乞食の名誉

7話

2,914字 約6分 2013年7月2日 公開

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 多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジヤステイス』を拾ひ上げる事が現在の社会制度に対してどれ程の反逆を意味するかと云ふ事はとし子も前から、いくらか理解はしてゐた。けれど、さう云ふ社会的事実に対しては殊にうといとし子には、一人の煽動者に対して、大共和国の政府がとつたあらゆる無恥な卑劣な迫害手段は不思議な程であつた。始めて知り得たそれ等の事実に対して、とし子は彼の数多(あまた)の人々をシベリアの雪に埋めた旧ロシアの専制政治に対してよりも、もつと違つた、心からの憎悪を感じないではゐられなかつた。

 しかし、それよりも更に一層強くとし子の心を引きつけたものは、何よりもゴルドマン其人の勇気であつた。燃ゆる情熱であつた。何物にも顧慮せずに自己の所信に向つて進む彼女の自由な態度であつた。読み進んでゆく一頁毎に、彼女の立派な態度は、敵の陋劣な手段と対して、どんなに、とし子の眼には輝やかしく映つたらう? とし子は静かに自分達の周囲をふり返つて見た。

 此処でも、凡ての『ジヤステイス』は見返りもされなくなつてゐた。悉ての者は数百年も、もつと前からもの伝習と迷信に(なず)んだ虚偽の生活の中に深く眠つてゐた。偶々(たまたま)少数の社会主義者達が運動に従事しようとしても、芽ばえに等しい勢力ではどうする事も出来ない。束縛のむすび目の僅かなゆるみをねらつて婦人の自覚を主張し出した自分達にしても、何一つ満足な事は出来ない。そして必ず現はれなければならない新旧思想の衝突が本当に著しい社会的事実となつて現はれる事すら、まだよほどの時をおかなくてはならないのではあるまいか、とさへ考へさゝれるのであつた。

 とし子はそんな事を考へながらも、すばらしいゴルドマンの生活に対して、自分達の生活の見すぼらしさをおもはずにはゐられなかつた。

『生き甲斐のある生き方』は、とし子が自分の『生』に対する一番大事な願望だつた。何物にも煩はされず、(おお)きく、強く生きたいと云ふ事は、常に彼女の頭を去らぬ唯一の願ひであつた。その理想の生活が、ゴルドマンによつてどんなに強くはつきりと示された事であらう?

 本当に、それ程の『生き甲斐』を得る為めになら、『乞食の名誉』もどんなに尊いものだか知れない。その『名誉』の為めなら、奴隷の勤勉も何んで惜しまう?

 だが一体、何時になつたら日本にもさう云ふ時が見舞つてくれるのだらう? さう考へると、とし子は急につまらない気がした。さうして染々と、人間の個々の生活の間に(よこた)はる懸隔を思はずにはゐられなかつた。

 とし子達が、その機関誌『S』を中心としてつくつてゐる一つのサアクルは、在来の日本婦人の美しい伝習を破るものとして、世間からは批難攻撃の的になつてゐた。みんなはムキになつてその批難と争つた。けれどそれがどれ程のものであつたらう? たゞみんなその『S』誌上に僅かな主張を部分的に発表するのが仕事の全部であつた。集つて話すことも、自分達の小さな生活の小さな出来事に限られてゐた。そして、みんなが与へられたものを着、与へられた物を食べ、与へられた(へや)に住んで、小さな自己完成を計つてゐた。実際に社会的生活にふれてゐるものは殆んどなかつた。『S』誌に向つての攻撃の一つは、物好きなお嬢様の道楽だと云ふのであつた。実際さう見られても仕方のない程、みんなの生活は小さかつた。皆んなが自分達の生活の弱点に気がねをしながら婦人の自覚を説いた。けれどそれは決して道楽ではなかつた。皆んな一生懸命だつた。けれど、まだ自分達の力をあやぶんでゐる皆は、本当に向ふ見ずに種々な社会的事実にブツかるのが恐いのだつた。然し彼女等の極力排している因習のどの一つでも、現在の社会制度を無視して残りなく根こそぎにする事が出来るであらうかと云ふ事になれば、どうしても『否』と答へるより他はなかつた。けれど、その点には出来るだけ触れたくもないし、触れずにゐればそれで済ましてもゐられるのが、皆んなの実際であつた。

