかに、そのはしをにぎっているのであった。
「あ、あぶない!」
と、太刀川がさけんだ時は、もうおそかった。リーロフが、力つきて綱をはなしたのだ。あやつり人形のように手足をばたばたうごかして、下に落ちてゆくリーロフ! その顔が赤ペンキをぶっかけたように見えたのは、方向舵にはねられた時にけがをしたのでもあろうか。リーロフの体は、みるみるうずまく黒雲の中にすいこまれてしまった。
ああ、リーロフは落ち、そして方向舵はもとにかえったが、太刀川青年は一たいどうなるのだろう。
心配なガソリン
どうしてきたかわからないが、とにかく太刀川青年は、胴体をはって、ふたたび艇内にたどりつくことができた。
誰かが彼をかかえおこして、コップにはいったものを飲ませてくれた。その液体は舌をぴりぴりさせ、そしてたちまち腹の中にしみわたり、にわかにあたたかくなった。艇長ダンが、彼にブランデーを飲ませたのであった。
太刀川は三、四ヶ月ぶりに艇内にかえってきたような気がした。しかしほんとうは、たった二、三十分しかたっていなかった。この二、三十分間に、彼はそれほど全身の精力をだしきってしまったのであった。
「おお太刀川さん。お気がつかれましたか」
「ああ、ダン艇長」
「そうです、ダンです。しかし私はいま、全米国民を代表して、大勇士であるあなたに、大きな大きな感謝と尊敬とをささげます。いや、全米国民だけではありません。全世界の人類を代表して、お礼を申さねばなりません」
そう言って艇長は、太刀川の手をしっかりにぎりしめた。
「いや、そんなことを言っていただかなくてもいいのです。しかし気の毒なことをしました。リーロフ氏が墜落したのに、たすけることができなくて――」
「え、気の毒ですって? あれこそ天罰ではありませんか。あなたの綱を切った時には、私たちは思わず眼をおおいました。やつは悪魔です。でもあなたが無事に元気にかえってこられて、こんな喜ばしいことはありません。あの時、例の中国人少年石福海が、御恩がえしに、あなたをたすけにゆくといって、艇外へとびだそうとするのには、ほんとうにこまりました」
艇長がかたる少年の話に、太刀川はふと気がつき、
「ああ、石少年ですか。どこにいます」
「ここにいますよ。あなたの右手をにぎっているのが石少年です」
「おお石福海! お前は――」
「ああ太刀川先生、じっとして、先生の手、氷のように死んでいる。わたしすぐあたためて、生かしてあげる。はあ、はあ」
石少年は、返事するのもおしい様子で、彼の右手へ、一生けんめいに息をはきかけているのであった。
(石福海は、こんなに僕のことを思っていてくれるのか!)
太刀川の目頭は、急にあつくなった。彼は、じつと目をとじて、石少年のあたたかい息を感じるのであった。いじらしい石少年よ。その時、
「艇長! スミス操縦長からの伝言です」
「おお、なんだ」
「本艇は、艇長の命令により、二千メートルの下降をおわりました。やがて雲の下に出られる見こみがたちました」
「そうか、ついに暴風雨をのりきったか。では操縦長にこうつたえよ。下界が見えるところまで雲の下に出ろとな」
「は、そうつたえます」
「それから針路は、さっき言ったとおり、もとの方向へもどっているだろうなと言え。もう一つ、ガソリンの量を至急しらべて報告してくれ」
「はい」
伝令員の、ひっかえしてゆく足音がきこえた。
「艇長、ケレンコはどうしました」
「ケレンコは、あなたの計画どおり捕らえて、貨物室におしこめてあります」
「本艇は、暴風雨圏からうまくのがれたのですか」
「そうです。もう風雨はしずまっています」
「着陸地点までとべますか。無電連絡はまだつきませんか」
そう言っている時、どこやら、はなれたところで、はげしく人のあらそう声がきこえた。それにまじって、がらがらと物のこわれる音だ。すわ、また事件か?
どたどたとかけこんでくる靴音!
