3話 三
読み方を変える
生物には、絶えず鍛へる体部は強く丈夫になり、常に蔽ひ保護せられる所は次第に弱くなる性質がある。之は自然の理法の一であつて、寄居蟹の頭や鋏が堅いのに反し、介殻に蔽はれた腹部の皮が薄く柔かなのも其の為であるが、人間の身体も無論この規則に洩れない。然るに人間は、自然を征服し、自然力の一部を随意に使役し得る様に成つた度毎に、之によつて自己の身体を大切に保護し来つた故、征服の重なる毎に、人間の身体は少しづゝ弱く成つた。火を用ひ始めたことは文明の第一歩であつて、人類開化史の第一頁に特筆大書すべき自然の征服であるが、物を煮て食ふやうに成つてからは人間の消化器は著しく弱くなつた。食物を煮て食ふ動物は人間以外には一種もないが、人間ほどに歯や腸胃の弱い動物も人間以外には一種もない。衛生の書物を開いて見ると、生水は危険なれば飲むべからず、必ず一回煮沸したるものを飲用すべしなどと書いてあるが、未だ火を用ひなかつた頃の人類の先祖は、他の総べての野獣と同じく、無論煮沸せぬ水ばかりを飲んで、天寿を全うして居たのである故、それより今日までの間に、斯様な注意を要する程度までに、人間の体質が弱く成つたのである。衣服を着して寒気を防ぐことも、他の獣類と異なる点として人の誇る所であるが、其ため人類の皮膚は無論段々と弱くなつた。人間の如くに、僅ばかりの寒暖の変化によつて、容易に風を引く獣は他に恐らく無いであらう。今に成つて、俄に冷水摩擦を始めても、到底生まれて一回も冷水浴をやらぬ獣類の足許にも達せぬ。家屋を建てゝ寒暑を防ぎ、市街を造つて安全に住居することは、総べての文明の礎とも云ふべきことであるが、其ため日夜悪い空気を吸ふて、呼吸器官が次第に弱くなり、終には誰も彼もが肺病に罹る様になつた。結核の「バチルス」はコッホが之を発明しない遠い昔から、無論何時の世にも有つたであらうから、或は熊の肺に入ることもあらう、また猪の肺に入ることも必ず有つたらう。然るに熊や猪が悉く肺病に罹らぬ所を見ると、肺病の原因は結核菌なりと云ふよりも、肺病の原因は弱き人の肺なりと云ふた方が寧ろ適当かとも考へられる。人間が暖房管を備へ、煽風器を据へ付けて、如何なる冬の寒さでも、如何なる夏の暑さでも我が知力を以て防ぎ得ぬものは無からうと誇りつゝある間に、自然は之に対する復讐として、日夜の別なく人類の体質を根柢から弱くせざれば止まなかつたのである。自然の復讐は、何時も斯く極めて隠微に行はれるから、普通の人は之に気が附かぬが、人間の仕事の一時的、部分的、表面的であるに反し、彼れの仕事は永久的、普遍的、根柢的である故、その結果は極めて恐ろしい。而して一般の学者等が騒ぎ出すほどに結果の現れる頃は、已に手後れであつて容易に回復の見込みは立たぬ。近頃欧米諸国では人種の衛生とか、民族の改良とか云ふことを喧しく論じて居るが、之は長い間の自然の復讐の結果が著しく現れて居ることに、急に心附いたからであらう。