その頃の赤門生活

1話 その頃の赤門生活

1,229字 約2分 2007年7月22日 公開

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     一

 僕の二十六歳の時なりしと覚ゆ。大学院学生となりをりしが、当時東京に(ぢゆう)せざりしため、退学届を出す期限に遅れ、期限後数日を()て事務所に退学届を(いだ)したりしに、事務の人は規則を厳守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十円の金を(をさ)めよ」といふ。大正五六年の三十円は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名処分を受くべし」といへり。事務の人は僕の将来を気づかひ「君にして除名処分を受けん()、今後の就職口を如何(いかん)せん」といひしが、(つひ)に除名処分を受くることとなれり。

 僕の同級の哲学科の学生、僕の為に感激して(いはく)、「君もシエリングの如く除名処分を受けしか」と! シエリングも(また)僕の如く三十円の金を出し(しぶ)りしや否や、僕は(いま)寡聞(くわぶん)にしてこれを知らざるを遺憾(ゐかん)とするものなり。

     二

 僕達のイギリス文学科の先生は、()ロオレンス先生なり、先生は一日(いちじつ)僕を路上に(とら)へ、(びび)数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること(あた)はざりし故、唯(かみなり)に打たれたる(おし)の如く瞠目(だうもく)して先生の顔を見守り居たり。先生も(また)僕の容子(ようす)に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如(とつじよ)として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時(しばらく)(のち)、僕を(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。

     三

 僕等「新思潮(しんしてう)社」同人(どうじん)の列したるは大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄(くめまさを)と共に夏の制服を持たざりし為、(はだか)の上に冬の制服を着、恐る恐る大勢(おほぜい)の中にまじり居たり。

     四

 僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るること能はず。

     五

 僕は確か二年生の時独逸(ドイツ)語の出来のよかりし為、独乙大使グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、一つには喜多床(きたどこ)(かみ)()りに行きし時、独乙語の先生に順を(ゆづ)り、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜(けんそん)にあらず、今なほかく信じて疑はざる所なり。

 僕はこのアルントを郁文堂(いくぶんだう)に売り金六円にかへたるを記憶す、時来(じらい)星霜(せいさう)(けみ)すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ・レツクスは(いま)(はた)赭顔(しやがん)旧の如くなりや否や。

     六

 僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄(やしろゆきを)久米正雄(くめまさを)二人(ふたり)と共にイギリス文学科の教授方針を攻撃したり。場所は(ひと)(ばし)の学士会館なりしと覚ゆ。僕等は(くわ)を以て衆にあたり、大いに凱歌(がいか)を奏したり。然れども久米は勝誇(かちほこ)りたる為、忽ち心臓に異状を呈し、本郷(ほんがう)まで歩きて帰ること(あたは)ず。僕は矢代と共に久米を(かつ)ぎ、人跡(じんせき)絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿(げしゆく)へ帰れり。(昭和二・二・一七)

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