4話 4
読み方を変える
「先生」と丘助手が呼びかけた。
「うふふん。――」と博士は咳払いをもって答えられたが、講義の腰を折られたことを腹立たしく感じていられることは、その咳払いの調子からソレと察せられるのだった。
「先生。これは例の興安嶺殺人事件と関係のある問題なのでございますか」
「……」博士は無言で、暫しは口をモゾモゾせられたが、これは変者をもって鳴る博士の性状として「然り」を意味するものに外ならぬ。「それで三十九人の同車していた連中について、この興奮曲線をとったのじゃが……」博士の話はイキナリ実験の話へ飛んだのである。
博士としては無理もないことである。理学博士木戸信之氏は真面目なる学徒以外の何者でもない、随ってシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでも、また帆村荘六でもないから、事件の続き具合などを話す気持はない。これは筆者が鳥渡解説をして置こう。
40-1=39で、三十九人の残りの人々の上に、殺人の嫌疑が落ちた。殺人であって自殺ではないことは、後に隧道の中から探し出された轢断屍体の咽喉部に残る紫色の斑紋から明らかなことだった。扼殺――つまり喉を締めたのだ。そして屍体を窓の外へ突き落としたのだった。屍体といってもまだ生暖いやつが、車輛と車輛の間からレールの上に落ちるが早いか、ザクリとやってしまったのだった。パッと飛び散る血潮が車輪から車体の下部から周囲一面を真赤に染めた。
さてこれは本来ならば、大した問題にもならず、通り一遍の刑事問題として扱われ、適当な人間が犯人と名乗り出て処刑されれば済む筈だった。だが本件に限り甚だ面倒な事情があった。殺されたのは、「松」こと椎名咲松という男であって、これは団員となっているが、実は其の筋の密偵をつとめていた人物だった。椎名咲松の殺されたことは公けに対しての挑戦と見られた。そこで事件は俄然複雑な雲行きとなって、其の筋では其処に立ち現れた偽のロボット犯人をオイソレと受取って処刑するのでは、一味への威厳上どうしても好ましからぬことであった。どうしても真犯人を見出して処刑し、永年の癌であった彼等一味の、のさばり加減を撓める必要があった。
ところで犯跡を調べるということになると係官はハタと当惑しないわけにゆかなくなった。それというのが、なにしろ同車していた三十九名は皆一味のもので、親分の岩の命令で互に連絡をとり、決して都合の悪い真実を喋ろうとはしなかった。そればかりではない。なにしろ真暗な隧道内の出来ごとだ。調べるにして調べるべき問題がない。犯行のあった時刻の前後五分間というものは、全く暗黒だったのだから。今から内地の優秀な係官を派してもこれも駄目だった。証拠とすべきものが非常に尠い上に、悪に長けた三十九名が気を合わせて証拠湮滅をはかるのだから、これは探し出そうという方が無理である。
遂に万策つきて、已むなく木戸博士の出馬を乞わねばならぬこととなったわけだった。博士も自信は大してあるわけではなかったが、考えの末自分の研究装置に多少の改良を加えて、これに臨むこととなった。そこで三十九人の生き残った一味に対して、「興奮曲線」がとられたのだった。三十九枚の曲線から、博士が最後に摘出したものは三枚で、これが烏山栄二郎、磯谷狂助、犬塚豹吉という人間から得たものだった。三人は未だに、博士の研究室に監禁せられている。他の三十六人は釈放せられ、或者は再び満洲に赴き、或者はもう断念して他へ足を向けた。
「……その中でわしの注意を集めたのは、この烏山、磯谷、犬塚の三人の容疑者のものじゃ」
と博士は語られる。
「一体この興奮曲線の種類に、ABC云々と区別することは出来ているのじゃが、Aは何の興奮、Bは何の興奮という風に、全部がハッキリ判っているわけではない。目下わしは研究中なのだが、まだ完全でない。しかし今度の問題を解くには充分間に合う。というのが、此のCという興奮は憎悪とか嫉妬とかいう種類のもので、このように著しいのは三人に限る。殺人の動機としては、充分に憎悪なり嫉妬の興奮がないと、手を下せないものじゃ。この三人のみに、このC興奮があることがわかった。過去現在将来に人殺しをするとすればこの三人の内じゃ。
ところで Fig. 1 と Fig. 2 の烏山、磯谷の両名のものは先ずよい。注目すべきは Fig. 3 の容疑者犬塚のものじゃ。これにはF興奮と名付けるべきものが、極めて著しく出ているではないか。このF興奮とは何ものかというに、これはわしの研究結果によると、実に殺人興奮を現わすものなのじゃ!」
「すると此の犬塚という人が、殺人者なのでございますか」
丘助手は、あまりに明瞭な結果に舌を捲いて叫んだ。
「そうじゃ、犬塚豹吉が椎名咲松を締め殺して、列車から突き落したのじゃ」
「ああ、それにしても……」丘助手は、博士の門に入ることの出来た喜びを沁々と感じたことだった。「この憎々しく聳え立つ殺人興奮の曲線?」
「これさえ見れば如何なる悪漢といえども犯行を隠しきれるものではない」
「先生。では此の装置を早速大量に製作して全国の法廷と警察に送られては如何でしょうか。無駄な取調べを廃して、直ぐ事実が判明するわけですから、司法上の一大改革だと思います」
「だがしかし……。うふふん」と木戸博士は首を左右に振った。「この興奮曲線を取るには非常な熟練が要るのじゃ。大学院を出てきた君にすら、こうはうまく取れない筈じゃ」