6話 六
読み方を変える
人間の社会は長い間の歴史の結果として、極めて複雑な性質のもの故、その秩序安寧を保つためには、或る事項に就いては全く疑ひを許さぬを便とする場合もあらう。また、若干の事柄に関して、疑ひの意を仄めかすことさへも厳禁する必要があると考へる人もあらう。併しながら、此等の方面に疑ひを起さしめぬ為に、疑ひの働きを全然押さへ付けて、其の発達を阻害することは、大に慎まねばならぬ。或る事柄を教師の説く通りに信ぜしめようと努めれば、之に伴うて、他の方面に於ても、聞いたまゝ、読んだまゝの事を其の通りに信ずる癖が生ずるであらうが、之は文明の進歩のためには頗る有害である。多くの実例に就いて考へるに、軽々しく物を信ずる癖のある人は、今まで信じ来つた事の真ならざるに気が附いた場合には、直ちに他の極端に走つて、此度は今まで信じ来つたのと正反対の事を妄信するに至り易い。それ故に、初等教育で何事をも悉く信ずるやうに教へられ来つた者が、卒業後社会に出て、嘗て学校で教へられた事は悉く便宜上の虚偽であつたことに気が附くと、直に他の極端に走つて、伝来の制度に総べて反抗する如き思想を抱くに至るの虞が多い。若し初等教育の頃から、適宜に疑ひの教育を施して疑ひの働きを発達させて置いたならば、卒業後に実社会の現状を見たり、近代の外国文学の飜訳物を読んだりして起る反動が却つて緩かで、所謂穏健な思想を養ふにも都合が宜しいかも知れぬ。
さて、疑ひの教育の必要なることは前に述べた通りであるが、児童に疑ひの教育を授けるには、教師は無論疑ひの教育を卒業した者でなければならぬ。初等教育に於て疑ひの教育を受けた者が、更に中等程度の学校に進み其の程度に適した疑ひの教育を受け、斯くして、充分に疑ひの働きの発達した者が、初等教育に教鞭を執ると云ふやうな世の中に成つたならば、或は小学校の児童に有効なる疑ひの教育を施し得るのみならず、所謂教育上の学説なるものに対する態度も今日とは違うて、何の学説とか誰の主義とか紹介者のある毎に約六ヶ月づつ之を循環崇拝する如き軽佻な態度は全く跡を絶つて静に、而も有効に教育の学と術とを進歩せしめることが出来るであらう。
(明治四十五年五月)