乞食の名誉

4話

2,556字 約5分 2013年7月2日 公開

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 その頃とし子は、友達のHから雑誌の仕事を全部ひきついでゐた。彼女がその雑誌を引きつぐ事になつたのも、Hからその仕事を持つてゐては勉強が出来ないから止めると云ふ決心を話されて、折角持ち続けて来たものを止めると云ふ事が惜しいのと、他の一方にはこの仕事を利用して、自分の勉強の時間を、仕事の時間から出さうと云ふ魂胆もひそんでゐた。そして、その雑誌の同人の一人であるY夫人の処を訪ねたとき、其処でY氏が夫人の為めに、いま大きな社会学の書物を読む計画があるから勉強する気ならと誘はれて、毎週二回くらいづゝ其処に通ふ事になつたのであつた。Y氏は、その書物を手に入れる事がむづかしい為めに、毎週読む筈の幾ページかの部分をわざ/\タイプライタアで写さして送つて寄こした。とし子は、その親切を、本当に、心から感謝しながら、少しでも、さうした勉強の機会を外づさないやうに心懸けてゐた。

 けれど、とし子が家の外に仕事を持つことになつたのは、家族の人には、大変な迷惑でも振りかゝつたやうに感ぜられた。この頃になつて、子供は前より手がかゝる位であつたけれど、それには、W夫婦と云ふ人達が親切に大抵毎日来ては面倒を見てくれた。汚れたものゝ洗濯、掃除、さう云ふことにまで働いてくれた。妹などには別に何一つ重い負担がふえる訳でもなかつた。それでも此度は、さう云ふ人達に、よけいな手伝ひをさせて、毎日のやうに出入させる事に対して、いろ/\な批難が矢はり、とし子の仕事の上に降りかゝつて来た。ことに書物をよみに他所(よそ)まで出かけてゆくなどゝ、家持ち子持ちのする事ではないと云ふ激しい反感が(しき)りに起された。とし子はもう、そんな事に対しては一切無関心な態度でゐるより他に仕方はないと思つた。

 其の夜のとし子の悩みは、矢張りそれに関連したことだつた。母親は例のとほりに、子供を持つた女が、始終出歩くことの不可をしきりに云つた。そしてだん/\に、家の中のきまりのつかないことをならべたてゝゐるうちに、とうとう総てが男の怠惰が原因だと云ふ処まで押して行つた。母親に、露骨に云はせれば、彼が遊んでゐる為めに、主人としての男の権威が踏みつけにされるのだと云ふのであつた。そして、男が踏みつけられてゐる為めに、自分までが、とし子自身がさうした我まゝをしたい為めに、総ての家の外の事までを自分で背負つてゐるのだと云ふ事にもなつた。ふたりは其の夜さん/″\に母親の為めに愚痴を云はれ、口ぎたなく罵られた。そして母親の云ふ処は、せんじつめれば、彼女を家庭の内にとぢ込めて、彼女の仕事をうちの中だけの事にして、自分の手ごろに合ふやうな嫁にするやうに、それは早く何かの職業につくやうにと云ふ息子への注文であつた。けれども、ふだん思つてゐること、不平に耐えないことを、何も彼も、順序なしに、一度に出して仕舞はうとするので、滅茶々々なものになつてしまつた。

 とし子はそれを黙つて聞いてゐた。彼女は母親の気持には理解も同情も出来た。如何に口汚く罵られても、いやみを云はれても、別に腹立たしい気は起らなかつた。しかし、どうしてもこの家族の人達と一緒に生活することは我慢がならないと云ふ事だけは不断よりも一層強く感じられた。例へ男に何かの収入の道がついたとしても、彼女は決して母親の(ねが)ふやうな、嫁になりおほせる事が出来ない事を思ふ程、さうして、母親が必然に自分の思ふ通りになるものと極めてゐる気持を考へれば考へる程、これから先きの長い双方の暗闘が、とし子の心を暗くするのであつた。

 とし子は坐つてゐればゐるで、何時までも、一つ事を繰り返されるのがいやなのと、丁度Y氏の処にゆく晩なので、子供のことを頼むのも面倒と思つて、子供を背負ふて家を出たのであつた。途に母親の言葉を思ひ出すと今度はその無反省な、虫のいゝ、または悪感にみちた母親の云ひ分に対して、先刻その前でしたやうな冷静な気持での同情などは出来なかつた。不断忍んでゐる多くの不快が、一時に雲のやうに簇々(むらむら)と頭をもたげ出して、その一つが、彼女のそれに対する憎悪をそゝるやうに、明瞭に思ひ出させるのであつた。そして、自制を失つた感情は一斉にその記憶によびさまされて躍り上つて来るのであつた。さうなると、とし子はもう家族の人々に対して、何とも云へない憎悪を感ずるのであつた。どうしていゝか分らないやうな、ふだん抑へてゐるすべての感情の為めに、一時に(さいな)まれた。

 しかし、やがて、その感情が引いてしまふと、後はどうする事も出来ない事実に対する深い悩みと、それに対する底しれぬ哀しみが残るだけであつた。

 男と別れさへすれば、それ等との関係は片づいて仕舞ふ。本当に、何の雑作もなく片附いてしまふ。それは分り切つてゐる。けれど今、あの男と別れる事が出来やうか? あの男に対しては愛もある、尊敬も持つてゐる。そして、今あの家を自分が出れば困るのは男ばかりだ。自分が、少々不実な女と見られる位は仕方がない。けれど、あの男を、自分のやうなものにだまされる、馬鹿な、ウスノロな男だとあの母親の口から罵らせる事は辛らい。けれど、それもまんざら忍べない事はない。前にはさう決心した事もあつた。けれど今は子供がゐる。子供がゐる。これをどうすればいゝのだらう? あゝ、矢張り、子供の為に出来る丈けの事は忍ばなければならないのだらうか? 前には、意久地のない事だと思ひもし、云ひもした、その子供の為めと云ふ口実を、自分も口にせねばならないのだらうか? 仕方がない、仕方がない。とし子は一生懸命に目を(つむ)らうとした。その下から直ぐ、深い悔恨が湧き上る。不用意に、かうした家庭生活に引きづり込まれた自分の不覚が恨まれる。思ふまいとしても、自分の若さが惜しまれる。自由な自分ひとりの意志で自分を()かしたいばかりに、何時も争ひを続けながら、直ぐまた次のものに囚はれる自分の腑甲斐なさがはがゆい。どうすればいゝ自分なのだらう? あゝ! 本当に、何物も顧慮せずに活きたい。たゞそれ丈けの望みが何故に果せないのだらう?

 多くの気まづさと、冷たい反目が待つてゐる家! もう帰るまいか、逃げて仕舞はうかと思つた家! 其処に向つてかへりながら、とし子は、ぢつと思ひふけつてゐたのであつた。

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