5話 五
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先づ生活の困難、人心の堕落が今後身体上に如何なる結果を生ずべきかを考へるに、第一に影響を蒙るのは性慾に関する方面である。生活の費用の高まるに随ひ、結婚して一家を支へ、妻子を養ふことは段々容易でなくなり、相応の資産を造つた後でなければ結婚が出来ぬ所から、自然に晩婚の風が生じ、中年以後まで結婚せぬ者も段々多くなる。然るに性慾は人類自然の肉慾の中で最も力強いもので、青春燃ゆるが如き時期に当つては、到底理性に依つて冷かに制御し得べきものではない。それ故、公に結婚の出来ぬ場合には、何等か他の方法に依つて其の満足を求め、其の結果として裏面の風儀が次第に乱れるは止むを得ぬ。亦女子は身体の構造上、資本を要せずして金銭を儲け得べき方法が備はつてある故、生活の困難な場合、若しくは虚栄心を満足せしむべき金銭の不足を感ずる場合には、暫時肉体を貸して之を補はうとするに至り易い。甚しきに至つては学校の授業料を得んが為に、密かに稼ぐ女学生までも出来る。斯くして公然の結婚に依らずして性慾の満足を得べき簡便な方法が到る所に出来る上は、青年は悉く之に依つて満足を求め得て、晩婚は素より一生独身で暮す男子も多くなり、今日でも西洋諸国では既に、嫁ぐべき相手が無いために拠なく独身で暮す女子が非常に沢山にある。斯様な世の中になれば梅毒、痳病、軟性下疳などの花柳病が忽ち拡がつて止まる所を知らぬであらうが、梅毒は甚しく身体を弱くし特に神経系を犯せば痲痺性痴呆などと云うて、長くても二三年で必ず死ぬ恐ろしい精神病を生ずる。その上、梅毒は必ず子孫へ伝はる故、この病が世の中に蔓延すると、一代毎に一般の健康が衰へるは云ふ迄もない。先年ドイツ国ベルリンの大学で学生中に花柳病に罹つて居ない学生の稀なるを知つて大に愕き、特に講義を開いて花柳病の恐るべきことを学生に説き聞かせた。性慾の発動を講義に依つて停止することが出来たか否かは知らぬが、性慾に基く病が確に世の進むと共に勢を得て益々拡がり行くは疑を容れぬ。西洋人が「開化(Civilization)は梅毒化(Syphilisation)なり」と云ふのは全く実際に的中した言葉である。
また公に結婚する者も、生活難の増すに随ひ、其の目的が一変して、従来の如く清き家庭を造つて、健全なる後継者を産み育てる為ではなく、男は富者の娘を娶つて出世の手掛りと為やうと図り、女も富者に嫁して、生活難の心配なく且つ栄燿に世を送らうとするから、随つて結婚の自然の結果なる姙娠を嫌ひ、あらゆる方法を考へて之を避けやうとする。性慾の満足は家の内外に求めながら、子を育てる面倒を免れやうとする者が増加すれば、一般の産児の数が漸々減少するのは当然のことで、現にフランスの如きは、其ため国力の衰へる虞があるので、種々その救済の方法を講じて居る。また児を産んでも、其の養育を人手に委せて、自身は楽を為やうとする女が多くなると、乳を分泌する性質が退化して、西洋では今日既に児を産んでも乳の出ぬ女の数が年々多く成つて居るが、今後は此の現象も更に進むであらう。
人類の生活が次第に自然の状態に遠ざかるに随ひ、身体が漸々薄弱になり、神経が過敏になることは前にも述べたが、生存の競争が劇しくなるに伴うて、自分の生存が何時危くなるかも知れぬといふ心配が瞬時も念頭を離れぬと、常に不安の念に堪へ得ず、漸々苦悶の状態に陥り、若し何等かの手段に依つて一刻でも圧迫の烈しい現実世界を忘れて、借金取りも鶯の声に聞える夢幻の境に遊ぶことが出来れば、之を無上の快楽と感ずるに至る。酒や煙草が到る所に盛に用ひられるのは其のためである。初めて文明人に接触した野蛮人が、何よりも先づ酒と煙草とを欲しがるのも、恐らく無意識的ながら、器械を用ひて責めて来る文明の圧迫を暫時だけでも忘れたい為であらう。酒も煙草も有毒な成分を含むで居る故、多量に続け用ひると中毒を起す。酒精の中毒によつて震戦性譫妄症に罹り、煙草の中毒によつて視力を鈍衰することは世人の知る如くであるが、更に恐るべきは子孫の体質を害することである。医学上の統計によると精神病者、低能者、体質異常者は殆ど悉く其の父母もしくは祖父母等に酒客を有するものである。然し酒と煙草とは極めて重い税を課して、経済上容易に飲めぬやうにして外部から強制的に防ぐことも出来、また煙草には製造者が如才なく芋の葉や蓮の葉を乾して刻み込むから、其の害毒は或は恐れるに足らぬかも知れぬ。
世の開けぬ中は農産物が其まゝで直接に費消者の手に渡る故、飲食物に混ぜ物が無いが、製造工業が盛になると飲食物も一ヶ所で多量に製造し、一時貯蔵して置くために防腐剤を加へることもあり、また法外の儲を得やうとして、容積重量を増すために種々の物を混ずることもある。酒にサリチル酸を加へ、砂糖、温飩粉に房州砂を混ぜ、醤油にサツカリンを入れることなどは今日既に盛に行はれて居るが、これ等も長い間には少しつつ身体を害せぬとも限らぬ。
また製造工業の発達に伴ひ、人の仕事が益々細かく分業的になつて、身体の働きも一方に偏する様になり、耳を用ひる職業の者は耳のみを過度に用ひ、眼を使ふ職業の者は眼のみを過度に使ひ、其ため各職業に固有の病も出来て来る。其上に職業によつては年中絶えず綿屑を吸ひ込むとか、塩酸の煙を嗅ぐとか、自然の生活には決して無い有害物に触れる故、之によつても身体は漸々、悪くなる。田舎が衰微して都会が盛大になる程、この害の範囲は広くなり、其の結果も著しく現はれる。