6話 六
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以上は主として固形論理の代表者なる数学に就いて論じたが、他の方面に於ても理窟は之と同じく、人間の論理なるものは、運用に当つて、先づ対象物を模型化して掛かる。而して、模型化すれば其物は已に模型であつて、実物自身ではない。哲学者などには、往々、人間の論理を信頼するの余り、宇宙を自分の論理に当て嵌まる様な形に模型化し、それが模型であることには心附かず、却つて、之を実相であると信じて、現に目の前に見えて居る実物の方を仮の姿である如くに考へる者もあるが、我らから見れば、之は全く物の本末を取り違へて居るのである。数学も論理も人生に欠くべからざるもので、今まで極めて有効であつた通り、今も尚極めて有効であることは云ふまでもないが、其の絶対に完全なものでないことに気が附いた以上は、之を用ひ誤らぬ様に注意せねばならぬ。前にも述べた如く、普通一般の日常の生活には別段その必要もないが、純理学や哲学などの如くに俗世界から稍々離れた方面に思考力を働かせる人等は、此の点に就いて、特に警誡を要する。而して論理が適当な範囲を超えて其の先まで出過ぎたときに、之を矯め直すものは、実物に触れて獲た経験より外には無い。
小学校用の算術書には次の様な問題がよく出て居る。大工四人で三ヶ月掛かつて建てる家を、大工六人で建てたならば何ヶ月掛かるかと云ふ類であるが、計算の結果二ヶ月と云ふ答を得て誰も満足して居る。同じ論法で進めば、十二人でならば一ヶ月に、三百六十人でならば一日に、八千六百四十人でならば一時間に、三千百十万四千人でならば一秒に一軒の家が建つ勘定になる。論法に変りは無い故、初めの答が正しければ、終りの答も同じく正しい筈であるに、一秒で家が建つと云ふ計算は誰も笑うて、真面目に取り上げぬ。其の理由は、既往の経験に基づいて、斯かることは決して出来ぬと確信して居るからである。家を建てると云ふ様な、日常生活の範囲内の問題であると、間違ひが直に知れるが、経験で誤りを正す便宜の無い方面の問題であると、固形の論理に捕はれた学者等は、之と全く同様な誤りに陥りながら、少しも心附かず、論理の導く所には決して誤り無しと飽くまでも信じて、臆面なく誤つた学説を唱へる。数学の書物を開いて見ると、立体とは長さと幅と厚さとの有るもの、面とは長さと幅とが有るだけで、厚さの無いもの、線とは長さが有るだけで、幅も厚さも無いもの、点とは長さも幅も厚さも何も無いものと云ふ意味に書いてあるが、実物から獲た経験によると、立体の最も薄つぺらなのが面、面の最も幅の狭いのが線、線の最も短かいのが点である、即ち点を引き延ばせば線に成り、線を打ち広げれば面と成り、面を膨らせば立体となつて点から立体までの間に何処にも境界は無い。模型と実物との間には何時も斯様な相違が有る。
前にも云うた通り、固形の論理は模型には当て嵌まるが、自然の実物には当て嵌まらぬ。普通の場合には模型に当て嵌まりさへすれば、それで充分に間に合うて行くが、先から先へと遠く考へを進める際には、一段毎に経験に照らし合せて検査せぬと頗る危い。今日遺伝を論ずる学者達が生物の身体を遺伝単位なるものの集合であると見做し、各遺伝単位は永久不変の物であると考へて居る如きは、我らから見ると、全く固形の論理に囚はれた誤りであつて、其の当て嵌まるのは、たゞ論者等の脳中に画いて居る模型だけである。脳の中で考へる論理と、実物に触れて獲た経験とが、互に釣り合ふ様にするのが、今日の所、最も安全な脳髄の使ひ方かと推察するが此の方面から見ると、自然物その物を研究の対象とする生物学などは、若しも此の点に心附いたならば固形論理の狂奔を止めるための手綱として最も適当なものでは無からうか。
(大正八年十一月)