 けれど、とし子だけは、そのサアクルの中でも、ちがつた境遇にゐた。彼女は一たんは自分から進んで因習的な束縛を破つて出たけれど、何時か再び自ら他人の家庭にはいつて、因習の中に生活しなければならぬようになつてゐた。彼女は其の最初の束縛から逃がれた時の苦痛を思ひ出す程、其の苦痛を忍んでもまだ自分の生活の隅々までも自分のものにする事の出来ないのが情なかつた。彼女はたゞそれを、自身の中に深くひそんでゐる同じ伝習の力のせいだとおもつてゐた。さうして彼女はそれを理知的な修養の力によつて除くより他はないとおもつてゐた。しかし、彼女の生活は、他の友達よりは、他人との交渉がずつと複雑にされなければならなかつた。そして其の他人の意志や感情の陰には、到底、彼女の小さな自覚のみでは立ち向ふことの出来ない、社会と云ふ大きな背景が厳然と控えてゐた。彼女は、それを思ふと、どうする事も出来ないやうな絶望に襲はれるのであつた。自分ひとりが少々反抗して見たところで、あの大きな社会と云ふものがどうならう? と思つた。けれど、と云つて、自分の握つてゐる『ジヤステイス』を捨てる訳にはゆかない。『要するに、皆んなが自覚しなければ駄目なのだ』さう思ひながら熱心に、矢張り自己完成を念じてゐた。けれど、いつかは一度は立ち直つて、その大きな力にぶつかる時があるにちがひないとは其の度びにひそかに考へてゐた。

 けれども今、とし子に示されたゴルドマンの態度はまるで違つてゐた。彼女は社会の組織的罪悪を、その虚偽を、見のがす事が出来なかつた。彼女はその人間の心をたわめ、冷くする社会組織に対して激昂した。そしてその虚偽や罪悪に対する憎しみの心を、其のまゝそれにぶつかつて行つた。本当に何物も顧慮する隙を持たなかつた。たゞ、正しい自己の心を活かす為めに、多くの虐げられたものゝ為めに、全身全霊を挙げて其の虚偽に、罪悪に、ぶつかつて行つた。其処に彼女の全生命が火となつて、何物をも焼きつくさねばおかぬ熱をもつて炎え上つてゐるのだ。とし子の頭はそれを思ふとクラ/\した。今にも何か自分もさうした緊張した生活の中に悉てを投げ棄てゝ飛び込んで行きたいような気持に逐はれて、ぢつとしてはゐられないような気がするのだつた。

 彼女が、そんな回顧に耽りながら、沈み切つた顔をうつむけて家に帰りついた時には、雪はもう真白にすべてのものを包んでしまつてゐた。

 子供を床の中に入れると、そのまゝ自分も枕についたが、眼は、どうしても慰さめ切れぬ心の悩みと共に、何時までも悲しく見開いてゐた。電燈の灯のひそやかな色を見つめながら果てしもなく、一年前にゴルドマンの伝を読んで受けた時の感激を、まざ/\と思ひ浮べて考へつゞけてゐた。

 それは、最近に彼女の心の悩みが濃くなつてからは、殊に屡々頭をもたげて彼女を憂欝にするのであつた。そして、一年前よりは一層複雑になつた現在の境遇に省みて、諦めようと努める程、だんだんに其の感激に対する憧憬が深くなつてゆくのが、自分にもハツキリと意識されるのであつた。

[『乞食の名誉』聚英閣、一九二〇年五月二八日]

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