老いたる素戔嗚尊

2話 老いたる素戔嗚尊(2)

2,805字 約6分 1999年1月17日 公開

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 翌朝もう朝日の光が、海一ぱいに当つてゐる頃であつた。まだ寝の足りない素戔嗚は(まぶ)しさうに眉をひそめながら、のそのそ宮の戸口へ出かけて来た。すると其処の階段(きざはし)の上には、驚くまい事か、葦原醜男が、須世理姫と一しよに腰をかけて、何事か嬉しさうに話し合つてゐた。

 二人も素戔嗚の姿を見ると、吃驚(びつくり)したらしい容子であつた。が、すぐに葦原醜男は不相変(あひかはらず)快活に身を起して、一筋の丹塗矢(にぬりや)をさし出しながら、

「幸ひ矢も見つかりました。」と云つた。

 素戔嗚はまだ驚きが止まなかつた。しかしその中にも何となく、無事な若者の顔を見るのが、(よろこ)ばしいやうな心もちもした。

「よく怪我をしなかつたな?」

「ええ。全く偶然助かりました。あの火事が燃えて来たのは、丁度私がこの丹塗矢を拾ひ上げた時だつたのです。私は煙の中をくぐりながら、兎も角火のつかない方へ、一生懸命に逃げて行きましたが、いくらあせつて見た所が、到底西風に(あふ)られる火よりも早くは走られません。……」

 葦原醜男はちよいと言葉を切つて、彼の話に聞き入つてゐる親子の顔へ微笑を送つた。

「そこでもう今度は焼け死ぬに違ひないと、覚悟をきめた時でした。走つてゐる内にどうしたはずみか、急に足もとの土が崩れると、大きな穴の中へ落ちこんだのです。穴の中は最初まつ暗でしたが、(ふち)の枯草が燃えるやうになると、忽ち底まで明くなりました。見ると私のまはりには、何百匹とも知れない野鼠が、土の色も見えない程ひしめき合つてゐるのです……。」

「まあ、野鼠でよろしうございました。それが(まむし)ででもございましたら……」

 須世理姫の眼の中には、涙と笑とが刹那(せつな)の間、同時に動いたやうであつた。

「いや、野鼠でも莫迦(ばか)にはなりません。この丹塗矢の羽根のないのは、その時みんな食はれたのです。が、仕合せと火事は何事もなく、穴の外を焼き通つてしまひました。」

 素戔嗚はこの話を聞いてゐる内に、だんだん又この幸運な若者を憎む心が動いて来た。のみならず、一度殺さうと思つた以上、どうしてもその目的を遂げない中は、昔から挫折した覚えのない意力の誇りが満足しなかつた。

「さうか。それは運が好かつたな。が、運と云ふものは、何時(いつ)風向きが変るかわからないものだ。……が、そんな事はどうでも好い。兎に角命が助つたのなら、おれと一しよにこちらへ来て、頭の(しらみ)をとつてくれい。」

 葦原醜男と須世理姫とは、仕方なく彼の後について、朝日の光のさしこんでゐる、大広間の白い(とばり)をくぐつた。

 素戔嗚は広間のまん中に、不機嫌らしい大あぐらを組むと、みづらに結んだ髪を解いて、無造作に床の上に垂らした。素枯(すが)れた蘆の色をした髪は、殆ど川のやうに長かつた。

「おれの虱はちと手強(てごは)いぞ。」

 かう云ふ彼の言葉を聞き流しながら、葦原醜男はその白髪を分けて、見つけ次第虱を(ひね)らうとした。が、髪の根に(うごめ)いてゐるのは、小さな虱と思ひの外、毒々しい、銅色(あかがねいろ)の、大きな百足(むかで)ばかりであつた。

       十

 葦原醜男はためらつた。すると側にゐた須世理姫が、何時の間に忍ばせて持つて来たか、一握りの(むく)の実と赤土とをそつと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛みつぶしながら、赤土も一しよに口へ含んで、さも百足をとつてゐるらしく、床の上へ吐き出し始めた。

