2話 老いたる素戔嗚尊(2)
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翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚は眩しさうに眉をひそめながら、のそのそ宮の戸口へ出かけて来た。すると其処の階段の上には、驚くまい事か、葦原醜男が、須世理姫と一しよに腰をかけて、何事か嬉しさうに話し合つてゐた。
二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚したらしい容子であつた。が、すぐに葦原醜男は不相変快活に身を起して、一筋の丹塗矢をさし出しながら、
「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。
素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、悦ばしいやうな心もちもした。
「よく怪我をしなかつたな?」
「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風に煽られる火よりも早くは走られません。……」
葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、縁の枯草が燃えるやうになると、忽ち底まで明くなりました。見ると私のまはりには、何百匹とも知れない野鼠が、土の色も見えない程ひしめき合つてゐるのです……。」
「まあ、野鼠でよろしうございました。それが蝮ででもございましたら……」
須世理姫の眼の中には、涙と笑とが刹那の間、同時に動いたやうであつた。
「いや、野鼠でも莫迦にはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食はれたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通つてしまひました。」
素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。
「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、何時風向きが変るかわからないものだ。……が、そんな事はどうでも好い。兎に角命が助つたのなら、おれと一しよにこちらへ来て、頭の虱をとつてくれい。」
葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白い帷をくぐつた。
素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。素枯れた蘆の色をした髪は、殆ど川のやうに長かつた。
「おれの虱はちと手強いぞ。」
かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱を捻らうとした。が、髪の根に蠢いてゐるのは、小さな虱と思ひの外、毒々しい、銅色の、大きな百足ばかりであつた。
十
葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りの椋の実と赤土とをそつと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一しよに口へ含んで、さも百足をとつてゐるらしく、床の上へ吐き出し始めた。
その内に素戔嗚は、昨夕寝なかつた疲れが出て、我知らずにうとうと眠にはひつた。
……高天原の国を逐はれた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路を登つてゐた。岩むらの羊歯、鴉の声、それから冷たい鋼色の空、――彼の眼に入る限りの風物は、悉く荒涼それ自身であつた。
「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は寧ろ彼等にある。嫉妬心の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」
彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を遮つた、亀の背のやうな大岩の上に、六つの鈴のついてゐる、白銅鏡が一面のせてあつた。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は冴え渡つた面の上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺さうとした、葦原醜男の顔であつた。……さう思ふと、急に夢がさめた。
彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井の桷に括りつけてあつた。
「欺しをつたな!」
咄嗟に一切悟つた彼は、稜威の雄たけびを発しながら、力一ぱい頭を振つた。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響が起つた。それは髪を括りつけた、三本の桷が三本とも一時にひしげ飛んだ響であつた。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まづ右手をさし伸べて、太い天の鹿児弓を取つた。それから左手をさし伸べて、天の羽羽矢の靫を取つた。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上ると、三本の桷を引きずりながら、雲の峰の崩れるやうに、傲然と宮の外へ揺るぎ出した。
宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた栗鼠も、ばらばらと大地に落ちる程であつた。彼はその椋の木の間を、嵐のやうに通り抜けた。
林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかに蒼ませてゐた。その又浪の重なつた中には、見覚えのある独木舟が一艘、沖へ沖へと出る所だつた。
素戔嗚は弓杖をついたなり、ぢつとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼を嘲るやうに、小さい筵帆を光らせながら、軽々と浪を乗り越えて行つた。のみならず舳には葦原醜男、艫には須世理姫の乗つてゐる容子も、手にとるやうに見る事が出来た。
素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を番へた。弓は見る見る引き絞られ、鏃は目の下の独木舟に向つた。が、矢は一文字に保たれた儘、容易に弦を離れなかつた。その内に何時か彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、――しかし其処には同時に又涙に似たものもないではなかつた。彼は肩を聳やかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。それから、――さも堪へ兼ねたやうに、瀑よりも大きい笑ひ声を放つた。
「おれはお前たちを祝ぐぞ!」
素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももつと手力を養へ。おれよりももつと智慧を磨け。おれよりももつと、……」
素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。
「おれよりももつと仕合せになれ!」
彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日貴と争つた時より、高天原の国を逐はれた時より、高志の大蛇を斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。
(大正九年)