「艇長、たいへんです。ケレンコがにげました」
「なに、ケレンコがにげたって」
「綱をゆるめて、貨物室の窓をやぶって、外へとびだしました」
「え、外へとびだしたか。どっちへ落ちた」
「あ、こっちです。見えます見えます。ほら、あそこへ落ちてゆきます」
艇長ダンは、窓にかじりついた。その時ケレンコが、落下傘をひろげてふわりふわりと落ちてゆくのがみとめられた。
「おお落下傘を、どうしてケレンコが? ああ、しかしあれは本艇の落下傘ではないな」
「そうです。艇長。ケレンコは服の下に、あの奇妙な落下傘をしのばせていたんです」
「そうか、あんなものを持っていたか。ざんねんだ。とうとう二人ともつかまえそこねた」
艇長は、くやしそうにさけんだ。が、あれほど、行手をさえぎった雲が、どこかへふきとんでしまって、すぐ目の下に、青々と水をたたえた大海原が見えだした。その時であった。
「艇長、ガソリンが、もうすっかりなくなりました。まもなくエンジンがとまります」あわただしい注進。
「なに、ガソリンがついにきれたか」
ああ、マニラから遠くはなれた北方の洋上に、わがクリパー号は、着水しなければならぬのか。艇内百余の命は、これから一たいどうなるのだ。
「あ、あれはなんだ?」
いつのまにか、窓によっていた太刀川時夫が、おどろきの声をあげて、はるかかなたを指さした。
艇長は、その方を見た。雲の切れめをかすめて、とつじょ、洋上に姿をあらわしたのは、今まで見たこともない、ふしぎな大海魔だった。
おお大海魔
サウス・クリパー艇は、この時、海面からわずか三、四百メートルのところを飛んでいた。
「ダン艇長、あれが見えませんか」
さすがの太刀川も、色をうしない、そういうのも、舌がこわばって、やっとだった。艇長も教えられるまでもなく、怪物の姿に気づいていたのだが、あまりの恐しさに、声が出なかった。半分気がとおくなって、ふらふらと窓にたおれかかった。
「艇長、あの怪物はどうやらこっちを向いているようですぜ。あ、うごいています。すぐ艇員に命令して、武器をもたせるように――」
「武器――」と艇長はうめくようにいったが、首をふり、
「いや、とてもだめだろう。あれを見たまえ。まるで、煙突が鎧をきたみたいじゃないか。あんなにかたそうでは、小銃の弾なんか通らないよ。そのため、かえって怪物を怒らせるようなことがあっては……」
煙突が鎧をきたようじゃないか!
へんないい方ではあるが、なるほど、海魔の姿をよくいいあらわした言葉である。
海面からにょきっと出た首らしいものは、およそ百メートルはあろうと思われる。
それは、くねくねと曲って、ゆらゆらうごいているが、そのぶきみさといったらない。この首の一ばん上に、頭らしいものがついている。首も頭も緑色をしていて、ぬらぬらとしたいやらしいつやをもっている。とつぜん、ぱっぱっぱっと、頭のところから、目もくらむような光が出た。
「あ、光った!」
窓のところへよって、ふるえあがっていた艇員たちは、それを見て、一せいに叫声をあげた。
乗客たちは、もう生きた心地もなく、床の上をはいまわったり、頭をかかえてうめいたり、座席にかじりついて、神の名をよんだりするのであった。
むりもない。海面から出た首と頭とだけで百メートルにちかいのである。すると海面の下にかくれている胴体や尻尾は、と思うと、この世のこととは思えないのである。
(おれたちは、夢を見ているのじゃないかな)
しかしそれは、けっして夢ではなかった。
大海魔は、しずかに頭をうごかして、ふしぎそうに、まい下りてくる飛行艇を見あげ、照空灯のような目を、ぴかぴかと光らせるのであった。
操縦室では、海魔から少しでも遠ざかろうと必死の操縦をつづけているのだが、エンジンがとまっているので、思うようにいかない。高度は三百メートル、二百メートル、百メートルと、見る見るうちに下って行った。
あらしの名残の雲がきれぎれにとぶ。
西を向いても東を向いても果しのない大海原、もうどうすることもできない。艇内百余の人命をあずかっているダン艇長は、心を痛めながら、着水後の用意のため、艇内を見まわっている時であった。
