6話 六
読み方を変える
以上は主として不自然の生活より起る身体の退化を述べたのであるが、次に智力の進歩に伴うて精神上に如何なる変化が生ずるかと考へるに、教育が進み知識が増せば次第に何事に就いても其の理由を知らうと欲し、且つ自身の判断力に訴へて其の当否を鑑別しやうと試みる様になり、従来たゞ他動的に教へられて其まゝ信じ来つた事に対しても疑を挾む様に成つて来る。之は従来単に、知識上の権威に服従して居たのが、其の支配から脱して独立に考へ様とするのであるから、精神的解放とも云ふべき事で、其の結果として総べての方面に懐疑の念が生ずる。其中で精神上に最も著しい影響を及ぼすのは道徳上に関する懐疑である。尤も金銭の遣り取りに忙しい多数の人々は従来とても、ただ習慣に従うて行動するだけで、道徳上の議論などは丸で眼中に置いて居なかつたし、また今後とても、多数の人々は実際の生存競争に追はれて、此様な問題を考へる暇も無く世を渡るであらうが、少しく学問でもする人は道徳の説く所と目前の事実とを対照して疑を挾まざるを得ぬ様になる。例へば書物には善人は終に栄え、悪人は終に亡びる如くに書いてあるが、実際には貧富の懸隔、生存競争の劇甚のために、善人が亡び悪人が栄える方が却つて多い様に見え、正直に一生懸命に働いて居た者が不意に災難に遇うて悲惨極まる境遇に陥ることもあれば、不正直な横着極まる事をして莫大の財産を造つたものが、自分一代は云ふに及ばず、孫の代まで富み栄えて居る例もある。積善の家が忽ち断絶して、積悪の家に却つて余慶のある事もある。斯様な事実を目前に見ては、道徳とはそも何物であるかとの疑念が起るは当然で、「善は善なるが故に為すべし、悪は悪なるが故に為すべからず」と云ふ如き不得要領な説法には到底承知が出来なくなり、従来の道徳は根柢から改めて吟味せねばならぬとの観念が浮ぶ。一方で理論上道徳に関して疑を抱く者の生ずる間に他方には更に一歩を進めて、実際の処世上、道徳なるものを安く見縊り、自分一身の損得から打算して、生存競争上、道徳に従ふを利とする場合には道徳を尊重し、道徳を破るを利とする場合には道徳を捨てて顧みぬ輩が多数に生ずる。西洋諸国で、他の方面の道徳が甚しく衰へたに拘らず、商業上の道徳が堅く守られて居るのは斯様な動機から起つたことであるから、これを以て他の方面の徳義を測るの標準とすることは出来ぬ。人心が斯かる程度に達した上は、道徳が彼等に対して何の威厳をも保ち得ぬは勿論である。
生存競争が烈しくなれば、目的のために手段を択んでは居られぬ様になり、不正な事も聞き慣れては日常の如くに思はれ、一旦成功さへすれば、世間は其の光輝に暈まされて、如何なる手段に依つたかは忘れて問はぬ。斯かる例が無数に現はれるに随ひ、道徳の価値は益々認められなくなつて、終には過去の時代に存した古物の如くに思はれ、実際の生活には全く度外視せられるに至るやも測り難い。世には往々、今日は旧道徳が破壊せられ、新道徳が未だ定まらぬ過渡時代であるから、世道人心が多少混乱の状態にあるは止むを得ぬと説く人もあるが、以上述べた如くに考へると、所謂新道徳なるものは、何を根柢として何時出来上るものであるか真に心細い次第である。
生活難の増すに随うて、往々宗教の叫び声が一時多くなることもあるが、我らの考へに依れば、之は決して或る人人の論ずる如き信仰の復活と見做すべきものでは無く、ただ競争場裡の不安の念に堪へずして何物にか掴み附いて慰安を求めやうと試みるのであるから、恰も溺れんとする者が浮かんで居る藁にも掴み附かうとするのと同じであつて、無智の爺婆が安心して信仰して居たのに比すると全く趣が違ふ。人が地獄極楽をその儘に信じ得た時代には、宗教は風教の維持にも失意者の慰安にも有効であつたらうが、一旦智力が進んで懐疑の念を生じた者に対しては、到底多くの安心を与へる力はない。特に他人を救ふ前に、先づ自分を救ふべき必要のある今後の宗教家によつて、道徳が幾分でも維持せらるべきことは頗る望が少ない。
斯くて道徳も宗教も、今後は生活難と智力の増進に伴ふ懐疑、不安の念を鎮めることは出来ず、生存競争の方は一刻も休まず追ひ立てる故、人心はたゞ堕落の方向に進むの外に途なきに至るであらう。