5話 五
読み方を変える
頭の上には、真青な木の葉が茂り合つて、真夏の焼けるやうな太陽の光りを遮ぎつてゐた。三四間前の草原には、丈の低い樫の若木や栗の木が生えてゐるばかりで、日蔭げをつくる程の木さへなく、他よりずつと高くのびた草の、深々とした真青な茂みの上を遠慮なく熱い陽が照つて、草の葉がそよぐ度びによく光る。とし子は、森の奥から吹いて来る冷たい風を後ろに受けながら、坐つて、草の葉の照りをうつむいた額ぎわに受けながら、ぢつと書物の上に目を伏せてゐた。それは、
『伝道は、或る人の想像するやうに、「商売」ではない。何故なら、何人でも奴隷の勤勉を以て働らき、乞食の名誉を以て死ぬかも知れないやうな「商売」には従事しないだらう。かくの如き職業に従事する人々の動機は、ありふれた商売とは違つてゐなければならない。誇示よりは深く――利害よりは強く――。』
と云ふ言葉を冒頭においた、エンマ・ゴルドマンの伝記であつた。とし子は、その筆者の調子のいゝ然し熱情のこもつた文章にひかれて熱心によみ進んでゆく。それは主に、一女工として移住して来た若いエンマ・ゴルドマンが、知名な無政府主義者としてアメリカの公生活中に異彩を放つやうになつた今日までの、多くの障礙と困難に戦つた目ざましい彼女の半生が描いてあつた。
其処には、悉ゆる権力の不正な圧迫が如何に彼女を殺さうとしたかゞ、また、理解を遮ぎられた彼女の仲間でさへもが如何に彼女の霊魂をかきむしつたかゞ明白に描かれてあつた。そして、彼女はそれ等の凡てに打ち克ち、知名の伝道者として、何処までもその不屈の精神と絶倫の精力と多くの人の持つことの出来ない勇気をもつて、絶えず困難な彼女の仕事を続けてゐるのだ。とし子は、その彼女の如何なる困難に出遇つても屈する事を知らぬ強い精神に、その困難に出遇ふ程燃えさかる真実に対する愛の情熱に心を引かれるのであつた。同時にまた、彼女を迫害する諸権力の陋劣な手段も悪まずにはゐられなかつた。更に、深い理解と友情の必要な場合程、俗衆と同じ見地にまで成り下る暗愚な仲間に対する侮蔑を禁ずる事が出来なかつた。
『革命思想の代表者は二つの火の間に立つ。一方に於いて社会状態から生ずる悉ゆる行動に対して彼に責を負はす現在権力の迫害。他方に於ては、狭い見地から屡々彼のあらゆる活動を判断する、彼自身のもとにある同主義者の理解の欠乏。斯くして主動者は、屡々彼を囲繞する群集の中に、まつたく孤立する。彼の最も親しい友人すら、如何に彼が孤独寂寞を感じてゐるかを理解するものは稀れだ。それが公衆の眼に顕著な人の悲劇である。』
筆者も彼女の、半生の苦悩を描く前にまづさう書いてゐる。とし子は、さうした一句々々にも強い同感を強ひられるのであつた。
彼女は一八六九年にロシアのコブノ地方で生れ、七歳までカランドのある土地で育つた。両親とも猶太人で、父は其処で官吏をつとめてゐた。七歳から十三歳までは東プロシアのケニヒスベルグの祖母の許で育つた。その当時の小さなエンマはまつたくドイツの雰囲気になづんでゐた。彼女の好んで読んだものはマルリツトのセンテイメンタルロオマンスであつた。又彼のルイ女王の非常な称讃者であつた。しかしやがて、彼女の重要な最初の一転機が来た。一八八二年に、彼女の両親は彼女を伴ふて、セント・ペテルスブルグに移つた。其処でエンマは全く違つた世界を発見した。
当時のロシアは、国中に大きなあらしが吹きまくつてゐた。専制政治と智識階級の間の死物狂ひの闘争が国中に漲つてゐた。一八八一年にはアレキサンダア二世が斃された。さうして、彼女がペテルスブルグに到着した八二年には、その暴君の死刑を執行したソフイア・ペロヴスカヤ、ゼリアボフ、グリネヴイツキイ、リサコフ、ミカイロフ、その他の勇敢な人々は既に不死のワルハラに、はいつてゐた。世界はかつてまだこのやうな、自由の為めの戦ひを見たことはなかつた。虚無党殉教者の名が万人の唇に上つた。そして、幾千の若い追随者がその戦ひの中に飛び込んで行つた。革命的感情が、全露西亜の悉ゆる階級に滲透した。露西亜語の研究につれて、若いエンマもまた革命思想の伝道者とその新思想に接近した。マルリツトの位置は忽ちにネクラソフやチエルニシエフスキイによつて奪はれた。そして彼女は自由の為めの戦ひに一生を捧げやうと決心する程の、炎ゆるやうな熱心家になつた。
然し保守的な両親には、この新思想は理解する事が出来なかつた。魂をかきむしるやうな家庭内の争ひが続けられた。そして彼女はとう/\彼女自身で生活の途を立てやうと決心した。そうして他の多くの人々が、『人民の中に』這入つた例にならつて、彼女も或るコルセツト製造の工場の女工として這入つた。若しも彼女が、そのまゝさうしてロシアに止まつてゐたら、他の人々と同じく早晩、シベリアの雪中にうづめられて仕舞ふのであつたかもしれない。然し彼女の為めに、更に、新しい局面が展かれた。彼女が十七歳になつたとき、姉のヘレンと共に、大きな、自由の国、新らしい光明の世界の、アメリカを慕つてロシアを後ろにした。
しかし、アメリカに対する理想的概念は、直ぐに破られた。ザアもゐずコサツクもゐず、チノヴニクもゐない、共和国、自由平等の国では、一人のザアの代りにその数人を発見した。コサツクは重い棍棒を持つた巡査に代り、チノヴニクの代りにもつと苛酷な工場奴隷使役者がゐた。さうして、彼女はロシアのそれよりもずつと、組織立つた、不自由な、些の慰藉もない苛酷な工場に仕事を見つけた。彼女はまるで、牢獄に等しいその工場生活に、その暗い冷たい雰囲気に窒息しさうになつた。しかし、彼女の為めに更に重要な場面が、それからそれへと展けてゆく。
若いエンマの前に展かれる、彼女を一層正しい処に導いてゆく多くの社会的事実が、更に深くとし子の心を捉へた。一八八〇年代のロシア、その頃の革命運動については一エピソオドでも、のがさずに知りたいとおもふ程、とし子はそれ等の話にふれると興味をそゝられるのであつた。エンマは、その運動を目撃し、そして直接にその洗礼を受けた。その上に、更に彼女を自覚した伝道者につくり上げる多くの都合のいゝ局面が彼女の前に展開されるのだ。とし子はその若いゴルドマンと、彼女をとりまく周囲に、その周囲の生きた事実に導かれるゴルドマンが、心から羨ましいやうな気持で、読み進んで行つた。悉ての事実が、それを読む丈けのとし子を興奮さす程にも、ゴルドマンにとつては、都合のいゝ、試錬であつた。