「あ、あれあれ」
と、とんきょうな叫声がおこった。
何事かと窓によってみると、海上に大海魔の姿はなく、ごーっという、すさまじい海鳴とともに、今まで大海魔ののぞいていた海面は、ごぼんごぼんと大きな泡をたて、渦をまいてわきたっているではないか。
約束の無電
ダン艇長が、大海魔の消えた海面に目をみはっているそばで、太刀川時夫は、しきりにステッキの頭をひねくっていた。ステッキというが、これはただのステッキではない。日本を出発するとき、原大佐から、「万一の時には、この中に仕掛けてある短波無線機で知らせよ。よびだし符合はX二〇三――」だといっておくられた、あのステッキだ。
それを使う時がいよいよ来たのだ。まさかと思った大海魔が、目の前にあらわれたのである。今だ今だ。今この報告をしなければ、ステッキを使う時が、永久に来ないかもしれない。そして、おそらくこれが、最初にして最後の報告になるかもしれない。――太刀川青年は、そんなことを考えながら、ステッキの頭についている蓋をはずすと、内部につめこまれた精巧な超小型の無電機をのぞいた。くわしいことは、軍機の秘密だから、のべられないけれど、機械のどの部分も、ゴムに似たある特別の弾力のあるかたい物でかためてある。なげとばそうと、海水につかろうと、また少しぐらい熱しようと、中にある機械の働きは、少しもくるわないというすばらしいものだ。
太刀川青年は、ステッキの中から、紐のついた南京豆ほどの奇妙な受話器をひっぱりだし、耳の穴に入れた。そして右の指先で、小さな無電の電鍵を、こつこつとたたいた。
「X二〇三、X二〇三」
それは、例のよびだし符合であった。
太刀川は、そのよびだし符合を、十四ほど、つづけざまにうった。
それがすむと、電鍵のそばについているスイッチをきりかえた。それは、機械が、以後電話ではたらくように、なおしたのだった。
じ、じっと雑音が、受話器をならした。するとそれにつづいて、日本語がはいってきた。
「太刀川君かね。こちらは原大佐だ」
「ああ原大佐!」
太刀川は、おどろいた。こうもうまく、連絡ができるものとは、考えていなかった。大佐の声はすこしはずんでいるが、その声の大きさは、市内電話と同じくらいだった。
「待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ」
「ああ」
と太刀川は我にかえった。大佐の声を聞いていると、大佐も、この飛行艇内のどこかにいて、そこから電話をかけているような気がするのだ。大佐にさいそくされて彼は、はじめて話しだした。
「私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました」
「そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ」
「まず、形は――」
と、語りかけたとき、艇内の高声器から、とつぜん、警報がなりひびいた。
「皆さん、すぐさま座席の下にある救命具をつけてください。本艇は、あと二、三分のうちに、不時着します。その時は、すぐさま窓から海へとびこんで下さい。本艇は、さきほど暴風雨中を無理な飛行をしましたため、胴体の下部数箇所にさけ目ができました。修理が間にあわず、波があらいので、沈没はまぬかれません。救命具は、しっかり体についているかどうか、たしかめて下さい。すべて行動は、おちついてやること。窓から出るときは、婦人を先にして、男子は後にして下さい。お互に人間としての本分をつくし、どんなことがあっても最後まで気をおとさず、助けあって下さい。無電監視所から、いまに助けに来てくれることと思います。艇員の命令を守らないものは、やむを得ません。銃殺します。ただ、皆さんを、かような運命におとしいれたことにたいしては、艇長以下一同、何とも申しわけなく思っております」
悲壮な声であった。おお、いよいよ着水かと思った時、
「そうだったか、太刀川君、今のを聞いたぞ」
原大佐は、口をこわばらせて、そういい、「うーむ」とうなる声がきこえた。
艇の最後