3話 三
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兎に角、私は明治十八年の夏に予備門から放逐せられた。そこで、止むを得ず、大学の撰科に入らうと決心し、翌年の夏、試験を受けて、滞りなく入学することが出来た。初め予備門に入つた頃は未だ何の専門を修めるとも決定しては居なかつたが、私が始終図書館から絵入りの動物学の書物を借りて見て居たり、動物の絵を画いて楽しんで居たりするのを見て、友人等が動物学者といふ綽名を附けたので、自分でも自然とその気持ちになり、退校の際には已に理科大学の動物学科の課程を修めやうと心を定めて居た。さて入学して見ると、席をならべて、同じ講義を聴き、同じ実験をする仲間の連中は、落第せぬ前の予備門の同級生で、後に動物学科を卒業した稲葉昌丸君、岸上鎌吉君、植物学科を卒業した三好学君、岡村金太郎君などであつた。それから三年間は無事に過ぎて、以上の諸君は首尾よく理学士に成られたが、私は更に、そのまゝ撰科に残つて明治二十四年の二月まで動物学教室の厄介になつて居た。その後ドイツ国に留学し、明治二十七年に日本に帰り、暫時、失業状態に在つた後、明治二十八年に山口高等学校に務めることになり、明治三十年に東京高等師範学校に転じて、終に今日に及んだのである。
私が大学の撰科に入つたのは、正科に入る資格がなかつたからである。大学の正科には予備門を無事に通過した者でなければ入れぬ規則であつた故、私の様に二度も落第を続けて退校になつた者は無論志願し得べきことではなかつた。併し、撰科に入つてから学んだことは正科の人々と何ら異なつた所はない。同じ講義を聴き、同じ実験をやり、同じ試験を受けて同じく進級した。三年目には同じ様に卒業論文を書き、それがまた、翌年の理科大学紀要に同じ様に出版せられた。即ち事実に於ては私は本科生と同じだけのことを学んだのであるが、斯く撰科生と本科生とは同一のことを学んで同一の学力を得るものであるに拘らず、世間や学校当局からの取り扱ひには甚だしい相違がある。例へば学生と称するのは本科生だけであつて、撰科生は単に生徒と呼ばれるとか、本科生は卒業すれば学士の称号が貰へるが、撰科生は卒業しても何の称号も貰へぬとか云ふことに定めてあるが、これ等の規定は、考へ様によつては、世間や学校当局が、自分等は実力よりも形式を尊ぶ人間であると吹聴して居る様なもので、寧ろ恥ずべきことの如くにも思はれる。併し世間一般が斯様な有様である故、大抵の人は撰科には入りたがらず、本科に入り得なかつた者が止むを得ず入るから、撰科生は皆肩身の狭い日蔭者の如くに、世間からも見做され、自分でも思ふて居るらしい。私の考へによれば、本科を尊び、撰科を卑むのは大に間違ふたことである。
小学校や中学校の如き所では、生徒の分別もまだ定まらぬから、学校の方で一定の課目を組み合せて、誰にも、その通りに修業させるのが当然であるが、最早大学までも進んで来た者に対しては、学校では単に誰々が何々の講義をすると云ふことだけを示して、どれを聴くかは全く生徒の勝手に任せて置くが宜しい。斯くすれば銘々が自分の修めたい学科だけを修めて、嫌な学科には出席せぬから、自然大に勉強も出来る。料理屋で食事するときに定食を命ずるか、一皿づゝ自分の好むものを註文するか、いづれも出来るが、大学の正科は恰も料理屋の定食の様なもので、その中には銘々の好きなものもあれば、嫌ひなものもある。その代り品数に比して価が安い。料理の定食ならば、嫌ひな物は食はずに置けばボーイがその儘、持つて行くが、正科の課目は左様に楽には行かず、食はずに置けば落第するから、嫌でも目を白黒にしながら咽喉だけは通さねばならぬ。課目の撰択を生徒自身の自由に任せて置けば、生徒は一皿づゝ自分の好きな物を註文するから持つて来ただけのものは皆喜んで甘く食ふ事が出来る。たゞ品数に比して、価が少々高くなることは止むを得ない。私は大学に於ける課目の撰択は全部ア・ラ・カルト式にするが宜しいと考へて居る。即ち真の意味に於ける撰科制度である。全部が撰科制度になつて、正科などと云ふ窮屈なものが無くなれば、無論撰科といふ名も不要になる。正科とは、生徒から見れば、自分とは趣味や嗜好の違ふた他人が、勝手に造つた学科の組み合せであるから、之を平等に修めるには一定量の我慢を要する。世間や学校当局が本科生を尊重するのは、或は、よく我慢したことを誉める意味かも知れぬ。
学課の組み合せは、卒業生を採用する官庁や、会社などから、予め註文して置くならば、これは当然のことである。自分の役所へは何々の講義を聴いた者を採用するとか、此所の会社へは何学と何学とを修めた者を採用するとか云ふことを予め知らして置けば、その役所なり会社なりに傭ふて貰ひたい者は、その註文に合ふやうな学課の組み合せを自分で造るであらう。学校自身で一定の組み合せを造り、誰も彼も、その通りに修めなければ卒業はさせぬと定めて、嫌な物でも無理に食はせるのは、それだけ好きな方へ発達するのを妨げて居ることに当る故、全体としては時と労力との大きな不経済と思はれる。