 その内に素戔嗚は、昨夕(ゆうべ)寝なかつた疲れが出て、我知らずにうとうと眠にはひつた。

 ……高天原の国を()はれた素戔嗚は、爪を剥がれた足に岩を踏んで、嶮しい山路を登つてゐた。岩むらの羊歯(しだ)(からす)の声、それから冷たい鋼色(はがねいろ)の空、――彼の眼に入る限りの風物は、(ことごと)く荒涼それ自身であつた。

「おれに何の罪があるか? おれは彼等よりも強かつた。が、強かつた事は罪ではない。罪は(むし)ろ彼等にある。嫉妬心の深い、陰険な、男らしくもない彼等にある。」

 彼はかう憤りながら、暫く苦しい歩みを続けて行つた。と、路を(さへぎ)つた、亀の背のやうな大岩の上に、六つの鈴のついてゐる、白銅鏡が一面のせてあつた。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は()え渡つた(おもて)の上に、ありありと年若な顔を映した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺さうとした、葦原醜男の顔であつた。……さう思ふと、急に夢がさめた。

 彼は大きな眼を開いて、広間の中を見廻した。広間には唯朝日の光が、うららかにさしてゐるばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかつた。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つに分けて、天井の(たるき)(くく)りつけてあつた。

(だま)しをつたな!」

 咄嗟(とつさ)に一切悟つた彼は、稜威(いつ)()たけびを発しながら、力一ぱい(かしら)を振つた。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響が起つた。それは髪を(くく)りつけた、三本の(たるき)が三本とも一時にひしげ飛んだ響であつた。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まづ右手をさし伸べて、太い(あめ)鹿児弓(かごゆみ)を取つた。それから左手をさし伸べて、(あめ)羽羽矢(はばや)(ゆぎ)を取つた。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上ると、三本の桷を引きずりながら、雲の峰の崩れるやうに、傲然と宮の外へ揺るぎ出した。

 宮のまはりの椋の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢に巣食つた栗鼠(りす)も、ばらばらと大地に落ちる程であつた。彼はその椋の木の間を、嵐のやうに通り抜けた。

 林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であつた。彼は其処に立ちはだかると、眉の上に手をやりながら、広い海を眺め渡した。海は高い浪の向うに、日輪さへかすかに(あを)ませてゐた。その又浪の重なつた中には、見覚えのある独木舟(まるきぶね)が一艘、沖へ沖へと出る所だつた。

 素戔嗚は弓杖(ゆんづゑ)をついたなり、ぢつとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼を(あざけ)るやうに、小さい筵帆(むしろぼ)を光らせながら、軽々と浪を乗り越えて行つた。のみならず(とも)には葦原醜男、(へさき)には須世理姫の乗つてゐる容子も、手にとるやうに見る事が出来た。

 素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を(つが)へた。弓は見る見る引き絞られ、(やじり)は目の下の独木舟に向つた。が、矢は一文字に保たれた儘、容易に(つる)を離れなかつた。その内に何時(いつ)か彼の眼には、微笑に似たものが浮び出した。微笑に似た、――しかし其処には同時に又涙に似たものもないではなかつた。彼は肩を(そび)やかせた後、無造作に弓矢を抛り出した。それから、――さも堪へ兼ねたやうに、(たき)よりも大きい笑ひ声を放つた。

「おれはお前たちを(ことほ)ぐぞ!」

 素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。

「おれよりももつと手力(たぢから)を養へ。おれよりももつと智慧(ちゑ)を磨け。おれよりももつと、……」

 素戔嗚はちよいとためらつた後、底力のある声に祝ぎ続けた。

「おれよりももつと仕合せになれ!」

 彼の言葉は風と共に、海原の上へ響き渡つた。この時わが素戔嗚は、大日貴(おほひるめむち)と争つた時より、高天原の国を()はれた時より、高志(こし)大蛇(をろち)を斬つた時より、ずつと天上の神々に近い、悠々たる威厳に充ち満ちてゐた。

(大正九年)

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